goo blog サービス終了のお知らせ 

オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

核の先制不使用

2016-08-20 | 戦争
米国のオバマ大統領が核兵器の「先制不使用」宣言を検討しているという。相手が核攻撃をしてこない限り核兵器を使わない政策で、実現すれば米核政策の大転換になる。
核の先制不使用は偶発的な核戦争のリスクを回避できる利点がある。米国が先制核攻撃はしないと宣言すれば米国の意図を誤解して核戦争が起きる可能性は大幅に小さくなる。
川口順子元外相とエバンズ元豪外相らアジア各国の元閣僚や学者ら40人が連名で「アジア太平洋の米国の同盟国が先制不使用を支持するよう求める」とする共同声明を発表し、日本に支持するよう促した。両氏を共同議長とする核軍縮の国際委員会は2009年の報告書で、核廃絶実現までの経過措置として「すべての核保有国が核の先制不使用を宣言すべきだ」と提案している。核の先制不使用は国際的な世論だ。一方で、核戦力を強化する中露や核開発を進める北朝鮮など日本は核の脅威にさらされている。日本は米国の「核の傘」を自国を守る安全保障の大きな柱にしてきた。
米紙ワシントン・ポストによると、核の先制不使用について、安倍晋三首相は北朝鮮への抑止力が低下すると米側に懸念を伝えたという。
米国がただちに核の先制不使用を宣言した場合、米国の「核の傘」が弱まらないかと懸念を抱くのはもっともだ。反対論は同盟国の韓国や英仏などに加え、オバマ政権の主要閣僚からも出ているという。
しかし、唯一の被爆国として「非核三原則」を堅持する日本が、核廃絶に向けた新たな動きにブレーキをかけるだけでいいのか。
中国はすでに核の先制不使用を宣言しており、ロシアも旧ソ連時代は宣言していた。米国が主導する形で米英仏中露の国連安保理常任理事国がそろって核の先制不使用に合意することが最善ではないか。それを後押しするのが日本の役割だ。仮に米中が合意して宣言しても日本の安全が守られるか疑問が残るが、核保有5カ国が足並みをそろえれば核戦争のリスクは格段に下がる。実現すれば北朝鮮への圧力ともなろう。オバマ政権は核戦略を見直し、核兵器の役割を低減させる一方、圧倒的な通常戦力の構築で抑止力を維持する方針を示した。 安倍首相はオバマ氏と訪問した広島での演説で「核なき世界」への責任を誓った。「核兵器依存」からの脱却を試みるオバマ氏とともに核の先制不使用につながる環境整備に力を尽くすべきだ。(毎日 社説)
 
核の世界では「先制使用」は取り返しのつかない事態となり、国自体が消滅することにつながり、核兵器保有国はその危険性を十分認識している。最大核保有国が核の先制使用を行わないとの宣言は大きな意味を持つ。オバマ氏は5月に現職米大統領として初めて広島を訪問した際の演説で、「私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければならない。私が生きているうちにこの目標は達成できないかもしれないが、たゆまぬ努力が大惨事の可能性を小さくする」と訴えていた。
 
核廃絶の道筋を探る賢人会議の共同議長を務めた川口順子元外相と豪のエバンズ元外相らアジア太平洋地域の元閣僚や軍高官ら40人が16日、オバマ米政権に核兵器の「先制不使用」政策の採用を強く促し、「太平洋地域の米同盟国」に採用支持を求める声明を連名で出したが、被爆国でありながら先制不使用採用に反対の日本政府の姿勢を変えることはなかった。
核兵器の先制不使用に反対するのは、被爆者や多くの国民の気持ちに相反するものであり、核戦争を阻止するには、核兵器を全面的に廃絶する以外にない。唯一の戦争被爆国の総理大臣が取るべき態度は、核兵器のない平和で安全な地球をつくるため核兵器の廃絶に力を尽くすことであるはずなのだが。
オバマ大統領の宣言の裏には、中国が「核の先制不使用」のを見直すことを懸念し、アメリカもそれを採用することによって、中国の動きを封じようという考えがある。つまり、これに反対する日本の態度は、逆に中国の脅威を高めかねない。安倍首相の「『核兵器のない世界』に向け、努力を積み重ねてまいります」という言葉が口先だけのものであることがよくわかる。
 
今年は、NHKスペシャルが原爆投下のトル-マンの役割に対し、歴史を塗り替える素晴らしい検証を行った。
「原爆投下は戦争を早く終わらせ、数百万の米兵の命を救うため、2発が必要だとしてトルーマンが決断した」という捉え方が一般的だ。その定説が今、歴史家たちによって見直されようとしている。アメリカでは軍の責任を問うような研究は、退役軍人らの反発を受けるため、歴史家たちが避けてきた。しかし、戦後70年が経ち、多くの退役軍人が世を去る中、検証が不十分だった軍内部の資料や、政権との親書が解析され、意思決定をめぐる新事実が次々と明らかになっている。最新の研究からは、原爆投下を巡る決断は、終始、軍の主導で進められ、トルーマン大統領は、それに追随していく他なかったこと、そして、広島・長崎の「市街地」への投下にすら気付いていなかった可能性が浮かび上がっている。それにも関わらず大統領は、戦後しばらくたってから、原爆投下を「必要だと考え自らが指示した」と宣言した。
今回、NHKでは投下作戦に加わった10人を超える元軍人の証言、原爆開発の指揮官・陸軍グローブズ将軍らの肉声を録音したテープを相次いで発見し、証言を裏付けるため、軍の内部資料や、各地に散逸していた政権中枢の極秘文書を読み解いた。
 
これまで、原爆投下の目標から京都が除外されたのは「米軍が京都の価値を知っていたからあえて外した」などという見当はずれの説もあった。本番組は、米空軍基地に眠っていたグローブス准将のインタビューテープを掘り起こして上記の論争に決着をつけた。グローブス准将は原爆計画の責任者だった。1945年4月、原爆の完成を待たずにルーズベルト大統領が急死し、副大統領だったハリー・トルーマンはルーズベルトから何の引き継ぎもないまま、突然巨大国家の最高責任者となった。 グローブス准将は国家的なプロジェクト、22億ドルもの国家予算をつぎ込んだ計画の責任者でもあり、「終戦後に、これだけ金をかけて何をしていた?戦争勝利に何か貢献したのか?」と批判されることを恐れ、とにかく日本の敗戦前に原爆を落とそうと画策した。原爆の効果を最大限に引き出すために、半径5km以上の都市をリストアップして、その最有力候補が何と京都だった。しかも、紡績工場を軍需工場と申告し、京都を軍需都市であるかのごとく、装った。グローブス准将を始めとする米軍は一般市民を巻き込んで最大の効果を上げることしか考えていなかった。 グローブス准将は何度も京都への投下を進言するが、それを阻止したのが陸軍長官のヘンリー・スティムソンだった。彼は京都へ二度も訪問したことがあり、京都への投下に反対した。
 
「この戦争を遂行するにあたって気がかりなことがある。アメリカがヒトラーをしのぐ残虐行為をしたという汚名を着せられはしないかということだ」(スティムソンの日記より)
 
トルーマン大統領は京都投下を否認して、グローブス准将に「女性や子供は傷つけないように」と命じた。グローブス准将は京都を諦めて、広島に投下した。あたかも広島は軍事都市であり、市民など住んでいないかのように進言していた。確かに広島は軍港や日本軍司令部があり、軍事都市の側面があったことは否定できない。しかし、タ-ゲットは市民であり、原子爆弾の最大の効果を狙って、中心街に落とされた。また、長崎の投下は、タイプの違う原爆を試したいという実験的な側面が強い。長崎の原爆は、威力として広島型の1.5倍と言われ、プルトニウムの物性に由来する毒性の強い原爆と言われている。長崎市は周りが山で囲まれた地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減された。そして、3つ目の投下も予定されていた。
 
広島への投下を後で知らされたトルーマンは、「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」とスティムソンに語った。おそらくトルーマンは原爆投下を正当化するために「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救った」と宣言したのだろう。原爆投下を巡る決断は、終始、軍の主導で進められ、トルーマン大統領は、黙認するしかなく、広島・長崎が「市街地」であることにすら気付いていなかったようであり、投下の指示自体、明確には行われなかったらしい。今回の検証がなくても、4日間の間に、急いで違う種類の原爆を落とし、その効果を評価するために調査団がやってきたのだから、動物実験のような感覚で落としたことは容易に想像ができた。しかし、トル-マンが明確に決断しなかったという事実は、アメリカの政治家は軍人とは違って、無辜の子供たちを傷つけることには、消極的だったということが推測でき、いくらかほっとした。
 
日本の軍人の残虐性も凄まじい。確かに2発の原爆投下がなかったら、終戦がどの程度遅れていたか、わからない。自爆テロと変わりない特攻を考え出して、敗戦を遅らせ、戦死者を増加させた。もしも、日本が先に原爆を開発していたら・・・・考えるだけでも恐ろしい。第3の原爆投下がなかったこと、ソ連侵攻によって日本が分割されなかったことは、アメリカによる核の先制使用のおかげだったかもしれない。核の先制使用が戦争を終わらせるのは相手側が核を持っていない場合だけである。核による報復が連鎖的に行われれば、小さい国など跡形もなくなってしまう。
 
