ラミス「米軍基地はアメリカという帝国の単なる手段ではなく、基地そのものがアメリカ帝国なのです。米軍基地は植民地です。アメリカの占領する縄張りなのです。私たちは平和憲法のもと平和な日本で暮らしています。日本は世界一の平和国家と言われています。でも同時に沖縄には米軍基地がある。これは幻想ですね。
イスラエルの歴史は、1948年の建国よりはるか昔にさかのぼる。『旧約聖書』によれば、紀元前11世紀ごろ、中東の地にイスラエル王国が成立し、ダビデ王やソロモン王などが治めていた。ユダヤ人にとって、イスラエルの地は「神がユダヤ人に約束した土地」と信じられている。 しかし、イスラエル王国は、紀元後2世紀にローマ帝国に滅ぼされ、ユダヤ民族は世界中に離散した。以来、イスラエルの地に帰還し、国を再建することはユダヤ人の悲願となった。ユダヤ人は、ヘブライ人、イスラエル人とも呼ばれるが、その定義は難しい。一般論として、ユダヤ教徒であること、母親がユダヤ人であること、のどちらかを満たせばユダヤ人となる。
ユダヤ人に対する差別と迫害の歴史は、古くて長い。歴史上、最初に確認される迫害は、紀元前13世紀の「出エジプト」である。チャールトン ヘストン主演の映画「十戒」に詳しい。この頃、ユダヤ人の一部はエジプトで暮らしていたが、エジプト新王国による差別と迫害を受けていた。予言者モーゼが現れ、ユダヤの民を率い、エジプトを脱出後、聖なるシナイ山の頂上で神ヤハウェとの契約をさずけられた。これがユダヤ人への最初の迫害であり、ユダヤ教の起源となった。モーゼの死後、後継者ヨシュアにひきいられたユダヤ人は、ヨルダン川をわたり、イェリコの町とその地域を征服する。その後、紀元前11世紀頃には、サウル王のもとで建国を成し遂げ、後継者ダビデ王およびソロモン王の治世で、最盛期をむかえる。ところが、その繁栄も長くは続かなかった。ソロモン王の死後、王国は北方の北イスラエル王国と、南方のユダ王国に分裂したのである。その後、 北イスラエル王国はアッシリア帝国に(紀元前8世紀)、ユダ王国は新バビロニア王国に(紀元前6世紀)、それぞれ征服された。このとき、ユダ王国の人々はバビロンに強制移住させられたが、これが「バビロンの捕囚」である。多数のユダヤ人が虐殺され、出エジプトにつづく、第2のユダヤ人迫害であった。
ところが、その新バビロニアもアケメネス朝ペルシャに滅ぼされてしまう。新しい支配者ペルシャは、新バビロニアやアッシリアに比べ、寛大な帝国であった。納税を怠らず、謀反や反乱をおこさなければ、生活はもちろん、習慣や文化も保護された。ペルシャの寛大さはユダヤ人に平和をもたらした。紀元前538年、ユダヤ人はエルサレムに帰還することが許されたのである。彼らは帰還後、神殿を再建し、その後、唯一神ヤハウェを信じるユダヤ教が成立した。これ以降、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになった。
その1000年後、ユダヤ人迫害を決定づける歴史的大事件がおこる。イエス・キリストである。イエスは、ひたすらムチ打たれ、血まみれになり、ゴルゴダの丘で処刑される。イエスをローマ帝国に告訴したのはユダヤ教徒。さらに、銀貨30枚でイエスを売ったユダも、ユダヤ人。このことは、キリスト教本流をなす宗派や、イスラム教の信者たちに、ユダヤ教徒への根強い不信感と憎悪を植えつけた。イエスの死後2000年経過した現代まで存続している。神道や仏教そして、クリスマスまで祝う日本人には理解できない。
イエスの死後、キリスト教はヨーロッパで急速に広まっていった。313年、ミラノ勅令が公布され、キリスト教が公認された。それと軌を一にするように、ユダヤ人への差別と迫害がはじまった。中世に入って、十字軍の遠征が始まったが、エルサレムを奪回した十字軍は、イスラム教徒だけでなく、ユダヤ人も虐殺した。 また、1881年には、東ヨーロッパで「ポグロム」とよばれる大規模なユダヤ人迫害が起こっている。「ポグロム」はロシア語で、ユダヤ人にたいする略奪、虐殺を意味する。ユダヤ人への差別や迫害は地球規模であり、全時代におよんでいる。
そして、ナチスによるユダヤ人迫害は歴史上最も有名である。ユダヤ人の迫害は1933年頃からはじまったが、初めは宗教というよりは人種的理由によっていた。1850年代、フランスの外交官ゴビノーは、人種的な優劣を論じた「人種不平等論」を発表し、その中で、アーリヤ人種の優越性を唱えた。アーリア人であるドイツ・ナチス政権のユダヤ人の迫害は凄まじいものだった。ユダヤ人は財産を没収され、不当に逮捕され、処刑された。
そして現代、ユダヤ人迫害の問題は被害者が加害者に変容し、より深刻になっている、パレスチナ問題・中東問題に発展し、宗教的憎悪を超えて、ユダヤ民族とアラブ民族の最終戦争の様相である。
事の発端は、イギリスの2枚舌外交である。1916年、イギリスのエジプト高等弁務官マクマホンとアラブの指導者フサインとの間に書簡がかわされた。この協定は、アラブがオスマン帝国に反乱をおこす見返りに、第一次世界大戦後、イギリスがアラブ国家の独立を約束するというものだった。映画「アラビアのローレンス」に詳しい。イギリスは、アラブに対しこのような甘い約束をする一方、1917年、ユダヤ人にも同じような約束をした。パレスチナにユダヤ人国家の建設を容認するというものだった。イスラエル建国に伴って、その地に住んでいた数十万人のパレスチナ人が家を追われ、難民となった。
イスラエル建国は国連に認められていたとはいえ、パレスチナ人にとって受け入れられるものではない。当然、パレスチナ人や彼らを支援するアラブのイスラム諸国は反発し、半世紀を経た今も紛争が続いている。
1月7日にフランスの風刺週刊紙シャルリー・エブド銃撃で12人が死亡する事件が発生した後、パリのスーパーでは複数のユダヤ人買い物客が殺害された。2014年にはベルギーの首都ブリュッセルのユダヤ博物館で4人が殺害され、2012年にはフランス南部のユダヤ人学校でユダヤ教指導者1人と児童3人が銃殺された。2008年にはインドのムンバイでテロリスト4人がカフェやレストランを襲撃した後、小さなユダヤセンターを攻撃。ここでは若いユダヤ教指導者と妊娠した妻が拷問を受けた末に殺害された。古来からの憎悪が復活している。単にイスラエルの行動やパレスチナ人との長引く紛争の結果ではないという。攻撃のターゲットはイスラエル人ではなく、ユダヤ人だと言うのだ。
中東報道研究機関によると、エジプトの聖職者ムハンマド・フセイン・ヤクブ氏は2009年1月、同国で人気のある宗教テレビ局で新たな憎悪を明確に述べた。「ユダヤ人がパレスチナを明け渡したら、われわれは彼らを愛し始めるだろうか。もちろん違う。われわれは決して彼らを愛することはない。パレスチナを占領しなくても、彼らは敵であり続けるだろう。彼らと戦い、彼らを打ち負かし、地球の表面にユダヤ人が一人もいなくなるまで戦いは続く。」 これは中東やイスラム世界に浸透している憎悪感情で、今や欧州にも浸透し始めている。
そして、中東やアフリカ、アジアの一部ではキリスト教徒のコミュニティーが荒廃し、テロの脅威にさらされている。イスラム世界ではスンニ派とシーア派、過激派と穏健派、原理主義と世俗主義が対立し、毎日、イスラム教徒が同胞によって殺されている。ユダヤ人に始まった憎悪がユダヤ人で終わることはない。
イスラム教徒にとって屈辱だったのは、「オスマン帝国」が1922年に敗北し、解体されたことだ。その6年後、過激な政治思想を持つイスラム組織「ムスリム同胞団」がエジプトで生まれた。
反ユダヤ主義はイスラムから生まれたものではない。歴史家のバーナード・ルイス氏は皮肉混じりに、イスラム教徒は伝統的にユダヤ人を軽蔑してきたが、憎んではいないと説明した。また、「軽蔑では死なないが、憎悪では死ぬ」とも付け加えた。反ユダヤ主義は、2つの作り話という形で欧州からイスラム教に入り込んだ。
その一つは「血の中傷」だ。これはユダヤ人がキリスト教徒の子どもを殺し、その血でユダヤ教の祭に食べる種なしパンを作ったという話だ。ユダヤ教では食物に一滴でも血が混じっていれば口にすることができないとあり、この話はばかげている。この神話はキリスト教徒によって19世紀に中東に持ち込まれ、レバノンやエジプトでは無実のユダヤ人が裁判にかけられた。
もう一つは「シオン賢者の議定書(プロトコル)」。これはロシア皇帝の秘密警察メンバーが19世紀に作成した偽書で、ユダヤ人が世界で陰謀をたくらんでいるという内容。早くも1921年には英タイムズ・オブ・ロンドン紙がフィクションとしてこれを掲載し、ヒトラーの愛読書にもなった。歴史家のノーマン・コーン氏によると、ナチス・ドイツではこの文書が「大量虐殺の根拠」になったという。プロトコルは1930年代にアラビア語に翻訳されて中東に入ったが、特に注目すべき翻訳者はエルサレムの大ムフティー、アミーン・フサイニー氏だ。フサイニー氏は第2次世界大戦をベルリンで過ごし、ナチス向けにアラビア語の放送番組を制作していた。
血の中傷はキリスト教徒が作り出した話で、プロトコルは、革命による体制崩壊を恐れていたロシアの皇帝たちがでっちあげた偽書だった。憎悪を理解するには憎悪の対象ではなく、憎悪する主体に問題があることが多い。