核の先制使用と言うのはどういう場合が考えられるだろうか?日本政府は相手が核攻撃をしてきそうなときに、こちら側が先制攻撃をかける場合を想定しているように思う。しかし、核を持っている国、核の傘下に入っている国に突然核攻撃をしてくる国があると考える国自体が人間の叡智を信じない、かなり好戦的で挑発的な国ではなかろうか。普通は通常兵器で争いになり、負けそうになった側が核の使用を考える。初めから核を使って先制攻撃をかけることは考えづらい。そこまで疑心暗鬼に陥っていること自体が恐ろしい。
負けそうな国に対して核の先制使用を行い、相手側の核使用を止めさせるのが核の先制使用だと思われる。アメリカは核を持たない国に対して核を使用した。あと少しで負けそうな国に対して、先制的に核を使用するのが人道的なことだとは到底考えられない。オバマ大統領が核の先制不使用を宣言することはないだろう。せめて、核の持たない国に対しては絶対に核攻撃をしないことぐらいは宣言してもらいたい。
 
日本への原爆投下は、十分な根拠にもとづく明確な指示なしに行われた。戦前の日本政府も帝国主義の仲間入りをしたくて、国を滅亡寸前まで追いやった。大量破壊兵器があるとしてイラクに攻め込んだ米国の意思決定も、また単なる言いがかりだった。対外的、国民に向けての説明は国にとって都合の悪いことを隠すため、己の行為を正当化するために行われることが多い。
米軍にとって原爆投下は、それまでにかけた膨大な開発コストを無為にしないために必要なことだった。そうした事実は明らかにされず、対外的にはトルーマン大統領が「米軍の損害を最小化するために原爆投下は必要だった」と正当化した。どの国でもどんな人でも自己防衛のために積極的・消極的な嘘をつくことがある。指導者の嘘を見破るためにも情報を多方面から収集し、見識を深めることは重要である。
 
毎年この時期に戦争と平和について新しい発見がある。歴史が検証されるのは悪くない。過去に学ぶことで、未来をよりよくできる可能性はある。

なぜ世界から戦争がなくならないのか?

2016-02-13 | 戦争
『池上彰緊急スペシャル!』のテーマは「なぜ世界から戦争がなくならないのか?」。昨年11月にはパリで大規模なテロが起こり、たくさんの尊い命が犠牲になった。そして、過激派組織「イスラム国」に対し、アメリカやフランス、ロシアなどの国々が、空爆を続けている。そんな中、日本ではいよいよこの春、「安全保障関連法」が施行される。この法律を巡っては、「日本も戦争に巻き込まれるのでは?」と不安に思う方が多い。なぜ、世界から戦争がなくならないのか?人類は、平和を望んでいるはずなのに、なぜ、何度も戦争を繰り返すのか?その謎に迫り、今世界で起こっている戦争から「日本の平和」を考える!
 
フジテレビ で 3時間、"池上彰緊急スペシャル" を見た。政権からの妨害が あるようだが、池上氏がメディア界にいて 本当に良かったと思う。
フジテレビで制作したことが驚きだった。今回だけか、今後も続くのか。注目していきたい。
 
戦争は儲かるビジネスだということ、国家が世論を操作して、国民を戦争に導く過程が実例とともに紹介される。
 
湾岸戦争になるきっかけに、15歳の少女の証言があった。クェートへイラク兵が侵攻して、残虐行為を行ったと。その証言に米国民が怒り、それがイラクへアメリカ軍が攻め込むきっかけになった。
1990年10月、米国議会において、イラク兵が病院で赤ん坊を床にたたきつけたなどと涙ながらに惨状を証言、戦争に疑問を抱いていた米国世論は一挙に反イラク色に染まった。後に少女は駐米クウェート大使の娘で、現場にさえおらず、証言は虚偽であった事が発覚した。
クエ-トの民間団体、実はクエ-ト政府が関連し、その裏にはホワイトハウスの要望もあった。少女の証言を演出したのは、世界的に有名な広告会社。その証言映像を見て、アメリカの国民は湾岸戦争へGOサインを出し、中東戦争へずるずると進んでしまった。背後には、戦争すると儲かる業界がある。軍産複合体だ。
パパブッシュの国防長官だったチェイニ-は「国防総省の仕事を民間企業に委託」した。その後チェイニーはハリバートン社の経営最高責任者に就任、同社の国防契約高を飛躍的に向上させたため、今でもハリバートン社から毎年20万ドル近くの退職者報酬を受け取っている。息子のジョ-ジ・ブッシュ政権の時に副大統領に返り咲き、「軍産複合体」の代理人としてブッシュ政権を影で操る「史上最強の副大統領」となった。チェイニーと「軍産複合体」の関係は、イラク復旧事業を米陸軍が軍需産業ハリバートンの子会社に総額70億ドル(約8400億円)を無競争で発注した疑惑事件で明らかになった。
 
このように米国では「戦争屋」が副大統領になり軍需産業のために戦争を推進することが堂々と行なわれている。日本も「戦争の民営化」を具体化したチェイニーのように防衛省の仕事を民間に委託するようになる。莫大な利権を背景に戦争好きの国家になるのは時間の問題だろう。
 
国民はPR会社の策略にひっかかって、戦争を熱烈に支持してしまう。自国民の命やイラクの無辜の民を犠牲に、アメリカの政治家や軍産複合体が大もうけしたのだ。
 
戦争は、平和や自由、復興を掲げ、愛国心の思想を押し付けて始まる。その流れに乗らない人を非国民として扱う。メディアは政治に左右されてはいけないとはいうものの、戦争がはじまると、常に戦争支持のプロパガンタを先導してきた。特にCM収入で成り立っている民放が政府や産業界の意向に沿うのは当然のことだろう。そもそもメディアに公平な報道を期待するのは無理な話なのだ。
「大阪朝日」は1930年代の満州国建国のころ、軍部や政府の方針に反対の論調だった。
しかし、軍部、在郷軍人会、 右翼などからの攻撃と不買運動を受けて、新聞部数が減少し、社論を180度転換し、満州事変支持、満州独立論に賛成してしまう 。
 
アメリカは戦勝国だったから、懲りずに戦争を繰り返し、世界をテロの泥沼に引きずり込んだとも考えられる。敗戦国の日本は平和が保たれ、ドイツも戦争の当事国にはなっていない。
アメリカの軍産複合体が引き起こした湾岸戦争がイスラム国の台頭を許し、現在の混乱を招いたとも言える。アメリカが中東の独裁者排除に熱心なのは石油利権のためだ。アメリカに従属的な王国はその封建的なイスラム王国体制が堅固に守られている。
 
 抑止力という名目で軍拡競争が起こる。実際に戦争が起こった時の破壊力は地球を消失させるほど膨大だ。力の誇示で相手を屈服させる政治が人類を滅ぼすだろう。戦争は常に自衛、平和、自由を勝ち取るために始められるが、それは報復の連鎖の始まる時でもある。イスラエルとアラブの対立、キリストとイスラムの対立は永遠に続く。どちらかが滅亡しても、宗派間、民族間・・・・など対立の種は無限である。
人類は戦争の背後で暴利をむさぼる軍産複合体の存在を常に意識して、地球人の命を守ることを最優先に考えなければならないのだが・・・・

大東亜会議の真実 アジアの解放と独立を目指して(深田祐介)

2015-08-22 | 戦争
昭和18年11月、戦時下の東京にタイ、ビルマ、インド、フィリピン、中国、満州国の六首脳が集まり、大東亜会議が開催された。史上初めて一同に会したアジア諸国の代表が「白人支配からの解放」を高らかに謳いあげた時、日本の戦争は、欧米帝国主義を模倣して権益を追求する侵略戦争から、アジア民族解放の大義ある戦争へと大きく性質を変えたのであった。
本書は、戦況が思わしくない時期に突然開催された大東亜会議の真相について、当事者の証言をもとに丹念に検証した画期的労作である。戦後の呪縛ともいうべき“東京裁判史観”の虚偽を正し、日本にとって、アジア諸国にとっての戦争の意義を明らかにする。大東亜会議は「アジアの傀儡を集めた茶番劇」ではけっしてなかったのだ。
 
 
さまざまな利害を有する人たちがいる限り、公平な史観というのはありえないことをまざまざと感じた。
正直この会議は「アジアの傀儡を集めた茶番劇」に過ぎないと思っていた。しかし、集まった人物の経歴を読んでみると、茶番劇と言って、簡単には切り捨てられないものがある。
 
中国南京政府の汪兆銘・・・・
「日本政府に対して言いたいことは山ほどあるが要約すると3つの不になる。『上位不貫徹、前後不接連、左右不連携』。上役がよろしいと言っても下が聞かん。前任者が言ったことを後任者はそんなことは俺は全然知らんと問題にしない。左右の連携も全く欠けている。外務省がいいことを言ってくれたと当てにしていると、一つも陸軍は聞いてくれない。外務省が言ったことなど俺が知るかという態度だ。」
 
フィリピン代表のホセ・パシアノ・ラウレル・・・・
「率直に言って、日本はフィリピン人の心理をつかむに失敗しました。フィリピン民衆はこの3年間、初めて多数の日本人と接触して残忍なる民族なりとの観念を抱くに至りました。その掲げる理想は我々が共鳴出来るものでしたが、やっていることは民衆の生活を顧みず、かえって不安を生じさせるものであり、軍に対する不平不満の声は日に日に増し国中に広がるほどでした。特に憲兵の苛烈横暴に対する反感は政府要人に至るまで広がり、とうてい救いがたいものになっていました。」
「日本はなぜ、かつて台湾総督、児玉源太郎が台湾を統治した方法に則り、力をもって強圧するのではなく、人情をもってフィリピン民衆に臨まなかったのか?これが日本の失敗といわずしてなんであろうか」
 
満州国の張景恵・・・・・
「日本人ほど便利な民族はいないではないか。権威さえ与えておけば、安月給で夜中まで働く」
「日本の軍隊は世界一強いが、日本の軍人は戦争の意義を知らない。戦争は国と国との取引のひとつの手段に過ぎないものだ。日本の軍人は戦争と個人の果たし合いを混同して、どちらかが息の根を止めるまで戦おうとする」
 
 
自由インドのチャンドラ・ボース・・・・
「日本という国が偉いことは認める。良い兵隊がいるし、いい技術者もいて、万事結構である。ただし日本には良き政治家がいない。これは致命的かも知れない」
 
ビルマのバー・モウ・・・・
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」
 
大東亜会議で採択された「大東亜共同宣言」は内容そのものは大変理想的なものだった。
「しかし軍が現地でやったことがすべてを台無しにした。皆が日本を信じたのに、それを日本が裏切った」
 
「戦争は国益の衝突」であるのに対して、「民主主義対ファシズム」という教条的な対立図式を当てはめることによって、真相を単純化してしまい、東京裁判は「勝てば官軍負ければ賊軍」の裁定になってしまった。
しかし各国なりに一生懸命生きていたことを考えると、日本のみならず世界が第二次世界大戦の意味をもう一度考え直す必要がある。
単純な善玉と悪玉の戦いと見るのではなく、日本を美化するわけでもなく、いろいろな立場の人が語る日本に対する距離感が、この本を説得力あるものにしている。
 
 
 
満州建国当時は 「 満州建国」 をアメリカ建国になぞらえ、「満人のための、満による、満人の国家建設を謳ったが、理想主義者は次々と排除され、次第に日本の属領的位置に堕していった。 祝日の際の式典が「天皇陛下 万歳」に始まったことなど象徴的である。
しかし何故日本は国土の広狭・資源の有無を無視してまで「日米開戦」に踏み切ったのか、常識では考え難いが、日本に開戦を選択させるべく仕向けたアメリカの『責任』は大きい。
 
「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」これは東京裁判でのパール判事の言葉である。
 
勝ち負けを度外視しても開戦を選択せざるを得ない理由こそがまさに『ハルノート』である。開戦前夜の昭和16年11月26日アメリカ国務長官 コーデル・ハルが日本政府に対して通告してきた文書でこれを読んだ日本国はアメリカからの最後通告と解釈したのである。
 
当時日本はアメリカ・イギリス・支那・オランダによる対日経済封鎖により石油・ゴム・といった資源のほとんどを供給停止されていた。
東南アジアの国々はほとんど欧米の植民地である。その国々を独立させ対等貿易を行えば日本に活き残る道はある。アジアから欧米の植民地支配を排除せねばならないが、欧米と開戦できる国力は無い。そんな状況下にありながらも日本は日米開戦を回避すべく、ぎりぎりの条件を提示して日米交渉の妥結を願った。
 
その条件とは(甲案)
 1・ 日支(日本と支那)に和平が成立した暁には支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。
 2・ シナ事変(日中戦争)が解決した暁には「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。
 3・ 通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら太平洋全域とシナに対してもこれを認める。
 4・ 日独伊三国同盟への干渉は認めない
 
更に「甲案」での交渉決裂に備えて「乙案」も用意してあった。
 
 1・ 欄印(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する。
 2・ 更にシナ事変が解決した暁には仏印全土から撤兵する。
 
要するに日本に対する経済封鎖が解除され石油などの資源が供給されれば南方に進出する必要性は無くなる。それと引き換えに日本も全面撤退に応じるという内容である。
この事については駐日大使ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にとって最大の問題は南方進出では無く耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった」とかかれており、日本の南方進出が「領土的野心」等では無かった事を証明している。東京裁判でアメリカ人のブレークニー氏も「日本の真に重大な譲歩であり、日本の譲歩は極限に達した」と言っている。
 
 
しかしそれに対しアメリカは11月7日に「甲案」、11月20日に「乙案」をも拒絶し11月26日に日本が到底受け入れる事の出来ない「ハルノート」が提出された。
ハルノートは以下の文書である。
 
  1・ 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退
  2・ 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定)
  3・ 日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)
 
日本に対し大陸における権益を全て放棄し明治維新前の日本に戻れと言う事である。こんなロシアや欧米を利する条件を突き付けながら経済封鎖の解除には一言も触れていない。
日本は生存権を賭けて日米開戦の道を選択したと言うより開戦という選択を取らされたのである。
 
アメリカ流の屁理屈で言わせてもらえば日本の選択した『開戦』という道は自衛手段であり日本には一切の戦争責任は無いと言える。
 
東条はハルノートを読んで烈火のごとく、怒ったとあり、処刑前の手記に次のように記述している。
 
《英米諸国人に告げる》
今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。
しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。
私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。
我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。
いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
 
《日本同胞国民諸君》
今はただ、承詔必謹する〔終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。
この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。
ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。
不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
 
 
戦後、国土と国家主権は回復されてきた。対米従属を通じての対米自立は合理的な選択であった。
しかし、いつの間にか、日本は自立を忘れてしまったようだ。再軍備をするなら、まず自国を自分で守るのが先だろう。米軍基地の返還を求める意思すら持ち合わせていないようである。戦後70年にわたって、日本は絶えず米国の顔色を伺いながら、その許諾を求めている。70年談話に至るまで、米国にあらかじめ許可をもらっていたのだから、開いた口が塞がらない。
 
 親米派の政権以外は長期政権を保つことができないと言う指摘がある。田中角栄は米国の了解を得ずに中国との国交正常化を図ったため米政権の怒りを買った。親米派の政権以外は長期政権を保つことができない。最近では鳩山由紀夫首相が沖縄の米軍普天間基地の移設先を『最低でも県外』と言った途端、首相の座から引きずり下ろされた。日本の政治家、官僚、メディアが大同団結して辞めさせたように見える。
 
安倍首相の言う『戦後レジームからの脱却』はアメリカから押し付けられた憲法を改正して戦争のできる国にすること、それが自立した国だと思っているらしい。米国が起こしたイラク戦争に協力しても、アメリカの起こした戦争はすべて正しいと思っているらしく、日本の戦争協力に対する総括すらしない。安倍首相の言うように、国際社会の枠組みは急速に変わっている。覇権国家だった米国の衰退が始まり、中国が台頭し、イスラム圏の動向も不安定材料だ。にもかかわらず、日本政府は対米追従以外に何の戦略も持っていない。高齢化社会になり、経済成長なんか望むべくもないのに、中国と対等になろうとエリマキトカゲよろしく、アメリカの威を借りて威嚇している。その中国だって、一人っ子政策のせいで、それほど長く覇権国にはなれないだろう。身の程を知って、富を分配し、ゼロ成長の安定した社会を目指すべきなのに、経済的徴兵制を意識してか、格差社会の実現に熱心なようだ。
おじいちゃんを助けてもらったから、アメリカの信義を信じてるのかもしれないが、太平洋戦争はアメリカの挑発で起きた戦争ともいえる。他国の挑発に乗らないこと、かって日本を自衛の戦争に駆り立てたアメリカからの自立を一番に考えてもらいたいものだ。基本的に国など信用できる代物ではない。日本そのものが信義にもとる国だった・・・・・張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀など、悪の枢軸国顔負けだ。
 
日本では1938年からウラン鉱山の開発が行われ、1940年に理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。研究には理化学研究所の他に東京帝国大学、大阪帝国大学、東北帝国大学の研究者が参加した。この計画は、1944年3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。他方、日本海軍のF研究も1941年5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼した。こちらは遠心分離法による濃縮を検討していた。しかし、原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。技術的には、理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。 
敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された。理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊され、F研究責任者だった荒勝文策の当時の日誌によると、1945年11月20日に進駐軍将校が来訪し、荒勝は「全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のもの」と抗議したが受け入れられず、施設破壊後の実験室を「惨憺たる光景であった」と記している。荒勝には施設破壊ばかりではなく研究関連文書やウラン・重水などの提出も求められた。F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、その中には戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた。関係者の中からは、戦後に湯川を始め被爆国の科学者として核兵器廃絶運動に深く携わる者も現れるが、戦争中に原爆開発に関わったことに対する釈明は行われなかった。ニ号研究に投入された研究費は、当時の金額で約2000万円であった。ちなみに、アメリカのマンハッタン計画には、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されている。
 
日本の核兵器が先に実用化されていたなら、地球は惨憺たる状況になっていたかもしれない。核抑止力はこれだけ核が拡散してしまった状況で果たして効果があるのか?自滅を覚悟で打ち込む独裁者が現れたら・・・・・核兵器は報復の道具にしかならない。

 


誰にもらったとか問題ではない。9条の理念を置き忘れようとすることこそが問題なのだ。

2015-05-13 | 戦争
ベトナム帰還兵アレン・ネルソンが語る「憲法9条の持つ意味」は戦争を知らない世代が大半を占めてしまった日本に警笛を鳴らす。この素晴らしいNNNドキュメントを多くの若い世代に見て欲しい。9条を抱きしめて。 
ネルソン「平和憲法は日本人が考えたものではないとか、アメリカ人に与えられたものだと言う人がいます。しかし誰にもらったかは問題ではありません。平和憲法は私たちが進むべき未来を示しています。たとえ宇宙人がくれたものだとしても、全人類にとって大切なものです。問題は今、当初の平和の理念が置き去りにされようとしていることなのです。」
「第9条を読んだ時、自分の目を疑いました。あまりに力強くあまりに素晴らしかったからです。第9条はいかなる核兵器よりも強力であり、いかなる国のいかなる軍隊よりも強力なのです。日本各地で多くの学校を訪れますが、子どもたちの顔にとても素晴らしく、美しく、かけがえのないものが私には見えます。子どもたちの表情から戦争を知らないことがわかるのです。それこそ第9条の持つ力です。日本のみなさんは憲法に9条があることの幸せに気づくべきだと思います。ほとんどの国の子どもたちが戦争を知っています。」
「ご存知のように、多くの政治家が憲法から第9条を消し去ろうと躍起になっています。断じてそれを許してはなりません。みなさんとみなさんの子どもたちは、これまで憲法第9条に守られてきました。今度はみなさんが第9条を守る為に立ち上がり、声をあげなくてはなりません。」
元米海兵隊ベトナム戦争兵士アレン・ネルソンと、政治学者で同じく元海兵隊員のダグラス・ラミスの対話。
ラミス「米軍基地はアメリカという帝国の単なる手段ではなく、基地そのものがアメリカ帝国なのです。米軍基地は植民地です。アメリカの占領する縄張りなのです。私たちは平和憲法のもと平和な日本で暮らしています。日本は世界一の平和国家と言われています。でも同時に沖縄には米軍基地がある。これは幻想ですね。
ネルソン「確かにそこは大きな問題です。日本人は間接的に戦争に関与してきました。しかし9条のおかげで直接的に戦争には関わっていません。言い換えると第二次大戦後、日本は新たな戦没者慰霊碑を建ててはいない。そこが私には素晴らしいと思えるのです」
 
アレン・ネルソン氏は2009年、ベトナム戦争で浴びた枯葉剤が原因とみられる癌で死去。遺骨は本人の希望で石川県光闡坊に埋葬されている。彼が心の師と慕っていた住職・佐野氏は「彼は沢山の人を殺し、自分も死ぬほど苦しんだ。そういう彼にして初めて本当の9条の重みを知ってるのではないか。9条によって平和になるというよりも、9条そのものが存在することに希望が持てたんですね。9条は正義から生まれたというよりも、沢山の悲しみを通して生まれてきたもので。"こんなことは繰り返したくない、二度と嫌だ"という願い、それが誓いとなった。"平和への道はない。平和こそが道なんだ。"と常々おっしゃってた。真理を突いていますね。」
 
アレン・ネルソン奨学金。元はネルソン氏の闘病生活を支える募金だったが、今は彼がかつて人々を殺したベトナムで、貧しい子供たちへの教育基金になっている。

ユダヤ人迫害の歴史

2015-02-19 | 戦争

 イスラエルの歴史は、1948年の建国よりはるか昔にさかのぼる。『旧約聖書』によれば、紀元前11世紀ごろ、中東の地にイスラエル王国が成立し、ダビデ王やソロモン王などが治めていた。ユダヤ人にとって、イスラエルの地は「神がユダヤ人に約束した土地」と信じられている。 しかし、イスラエル王国は、紀元後2世紀にローマ帝国に滅ぼされ、ユダヤ民族は世界中に離散した。以来、イスラエルの地に帰還し、国を再建することはユダヤ人の悲願となった。ユダヤ人は、ヘブライ人、イスラエル人とも呼ばれるが、その定義は難しい。一般論として、ユダヤ教徒であること、母親がユダヤ人であること、のどちらかを満たせばユダヤ人となる。


 ユダヤ人に対する差別と迫害の歴史は、古くて長い。歴史上、最初に確認される迫害は、紀元前13世紀の「出エジプト」である。チャールトン ヘストン主演の映画「十戒」に詳しい。この頃、ユダヤ人の一部はエジプトで暮らしていたが、エジプト新王国による差別と迫害を受けていた。予言者モーゼが現れ、ユダヤの民を率い、エジプトを脱出後、聖なるシナイ山の頂上で神ヤハウェとの契約をさずけられた。これがユダヤ人への最初の迫害であり、ユダヤ教の起源となった。モーゼの死後、後継者ヨシュアにひきいられたユダヤ人は、ヨルダン川をわたり、イェリコの町とその地域を征服する。その後、紀元前11世紀頃には、サウル王のもとで建国を成し遂げ、後継者ダビデ王およびソロモン王の治世で、最盛期をむかえる。ところが、その繁栄も長くは続かなかった。ソロモン王の死後、王国は北方の北イスラエル王国と、南方のユダ王国に分裂したのである。その後、 北イスラエル王国はアッシリア帝国に(紀元前8世紀)、ユダ王国は新バビロニア王国に(紀元前6世紀)、それぞれ征服された。このとき、ユダ王国の人々はバビロンに強制移住させられたが、これが「バビロンの捕囚」である。多数のユダヤ人が虐殺され、出エジプトにつづく、第2のユダヤ人迫害であった。


 ところが、その新バビロニアもアケメネス朝ペルシャに滅ぼされてしまう。新しい支配者ペルシャは、新バビロニアやアッシリアに比べ、寛大な帝国であった。納税を怠らず、謀反や反乱をおこさなければ、生活はもちろん、習慣や文化も保護された。ペルシャの寛大さはユダヤ人に平和をもたらした。紀元前538年、ユダヤ人はエルサレムに帰還することが許されたのである。彼らは帰還後、神殿を再建し、その後、唯一神ヤハウェを信じるユダヤ教が成立した。これ以降、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになった。


 その1000年後、ユダヤ人迫害を決定づける歴史的大事件がおこる。イエス・キリストである。イエスは、ひたすらムチ打たれ、血まみれになり、ゴルゴダの丘で処刑される。イエスをローマ帝国に告訴したのはユダヤ教徒。さらに、銀貨30枚でイエスを売ったユダも、ユダヤ人。このことは、キリスト教本流をなす宗派や、イスラム教の信者たちに、ユダヤ教徒への根強い不信感と憎悪を植えつけた。イエスの死後2000年経過した現代まで存続している。神道や仏教そして、クリスマスまで祝う日本人には理解できない。


 イエスの死後、キリスト教はヨーロッパで急速に広まっていった。313年、ミラノ勅令が公布され、キリスト教が公認された。それと軌を一にするように、ユダヤ人への差別と迫害がはじまった。中世に入って、十字軍の遠征が始まったが、エルサレムを奪回した十字軍は、イスラム教徒だけでなく、ユダヤ人も虐殺した。 また、1881年には、東ヨーロッパで「ポグロム」とよばれる大規模なユダヤ人迫害が起こっている。「ポグロム」はロシア語で、ユダヤ人にたいする略奪、虐殺を意味する。ユダヤ人への差別や迫害は地球規模であり、全時代におよんでいる。
 

 そして、ナチスによるユダヤ人迫害は歴史上最も有名である。ユダヤ人の迫害は1933年頃からはじまったが、初めは宗教というよりは人種的理由によっていた。1850年代、フランスの外交官ゴビノーは、人種的な優劣を論じた「人種不平等論」を発表し、その中で、アーリヤ人種の優越性を唱えた。アーリア人であるドイツ・ナチス政権のユダヤ人の迫害は凄まじいものだった。ユダヤ人は財産を没収され、不当に逮捕され、処刑された。
 

 そして現代、ユダヤ人迫害の問題は被害者が加害者に変容し、より深刻になっている、パレスチナ問題・中東問題に発展し、宗教的憎悪を超えて、ユダヤ民族とアラブ民族の最終戦争の様相である。
 事の発端は、イギリスの2枚舌外交である。1916年、イギリスのエジプト高等弁務官マクマホンとアラブの指導者フサインとの間に書簡がかわされた。この協定は、アラブがオスマン帝国に反乱をおこす見返りに、第一次世界大戦後、イギリスがアラブ国家の独立を約束するというものだった。映画「アラビアのローレンス」に詳しい。イギリスは、アラブに対しこのような甘い約束をする一方、1917年、ユダヤ人にも同じような約束をした。パレスチナにユダヤ人国家の建設を容認するというものだった。イスラエル建国に伴って、その地に住んでいた数十万人のパレスチナ人が家を追われ、難民となった。
 イスラエル建国は国連に認められていたとはいえ、パレスチナ人にとって受け入れられるものではない。当然、パレスチナ人や彼らを支援するアラブのイスラム諸国は反発し、半世紀を経た今も紛争が続いている。

 1月7日にフランスの風刺週刊紙シャルリー・エブド銃撃で12人が死亡する事件が発生した後、パリのスーパーでは複数のユダヤ人買い物客が殺害された。2014年にはベルギーの首都ブリュッセルのユダヤ博物館で4人が殺害され、2012年にはフランス南部のユダヤ人学校でユダヤ教指導者1人と児童3人が銃殺された。2008年にはインドのムンバイでテロリスト4人がカフェやレストランを襲撃した後、小さなユダヤセンターを攻撃。ここでは若いユダヤ教指導者と妊娠した妻が拷問を受けた末に殺害された。古来からの憎悪が復活している。単にイスラエルの行動やパレスチナ人との長引く紛争の結果ではないという。攻撃のターゲットはイスラエル人ではなく、ユダヤ人だと言うのだ。
 中東報道研究機関によると、エジプトの聖職者ムハンマド・フセイン・ヤクブ氏は2009年1月、同国で人気のある宗教テレビ局で新たな憎悪を明確に述べた。「ユダヤ人がパレスチナを明け渡したら、われわれは彼らを愛し始めるだろうか。もちろん違う。われわれは決して彼らを愛することはない。パレスチナを占領しなくても、彼らは敵であり続けるだろう。彼らと戦い、彼らを打ち負かし、地球の表面にユダヤ人が一人もいなくなるまで戦いは続く。」 これは中東やイスラム世界に浸透している憎悪感情で、今や欧州にも浸透し始めている。
 そして、中東やアフリカ、アジアの一部ではキリスト教徒のコミュニティーが荒廃し、テロの脅威にさらされている。イスラム世界ではスンニ派とシーア派、過激派と穏健派、原理主義と世俗主義が対立し、毎日、イスラム教徒が同胞によって殺されている。ユダヤ人に始まった憎悪がユダヤ人で終わることはない。
 イスラム教徒にとって屈辱だったのは、「オスマン帝国」が1922年に敗北し、解体されたことだ。その6年後、過激な政治思想を持つイスラム組織「ムスリム同胞団」がエジプトで生まれた。
 

 反ユダヤ主義はイスラムから生まれたものではない。歴史家のバーナード・ルイス氏は皮肉混じりに、イスラム教徒は伝統的にユダヤ人を軽蔑してきたが、憎んではいないと説明した。また、「軽蔑では死なないが、憎悪では死ぬ」とも付け加えた。反ユダヤ主義は、2つの作り話という形で欧州からイスラム教に入り込んだ。
 その一つは「血の中傷」だ。これはユダヤ人がキリスト教徒の子どもを殺し、その血でユダヤ教の祭に食べる種なしパンを作ったという話だ。ユダヤ教では食物に一滴でも血が混じっていれば口にすることができないとあり、この話はばかげている。この神話はキリスト教徒によって19世紀に中東に持ち込まれ、レバノンやエジプトでは無実のユダヤ人が裁判にかけられた。
 もう一つは「シオン賢者の議定書(プロトコル)」。これはロシア皇帝の秘密警察メンバーが19世紀に作成した偽書で、ユダヤ人が世界で陰謀をたくらんでいるという内容。早くも1921年には英タイムズ・オブ・ロンドン紙がフィクションとしてこれを掲載し、ヒトラーの愛読書にもなった。歴史家のノーマン・コーン氏によると、ナチス・ドイツではこの文書が「大量虐殺の根拠」になったという。プロトコルは1930年代にアラビア語に翻訳されて中東に入ったが、特に注目すべき翻訳者はエルサレムの大ムフティー、アミーン・フサイニー氏だ。フサイニー氏は第2次世界大戦をベルリンで過ごし、ナチス向けにアラビア語の放送番組を制作していた。
 血の中傷はキリスト教徒が作り出した話で、プロトコルは、革命による体制崩壊を恐れていたロシアの皇帝たちがでっちあげた偽書だった。憎悪を理解するには憎悪の対象ではなく、憎悪する主体に問題があることが多い。

 
支配するものが自分たちの暴政を隠して国民を騙すには、憎悪の対象、つまり生贄が必要なのだ。中国・韓国での反日感情もしかり。日本では・・・・・中国・韓国だけでは役者不足でISILへの憎悪も焚きつける必要があるのかもしれない。
「自衛隊に警察権を行使させて人質を救出する」などと世迷いごとを公言する首相が一番危険である。

「永遠のゼロ」は戦争美化のプロパガンダ

2014-09-19 | 戦争

来年、テレビ東京開局50周年企画として、百田尚樹氏の小説『永遠の0』がドラマ化される。
 
 特攻隊員(宮部久蔵)の愛の強さ・自己犠牲の精神に驚嘆する戦後世代の物語である。「死にたくない」と言い続ける宮部を主人公に据えたことで、一見厭戦的な反戦作品に見える。しかし、その本質をつぶさに検証していくと、安倍首相や百田氏らが好む靖国史観に基づいたプロパガンダでしかない。
 ドラマ化に防衛省、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊が協力していることを考えれば、国を挙げたプロパガンダが始まっているとみるべきだろう。
 ドラマの主役には、向井理が起用され、彼は「靖国史観」に共感を寄せているようだ。2010年の8月15日に「幸せ」というタイトルで次のような文章をブログに投稿している。

今日は日本がポツダム宣言を受諾して65年の日です。何年か前のブログにも書きましたが決して終戦『記念日』ではありません。戦争に関わった人全てに於いて、まだ戦争は終わっていないからです。しかも北の地では65年前の今日以降もソ連と戦っていましたから。

昨日放送したドラマ『帰国』の撮影前に靖国神社に参拝に行きました。劇中の自分のセリフにもありましたが、『国の責任者が参拝するのは当然の義務なんじゃないのか』
今日本はいろいろな問題を抱えていて、その一つに靖国神社に関することも含まれています。でも、じゃあ何故それが問題なのか?それを理解しなければ何も進まないと思います。
八月十五日が来ると改めて今の自分は幸せだと思います。
ちゃんと生きて、生活できているから。それこそ戦争中はいつ死ぬか、家族の安否もわからぬ生活を送る人が多かった訳だから、それに比べたら幸せ過ぎて申し訳ないくらいです。

そして、必死になって日本の行く末を案じながら散っていった人達のことを考えると感謝の気持ちで一杯です。
さらにあの戦況下で無条件降伏まで持っていったのは凄いことだと思います。
日々戦争のことを考えるのは難しいですが、一年に一回でも深く考えてみても良いんじゃないでしょうかね。
世界のどこかで、いまでも戦い、争いが起こっています。

戦争についていろんなことを考えると、ただただ自分は幸せです


 意味不明なのは 「あの戦況下で無条件降伏まで持っていったのは凄いことだと思います」という記述である。
 本土上陸、玉砕を防いで無条件降伏にしたのは権力者や軍の英断だと思っているのだろうか?
 ずっと以前に負けると分かっていたのに、兵隊を餓死させ、国民を原爆の犠牲者にし、無条件降伏しか選択できない状況になってしまったと言う認識は全くないように聞こえる。
 
4000件以上のコメントが寄せられている・・・・ 
「生半可な覚悟じゃ、特攻玉砕なんて出来ない。命と引き換えに日本の未来を護って下さったのです。英霊の方々には感謝の気持ちで一杯です。今度の日曜に、靖国に行こうと思います」
「英霊や靖国神社への思いを見て、やはり誠実な方なのだとあらためて認識しました。きっと、英霊の皆様も、向井さんに期待と応援をしていると思います。いつか、ご一緒に、靖国神社に参拝して遊就館を拝観したいものです。」
 
 靖国や戦死者に対する感傷に酔い、英霊に感謝する・・・・歴史的事実など考慮せず、ただただ美化された犠牲に感動してしまう。戦争にいざなうプロパガンダとして実によく出来ている。
 
 日中戦争から太平洋戦争で亡くなった日本軍兵士の数は230万人といわれる。歴史学者の故・藤原彰氏の研究によれば、そのうちの6割は戦って死んだのではなく、餓死したのだという。しかもマインドコントロールで国や家族のために喜んで死んでいったとしたら・・・・・哀れを通り越して戦慄を覚える。
 
 「感謝」という言葉で無条件に美化することは、彼らの死を無駄にすることに等しいとさえ思う。そんな感傷だけで太平洋戦争を語ることは倫理的に許されない。同じことを繰り返さないために、平和と幸せを守るために、感傷に流されないで歴史的事実をしっかりと見極めることが戦争を知らない我々に課せられた義務だと思う。

 大体、特攻隊と言うシステムを考え出した軍部の非人間的作戦を考えただけでおぞましく胸が悪くなる。特攻隊員が空母に体当たりして自爆しても、敗戦の時期を少しだけ先延ばしにする効果しかなかった。前途ある若者を無駄死にさせた軍の責任は重大だ。
 特攻隊員に感謝したり、感動することは日本軍の方針を正当化することにもつながる。戦争に協力して日本の前途ある若者たちを死地に追いやった当時の国民と何も変わらない。「生きて虜囚の辱を受けず」「本土決戦で一億玉砕」を覚悟して、戦争に協力した当時の国民と何も変わらない。

 太平洋戦争の死者数は日本300万人 アメリカ10万人と言われている。


A級戦犯 ラジオ番組で語る 57年前の音源発見 「敗戦 我々の責任でない」

2014-09-18 | 戦争

高知新聞8/13
 旧日本陸軍の荒木貞夫大将ら4人のA級戦犯(いずれも故人)が自らの戦争責任などについて語ったラジオ番組の音源が、このほど見つかった。番組の中で4人は「敗戦はわれわれの責任ではない」「戦争中にあったことをいつまでもグズグズ言うのは間違いだ」などと述べている。番組のプロデューサーだった水野繁さん(92)=奈良市=は高知新聞の取材に「憲法改正を望むなど4人の姿勢は、今の安倍(晋三)内閣に相通じる点がある。国民の置かれていた状況が戦前と同じになっていないか、危惧している」と語った。

 番組は「マイクの広場 A級戦犯」で、約30分間。関東地方をエリアとするラジオ局・文化放送(東京)が1955年に録音し、56年4月に放送した。番組では荒木氏のほか、橋本欣五郎氏(元陸軍大佐)、賀屋興宣氏(開戦時の大蔵大臣)、鈴木貞一氏(元陸軍中将)の4人(いずれも判決は終身刑、それぞれ55年6~9月に仮釈放)が取材に応じ、私見を述べている。

 橋本氏は、日本の敗戦を国民に謝罪すると述べる一方、「外国に向かって相済まないとは、一つも思っておらない」と語っている。

 賀屋氏は「敗戦はわれわれの責任じゃない。けしからんと言って、(A級戦犯に向かって)憤慨するのは少し筋違いじゃないか」と発言。

鈴木氏は「世論が(戦争反対の方向に)はっきりしていないから(戦争は)起こっている」とし、当時の日本の指導者層に責任はなかった、と話している。 

 ラジオ番組「マイクの広場 A級戦犯」のプロデューサーを務めた水野繁さん(92)=奈良市=は、なぜこの番組を制作しようと考えたのか。制作から半世紀以上がすぎた今、番組を聞き直して何を思っただろうか。 

―「A級戦犯」を取材しようと考えた理由は、どこにあったのでしょう。

 「企画を練り始めた(1953年)ころ、A級戦犯の釈放の動きがありましたが、彼らを犯罪人ではなく、名誉ある日本のために尽くした人とする傾向が強くなっていました。多くの政治家がそういう方向で活動し、その政治家たちが憲法改正を掲げる。民主主義を否定する空気です。こりゃ、まずいんじゃないか、と」 「その当時、右派的な人たちはこぞって、『もとの教育勅語が必要だ』『(戦後制定された日本国憲法とは別の)新しい憲法が必要だ』と言いだして。政治の世界でそういうことが広がっていたわけです」 

―A級戦犯の肉声にこだわり、放送する意義は。 

「ラジオを聞いた人たちがどう思うか、投げ掛けたかった。それに尽きます。民主主義について、具体的に何が大切かを考えてもらいたかったからです」 「民主主義が実現していれば、言いたいことが言えるし、最低限の生活が保障できる社会になると考えています。一人一人が相手を大切にする、基本的人権を尊重するということを実現したかった。」 

―取材時、A級戦犯の様子は。 

「どなたも確信を持っているので、悪びれた様子はありませんでした。『自分の言いたいことを放送してくれるならそれでいい』と嫌がらずに応じてくれた」 

―あの番組の制作者として、今の日本の状況をどう見ますか。

 「今、目の前には、戦争したいという人がうようよしています。そして、権力を持っています。国民の置かれている状況が戦前と同じようになっているんじゃないか、と思います」

―昨年末の安倍政権発足後、憲法改正に向けた動きも強まっています。 

 「(憲法調査会を内閣につくるための法案が審議されていた)1956年3月16日の内閣委員会で、公述人として出席した戒能通孝・東京都立大教授は『(憲法改正では)国民の主権の存在をどうするかの問題が第一に出てくる。主権の所在を移行させる憲法改正となると、これはもう改正ではない。革命なり反革命なりということになる』と述べています。安倍内閣も同じです。憲法改正を掲げることは、革命を企てているということにならないか。そういう懸念があります」 

(注)戒能通孝・東京都立大教授(故人)は1956年3月16日の内閣委員会で、主に以下の数点を理由に憲法改正論議にくぎを刺している。

 (1)内閣は行政機関であり、憲法の忠実な執行者でなければならない。内閣には元来、憲法に対する批判の権限がない。

 (2)国務大臣は憲法擁護の義務を負う。その者が憲法を非難、批判するのは論理矛盾であり、間違い。

 (3)基本的人権、つまり法律によって制限できない思想、言論、表現、結社の自由を認めないと、政治体制の決定権が国民に存在しないことになる。これらに制限を加えてはならない。

 (4)不戦は日本国憲法の基本。これに変更を加えることは、憲法改正にとどまらず、(体制の)変革だ。 

―番組制作から50年余りになります。聞き直して、どう思いましたか。 

「A級戦犯は昔のことじゃないかと、受け取る人もいると思います。何で今更、と。だけど、これは靖国(神社合祀)の問題にもつながるし、現在の憲法改正論にもつながっている。A級戦犯の『教育勅語に戻ろう』『昔の(明治)憲法の方がいいんだ』という発言は、現在の政権の動きと相通じるものがあります。A級戦犯の人たちが当時言っていたことが、今は、一般の人たちにも浸透してきたんじゃないか、と」

制作は文化放送教養部が担当。同年8月にA級戦犯19人(逮捕後の不起訴を含む)をリストアップ。その全員に取材を申し込んだ。 その結果、15人が内閣情報調査室を通して断ったり、病気を理由に親族が断ったりした。

 取材に応じたのは、荒木貞夫氏ら4人。放送された番組は約30分間だが、収録は1人2~3時間に及んだという。

 水野さんの資料によると、取材を断ったA級戦犯と理由は次の通り。

 【病気を理由に親族が断った】岡敬純、畑俊六、嶋田繁太郎、大島浩、佐藤賢了、星野直樹

 【内閣情報調査室が断った】平沼騏一郎、南次郎、岸信介、木戸幸一、児玉誉士夫、正力松太郎、鮎川義介、真崎甚三郎、天羽英二

■戦争責任■  けしからんというのは筋違いだ

【橋本欣五郎氏(陸軍大佐、大政翼賛会常任総務)】  「戦争をやるべく大いに宣伝をしたということは事実ですよ。そうして、これが負けたということは誠に、僕は国民に相済まんと思っておるですよ。そりゃ、はっきりしとりますよ。けれども、外国に向かって相済まないとは、一つも思っておらない」  

橋本欣五郎(1890~1957年) 陸軍大佐。天皇帰一主義の超国家主義体制を実現させるとして、三月事件と十月事件(いずれも1931年)という2件のクーデター未遂事件を起こす。大政翼賛会では、壮年団本部長を務めた。

【賀屋興宣(おきのり)氏(開戦時の大蔵大臣)】  「敗戦は誰の責任か? われわれの責任じゃない。それをだな、われわれに(対し)けしからんと言って憤慨するのは少し筋違いじゃないか。お前、自分の責任が大いにその原因してるぞ」  「あらゆる責任は、いわゆる軍閥が主です。財閥や官僚というものは、戦争を起こすことについては、非常に力が薄いです。むしろ反対の者が相当にあった。主たるところは軍人の一部です」 

賀屋興宣(1889~1977年) 太平洋戦争開戦時の東条英機内閣で大蔵大臣を務める。中国資源の収奪や大東亜共栄圏を中心とするブロック経済を視野に入れ、軍事優先の予算を編成した。戦後は、池田勇人内閣で法相を務めた。

【鈴木貞一氏(陸軍中将、戦時中は内閣顧問)】  「戦争責任を考える上については、やっぱり国民のね、政治的な、その何と言うか、責任と言うかね。もし、国民が戦争を本当に欲しないというそれが、政治の上に強く反映しておれば、そうできないわけなんだ。だから、僕は政治家の力が足りないと。足りなかったと。もしも、戦争が誤りであるとすればだよ、その誤りを直すだけの政治の力が足りなかったと」  「政治の力が足りないということは、何かと言うと、国民の政治力が、すなわち、政治家は一人で立っているんじゃないわけだからね。国民の基盤の上に立っているんだから。今日の言葉で言うならば、世論というものがだね、本当に、はっきりしていないことから起こっていると思うんだな」  「当時の堂々たる政治家が、極端に言うなら、軍に頭を下げるようなことをやっておった。そういうことでは、軍人を責めることが、むしろ僕は無理だと思うんだ」

 鈴木貞一(1888~1989年) 陸軍中将。第2次近衛文麿内閣で国務相兼企画院総裁を務める。1941年の御前会議で、日本の経済力と軍事力を分析した結果として、天皇に対し「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上(対米開戦は)有利であると確信いたします」と進言した。100歳まで生き、A級戦犯最後の生き残りと言われた。

 ………………………………………

■敗戦か終戦か■  イチかバチか戦争するのが普通の人

【荒木貞夫氏(陸軍大将)】  「(米軍が戦争に)勝ったと僕は言わせないです。まだやって勝つか、負けるか、分からんですよ。あの時に(米軍が日本本土に)上陸してごらんなさい…彼らは(日本上陸作戦の)計画を発表しているもんね。九州、とにかくやったならば、血は流したかもしれんけど、惨たんたる光景を、敵軍が私は受けたと思いますね。そういうことでもって、終戦になったんでしょう」  「だから、敗戦とは言ってないよ。終戦と言っとる。それを文士やら何やらがやせ我慢をして終戦なんと言わんで、『敗戦じゃないか』『負けたんじゃないか』と言っとる。そりゃ戦を知らない者の言ですよ。簡単な言葉で言やあ、負けたと思うときに初めて負ける。負けたと思わなけりゃ、負けるもんじゃないということを歴戦の士は教えているものね」  「(対米開戦をしなければ)ジリ貧と言った東条(英機)君の言葉も、必ずしも一人を責めることはできんじゃないかと。どうせしなびてしまうようにさせられるなら、目の黒いうちにイチかバチか(戦争を)しようというのは、普通の人の頭じゃないかと、こう、私は言いたいのです」  「戦争中にあったことは、いつまでもグズグズ言うのは、これは間違いだ」  「逆コース(1950年代前半の日本の再軍備などを指す)なら逆コースでよろしい、と。いま端的に言うなら、憲法問題。(改正反対などと)グズグズ何か言うなら(明治政府の)五箇条のご誓文でいいじゃないかと」  

荒木貞夫(1877~1966年) 陸軍大将。陸軍大臣、文部大臣も務める。天皇親政のもとで、国家改造を進めようとした「皇道派」の首領格。文相時代は「皇道教育」を軸に、軍国主義教育を推し進めた。

 ………………………………………

■言論の自由■  自らが自らを縛っている格好に

 【鈴木貞一氏】  (国民に対する言論弾圧について問われ)「治安維持法も総動員法も議会でやるんだな。議会でやるんだから、その政治力が『そういうもんはいかん』ということであればだね、(戦時関連の立法は)できないわけなんだな。そういうものを作ったということは、自分(政治家)がそれを承認してだ、そういうものに服するということにしたんだから。自らが自らを縛っている格好になっているんだよ」

………………………………………

■戦犯の余生■  いつまでも責めるべきじゃない

 【清瀬一郎氏(東京裁判の特別弁護人)】  「過去における失敗をいつまでも責めるべきじゃない、と思っております。(山口県の)下関へ速く行く汽車は、ひっくり返したら、青森へ速く行けるんですから。あれだけ力を持っている人(A級戦犯)がいっぺん戦犯になったからと言って、ぐにゃーとしてしまわないで、新たな方向へ残年を、残っておる生涯をお使いになることは、私は賛成しておるんです」

………………………………………

■戦犯への目線■  戦争起こしていいなんて人間じゃない

【原子爆弾で被爆した広島の匿名女性。年齢も伏せられている。】  「(被爆直後は)鏡のかけらで、私の顔をのぞいて、本当にもう、これが自分の顔だったかって信じられないくらい。うみや血の塊が乾いて、顔全体が噴火口の塊だっていうくらいだったんですけど」  「母がいわゆる原爆症だと思うんですけど、何か下痢がすごく続いて、血を吐いたり、歯ぐきから(血を)出したり、毛が抜けたりして(少し前)息を引き取ったんです。母の、戦争がなかったらって繰り返し繰り返し言ったその言葉を思うにつけても、私のこの醜い身体と心の痛手を残した戦争を、もう二度と絶対に起こさないでほしい」  「これからまた戦争を起こしてもいいなんて考える人があったならば、この私の顔、体をその人に見せてやりたいと思います。私のこの体を見て、目を見て、そのことが言えるんだったら、そのような人は、人間じゃ絶対にあり得ない」

………………………………………

■戦犯への目線■  民主主義 一歩譲ると結局百歩を

 【有沢広巳氏(高知県出身の経済学者。戦前、治安維持法違反で身柄拘束)】  「世界情勢に明るい人とか、日本の国のことをよく知っている人々は戦争を起こしたら、大変だということを考えておりましたし、言ったもんですけれども。そういう人々は全部、国の方針に反するアカだ、容共論者だというふうになって、弾圧されていったわけです」  「結局、何かものを言う人は、みな国策に迎合したことしか言わなくなって、あたかもそれが、国民(全体)の声のようになっていった。だんだん民主主義の権利を狭める、言論の自由、思想の自由を狭める。そういう小さな態勢でも、一歩を譲りますと、結局百歩を譲らなければならなくなると思うんで、一歩のうちにですね、この民主主義は守らなければならないと思うんです」

 有沢広巳(1896~1988年) 高知県出身の経済学者・統計学者。東京大学名誉教授。反ファシズム、反戦主義を呼びかける結社支持を理由に38年、治安維持法違反で起訴され、東大を追われる。戦後は東大に復帰し、原子力委員会委員長代理を務めるなど国の経済政策やエネルギー政策に関わった。

--------------------------------------------------------------------------------

 A級戦犯だけでなく、政府も戦争の総括をしていない。ツンボ桟敷に置かれていた国民が形成する世論のせいで戦争をせざるを得なかったみたいな発言もある・・・・・

敗戦ではなく、終戦だったと言う発言にはたまげた。国民にどれだけ犠牲を払わせれば気が済んだのだろうか?悲惨なのはいつも庶民である。愛国教育やメディアのプロパガンタで戦争協力者に仕立てられ、前線で玉砕を強いられ、無差別攻撃の犠牲になる。そして戦争責任まで押し付けられるのだからたまったものではない。責任の所在をあやふやにして誰も責任を取らないのが日本の特徴である。原発事故後の対応を見ても、誰も責任を取らない。 眼前の問題を直視せず、先送りにして、にっちもさっちもいかなくなって、現場から逃げ出す。

戦争を総括してこなかったA級戦犯。原発事故を直視せず、強引に再稼働に突き進む政府。両者はともに、現況を直視・分析せず、責任の所在を有耶無耶にし、自己の在職期間の事なかれ主義を決め込む。災害列島日本の未来は暗雲が垂れこめている。


ペリリュー狂気の戦場

2014-09-07 | 戦争

NHKスペシャルで放送された番組は、先の大戦での日米の鮮烈な闘いを記録した113本のフィルムの一部である。
 撮影地はフィリピンの東800キロに位置するパラオ諸島の小島ベリリュー。70年前日米両軍がここで死闘を繰り広げた。米海兵隊の第一海兵師団第一連隊の死傷率は約60%で歴史上最悪となった。約1万人の日本兵のうち最後まで戦って生き残ったのはわずか34人。そのあまりの犠牲の多さと過酷さから、殆ど語られて来なかったため、「忘れられた戦場」と言われている。
 当時米軍が3日以内で終わると予想した戦闘は2ヶ月半の長きに及んだ。大本営の戦略転換があったからだ。玉砕前提のバンザイ突撃隊を火器でせん滅するだけの3日で終わる戦いと踏んでいたアメリカ海兵隊の誤算は大きかった。日本は軍司令部から、「玉砕」ではなく出来るだけ敵を引きつけ持久戦に持ち込むようにと指示されていた。

 番組では、撃たれた兵士を助けようとして、日本軍の銃弾に倒れてしまう兵士や、過酷な戦場に耐え切れず錯乱状態に陥っていく兵士の姿を、映像で目にする事が出来る。よくもこんなに多くの映像が残っていたものだと驚くが、この戦いの映像をプロパガンタとしては利用する計画があり、18名のカメラマンが送り込まれたと言う。
 
 カメラマンの1人で、存命していたグラントウルフキルさん(91歳)は、「生き残れるかどうかは運だけでした。あの戦場の事は家族にさえ話せません。狂気が狂気を呼ぶ地獄の戦場、それがペリリュー島でした」と語っている。

 日本の戦況が悪化していた1944年4月、ペリリュー島の防衛のため、派遣されたのが中川州男(なかがわくにお)大佐率いる陸軍歩兵第2連隊だった。満州に駐留していた関東軍の中でも最強の部隊と言われていた。この年、日本はニューギニアの島々やサイパンなどをアメリカ軍に次々と奪われていた。一方アメリカ軍は最大の目標をフィリピン・レイテ島に定めていた。レイテ島攻略を有利に進めるためアメリカ軍はペリリュー島の飛行場に戦略的価値を見出し、これを察知した日本軍は関東軍の精鋭を島の防衛の主力として送り込んだのだ。
 中心となったのは約1万7000人の第1海兵師団の将兵たち。海兵隊きっての精鋭部隊だった。師団長のウィリアム・ルパータス少将は「3日もあればペリリュー島を制圧できる」と豪語していた。1944年9月15日、アメリカ軍の上陸作戦が始まった。真っ先に上陸したのは師団の中でも最強とされる第1海兵連隊の将兵3000人。犠牲を払いながらも島に上陸したアメリカ兵たちはバンザイ突撃と呼ぶ日本軍の攻撃を待った。バンザイ突撃とは銃剣や軍刀を手に部隊ごと敵陣に切り込む日本軍の戦法だ。これまで装備に勝るアメリカ軍は圧倒的な火力で制圧してきたため、ペリリューでもこれを撃破すれば3日間で戦いを終わらせることが出来ると考えていた。しかし、待てど暮らせどバンザイ突撃隊は来ない。

 中川守備隊長は大本営の指示を受け持久戦の準備を進めていた。硬い石灰岩を掘り進め複雑に入り組んだトンネル陣地を構築していた。一度に1000人以上が立てこもれるものもあり、飛行場北部の岩山を中心に500ヶ所以上作られた。上陸から8時間後、アメリカ軍は最大の目的であった飛行場の制圧に取り掛かる。日本軍の戦車は初日で壊滅した。上陸して3日目、アメリカ軍は飛行場付近の日本軍陣地を制圧し、食料の備蓄倉庫もおさえた。3日間の戦いで日本軍の死者は少なくとも2400人。アメリカ軍もすでに2000人を超える死傷者を出していた。この時、ルパータス少将のもとには陸軍から援軍を得るべきだという意見が上がっていた。しかし「あと2日もあれば我々だけで制圧できる」と支援を断わる。陸軍をライバル視していたからだ。陸軍からの援軍を断った海兵隊は日本軍がトンネル陣地をはりめぐらした岩山でのゲリラ戦に引き込まれ、負傷者はさらに増えていく。
 この頃から映像は遺体ばかりが目立つようになる。遺体のことを「丸太」と呼ぶようになるほど感覚が麻痺していたとグラント・ウルフキルさんは言う。
 第1海兵連隊は上陸から1週間で撤退を余儀なくされ、ペリリュー島をめぐる戦況は大きく変化していた。マッカーサー大将率いる陸軍6万人はペリリュー島の陥落を待たずにレイテ島に上陸することを決定し、レイテ島攻略を支援するというペリリュー島の戦略的意義は失われつつあった。上陸から2週間、5000人近くの犠牲者を出していたアメリカ軍は火炎放射器を投入した。炎を130m先まで噴射することが出来、トンネル陣地に近づかず、日本兵を生きたまま焼き殺すことができた。さらに上空からナパーム弾を投下、1000℃の炎で日本兵が潜む岩山を丸ごと焼き尽くした。新兵器の投入によって日本兵の死者は9000人を超えた。水も食料も底をつき、10月になっても40℃を超える暑さの中、島は放置された遺体であふれ、耐え難い臭いが充満した。一体何のために戦っているのか、目的さえ分からない戦いが続く。

 持久戦が始まってから50日が過ぎた11月8日、中川大佐率いる守備隊の将兵は300人余りになっていた。司令官に緊急電報を送り、銃剣を手に敵に突撃したいと玉砕を申し出た。しかし、返信は「国民の士気を高めるためにも持久戦を最後まで続ける」よう命じたものだった。一方、アメリカ側でも作戦が見直されることはなかった。ペリリュー島は戦局から取り残されたにも関わらず、軍上層部は島の制圧にこだわり、戦闘が続けられたのだった。1ヶ月を過ぎた頃から常軌を逸した異常な戦いになっていく。

 ペリリュー島の戦いが始まって71日目の11月24日、守備隊本部以外はすでにアメリカ軍に制圧された。この時、日本軍の生き残りは120人。そのうち70人は身動きすら出来ない重傷者だった。長期持久戦を続けてきた守備隊長・中川大佐は「状況切迫 陣地保持ハ困難ニ至ル」という電報の後、自決した。

 生存者の証言と狂気の描写が物凄い。
 米軍のボムロイ一等兵は、「闘いのさなか日本兵が突然銃剣で襲って来た。私は彼の腹に2発打ち込んだ。倒れた彼の懐から一枚の写真がのぞいていた。手にとって見ると彼が両親と幼い妹と共に写っていた。一体なんて事をしてしまったのだろう。私は大きなショックを受け言葉を失った」と後に語り、座り込んで動かない姿がビデオに記録されている。
 
 「3人の米兵が惨殺されていた。ペニスが切り取られ、口にくわえさせられ、刺し傷が50か所にも及んでいた。死体を使って銃剣の練習をしていたに違いない。これを見た私は復讐心に突き動かされ、皆殺しにしたいと思った。怒りに震えたまま、その場にいると仲間が、あの中にジャップがいるぞ!と叫んだのです。私はゆっくりやつらのトンネル陣地に近寄りました。そこには通気孔があり、中を覗き込んでみると日本兵がこちらを見ていました。私は銃をそいつの顔に突きつけて思いっきり引き金を引きました。そのまま銃口を振り回して8発の銃弾を撃ち込みました。やつらを蜂の巣のようにしてやりました。全部で17人の日本兵を皆殺しにしたのです。」
 
 錯乱状態になった米兵を米兵自身が殺さざるを得ない状況にも遭遇した。アメリカ兵の1人が「俺は殺される!やつらに殺される」と大声で喚き出し、大量のモルヒネを打ったものの効かず、わめき声が大きくなるばかりだった。塹壕用のシャベルで殴り殺したと言う。300m先には日本兵の陣地があった。多くの仲間を危険にさらすことはできなかったのだと言う。
 後ろ手に縛りあげられ、喉を掻き切られた日本兵の遺体にも遭遇した。当時、敵前逃亡者や投降しようとした日本兵は日本兵によって情け容赦なく惨殺されたと言う。

 戦いから70年、ペリリュー島では今もトンネル陣地の跡が新たに見つかり、旧日本軍の武器が当時のまま残っている。2500人を超える日本軍将兵の遺骨がいまなお眠ったままだ。

 太平洋方面最高指揮官ニミッツの戦史の中で、難攻不落の激戦場として回想しているのは、ペリリュー島の攻防戦だけである。

「ペリリューの制圧のために、米国の歴史上、最悪の死傷者を出した。すでに制空制海権をとっていた米軍が、死傷者あわせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」。 

 とにかく、戦争の狂気を記録したものすごい記録だ。日本なら、秘密保護法の下にこんな凄いフィルムは始末していただろうに。
 情報公開という面で、アメリカは間違いなく先進国だ。
 ペリリュ―で転換された戦術、玉砕から持久戦への変遷、バンザイ突撃からゲリラ戦への転換・・・・ぺリリューで地獄を味わった米国は硫黄島、沖縄、ヒロシマ、ナガサキと切れ目なく繋がる戦闘で住民を巻き込んだせん滅作戦、無差別攻撃に転換していくことになったのかもしれない。
  

日系移民社会の勝ち組・負け組抗争

2014-09-07 | 戦争
BSで放送された『遠い祖国~ブラジル日系人抗争の真実~』はあまり知られていない日系移民社会の戦後の抗争を報道していた。

国内での困窮から脱するため、政府の言葉を信じてブラジルに渡った移住者は、19万人にも上り、農奴のように働かされ、帰りの船賃を貯める余裕もなく、過労と病気でどんどん死んでいく。彼らを守るはずの日本領事は、太平洋戦争の開戦と同時に自分たちだけ帰国、大勢の移住者は「敵性国民」として取り残されてしまった。日本語新聞は禁止され、日本語学校は強制閉鎖され、ラジオまで取り上げられ、サンパウロ州の奥地で開墾していた日系人は孤立する。

 その後、1945年8月に日本から「敗戦」の知らせが届くが、それを信じたくない移住者は「これは敵のデマだ、本当は日本は勝ったのだ」として、敗戦を受け入れた移住者を敵視する。そういう「日本の敗戦を信じたくない日本人」を目当てに、嘘の情報を印刷して売る「業者」が現れ、読者が読みたがる現実逃避の創作物語を「事実」として販売したという。1946年のサンパウロ新聞の正月号の社説には「日本戦勝の春」と題する社説さえ掲載された。
 奥地で情報遮断されていた日系人は、「日本の敗戦は米国とブラジル政府が仕組んだデマではないか」と敗戦を認めようとしない。これを「勝ち組」と呼び、一方、都市部で商店などを営んでいた日系人はポルトガル語のできる人が多く、戦況に触れていたので、敗戦を認め、奥地の日系人にもそれを知らせようと「認識運動」を展開する。ところが、「勝ち組」はこれを裏切りととり、彼らを「負け組」と呼んで、対立する。ついには、この対立は何十人もの殺人事件にまで発展する。

「勝ち組」の人間による殺害の動機は「あいつらは天皇の悪口を言ったりご真影を粗末に扱ったから」というものだったが、「負け組」に属していた人やその家族は「そんなことは絶対あり得ない、一体誰がそんなデマを流したのか」と憤る。憎悪に思考を支配されると、その憎悪を正当化したり増幅させる情報しか耳に入らなくなり、際限なく攻撃的になり、「悪いのは相手だから殺しても構わない」という論理に飛躍する。

 終戦から2ヵ月後の1945年10月3日、日本からはじめて敗戦を伝える公式文書が届いた。それには「朕は帝国政府ヲシテ北米合衆国・大ブリテン国・支那...右諸国共同宣言ノ条項を受諾ス...」とポツダム宣言を受諾する旨が書かれてあった。その文書に添えて、秘密結社興道社の指導者でバストス産業組合理事長であった退役陸軍大佐の脇山甚作ほか計7名の署名の敗戦を認める文書も作られ、サンパウロ州に散在する日系移民社会に配布された。当時日系移民の9割は、西方の奥地に暮らしており、そのほとんどが日本の勝利を信じ、「勝ち組」と呼ばれる人々であった。彼らの多くが、「日本は勝つ」と考えていた。当時の「勝ち組」のひとりである中野文雄はNHKの取材に応じて「今から考えれば、一種の迷信を信じた、ということになるのだが、神国日本が戦いに負けるはずはない、と思った」と言い、絶対的な信仰状態だったと語った。サンパウロ州奥地の移民の多くが、この終戦伝達書を偽書と見なした。勝ち組は2万人におよび、「認識運動」を行う人々の家の門や玄関に「国賊」と落書きする、商売の邪魔をする、脅迫状を投げ込むことまで始めた。
 
1946年には、ブラジルの勝ち組と負け組の間で大規模な抗争事件が起こり、死者も出た。1946年3月7日にサンパウロ州北西部のバストス産業組合の理事、溝部幾太が暗殺され、犯人はバストスに住む「勝ち組」の青年だった。この溝部幾太の暗殺をきっかけとしてサンパウロ州全域で襲撃事件が多発し、「負け組」による報復も起きた。 敗戦伝達書に筆頭者として署名した脇山甚作も「勝ち組」に襲われ、自宅で射殺された。
 脇山甚作は日本を勝利させ"大東亜共栄圏"に日本人を再移住させることを移民たちに説いてきた人物だった。8月15日直後の玉音放送を聞き、心情的には日本の負けを認めたくなかったものの、放送を聞いた以上事実として認めざるを得ず、ひどく落胆したものの、自身は移民のリーダーとして事実を移民たちに伝える責任があると考えた。サンパウロ州奥地の移民たちは、日本は絶対に勝つと移民たちを鼓舞してきたのにもかかわらず、突然に「日本は敗れた」と言いだした脇山甚作のことを、敵国の側についた裏切り者だと見なした。奥地から出てきた青年数人組が脇山の自宅をおとずれ「自決勧告書」なる「敵側が発するニセの文書に騙され、それに署名することは万死に値するから自殺しろ」という内容を主張する文書を渡し、ピストルで射殺した。犯人は自首し、殺人犯として逮捕され、投獄された。「勝ち組」によって殺された人々は少なくとも15人にも及んだ。
 脇山を暗殺した一人がNHKの取材に応じている。教育勅語の皇国史観は彼の中に未だに深く根付いているようであった。
 「誰に命令されたのでもなく、自分の意思で暗殺に加わった。2008年にブラジル移民100周年で皇太子がブラジルを訪問したとき、感極まった。人生で一番うれしい時だった。俺たちのことを忘れないでいてくれたのだから・・・」一方、「俺たちのことなんか虫けら程度にしか思っていなかっただろうが・・・」とも述懐していたが、後悔している様子はなく、未だに皇国民のように見えた。
 
 ブラジルでは1970年代初期まで、勝ち組と負け組の対立による後遺症が存在していた。1973年にブラジルから日本に帰国した「勝ち組」の家族3組が「ほら見ろ、日本はこんなに豊かになっている、やっぱり日本は勝ったんだ。」といった時代錯誤の発言をした者もいたという。
 ペルーでも日系ペルー人の間で両者に抗争が起きた。ハワイでは、終戦から10年経過した後も「勝ち組」は存在したと言われている。
 
 その後、正しい情報の流入によって日本の敗戦の現実を知り、自然消滅したが、これは遠い昔の話でなく現代の日本に繋がる話だと思う。
 情報操作によって、こんなにも簡単に国民の分断が起こり、人々は自分の信念に整合する情報しか信じなくなるのだ。この情報操作に最もひっかかりやすく過激になりやすいのは若者達である。暗殺事件を起こすのは若者が多いし、イタリアでファシズムを主導したファシスト党の民兵組織であるムッソリーニの黒シャツ隊、ナチス親衛隊、10年に渡る文化革命時に台頭した紅衛兵すべて理想を希求していると信じていた血気盛んな若者たちだった。
 情報操作の専門家、新聞の戦争責任も大きい。連戦連勝の報道によって国民を戦争協力者に仕立て、戦意高揚に大きな役割を果たしたが、誰も責任を追及されていない。