「自衛隊に警察権を行使させて人質を救出する」などと世迷いごとを公言する首相が一番危険である。
来年、テレビ東京開局50周年企画として、百田尚樹氏の小説『永遠の0』がドラマ化される。
特攻隊員(宮部久蔵)の愛の強さ・自己犠牲の精神に驚嘆する戦後世代の物語である。「死にたくない」と言い続ける宮部を主人公に据えたことで、一見厭戦的な反戦作品に見える。しかし、その本質をつぶさに検証していくと、安倍首相や百田氏らが好む靖国史観に基づいたプロパガンダでしかない。
ドラマ化に防衛省、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊が協力していることを考えれば、国を挙げたプロパガンダが始まっているとみるべきだろう。
ドラマの主役には、向井理が起用され、彼は「靖国史観」に共感を寄せているようだ。2010年の8月15日に「幸せ」というタイトルで次のような文章をブログに投稿している。
今日は日本がポツダム宣言を受諾して65年の日です。何年か前のブログにも書きましたが決して終戦『記念日』ではありません。戦争に関わった人全てに於いて、まだ戦争は終わっていないからです。しかも北の地では65年前の今日以降もソ連と戦っていましたから。
昨日放送したドラマ『帰国』の撮影前に靖国神社に参拝に行きました。劇中の自分のセリフにもありましたが、『国の責任者が参拝するのは当然の義務なんじゃないのか』
今日本はいろいろな問題を抱えていて、その一つに靖国神社に関することも含まれています。でも、じゃあ何故それが問題なのか?それを理解しなければ何も進まないと思います。
八月十五日が来ると改めて今の自分は幸せだと思います。
ちゃんと生きて、生活できているから。それこそ戦争中はいつ死ぬか、家族の安否もわからぬ生活を送る人が多かった訳だから、それに比べたら幸せ過ぎて申し訳ないくらいです。
そして、必死になって日本の行く末を案じながら散っていった人達のことを考えると感謝の気持ちで一杯です。
さらにあの戦況下で無条件降伏まで持っていったのは凄いことだと思います。
日々戦争のことを考えるのは難しいですが、一年に一回でも深く考えてみても良いんじゃないでしょうかね。
世界のどこかで、いまでも戦い、争いが起こっています。
戦争についていろんなことを考えると、ただただ自分は幸せです
意味不明なのは 「あの戦況下で無条件降伏まで持っていったのは凄いことだと思います」という記述である。
本土上陸、玉砕を防いで無条件降伏にしたのは権力者や軍の英断だと思っているのだろうか?
ずっと以前に負けると分かっていたのに、兵隊を餓死させ、国民を原爆の犠牲者にし、無条件降伏しか選択できない状況になってしまったと言う認識は全くないように聞こえる。
4000件以上のコメントが寄せられている・・・・
「生半可な覚悟じゃ、特攻玉砕なんて出来ない。命と引き換えに日本の未来を護って下さったのです。英霊の方々には感謝の気持ちで一杯です。今度の日曜に、靖国に行こうと思います」
「英霊や靖国神社への思いを見て、やはり誠実な方なのだとあらためて認識しました。きっと、英霊の皆様も、向井さんに期待と応援をしていると思います。いつか、ご一緒に、靖国神社に参拝して遊就館を拝観したいものです。」
靖国や戦死者に対する感傷に酔い、英霊に感謝する・・・・歴史的事実など考慮せず、ただただ美化された犠牲に感動してしまう。戦争にいざなうプロパガンダとして実によく出来ている。
日中戦争から太平洋戦争で亡くなった日本軍兵士の数は230万人といわれる。歴史学者の故・藤原彰氏の研究によれば、そのうちの6割は戦って死んだのではなく、餓死したのだという。しかもマインドコントロールで国や家族のために喜んで死んでいったとしたら・・・・・哀れを通り越して戦慄を覚える。
「感謝」という言葉で無条件に美化することは、彼らの死を無駄にすることに等しいとさえ思う。そんな感傷だけで太平洋戦争を語ることは倫理的に許されない。同じことを繰り返さないために、平和と幸せを守るために、感傷に流されないで歴史的事実をしっかりと見極めることが戦争を知らない我々に課せられた義務だと思う。
大体、特攻隊と言うシステムを考え出した軍部の非人間的作戦を考えただけでおぞましく胸が悪くなる。特攻隊員が空母に体当たりして自爆しても、敗戦の時期を少しだけ先延ばしにする効果しかなかった。前途ある若者を無駄死にさせた軍の責任は重大だ。
特攻隊員に感謝したり、感動することは日本軍の方針を正当化することにもつながる。戦争に協力して日本の前途ある若者たちを死地に追いやった当時の国民と何も変わらない。「生きて虜囚の辱を受けず」「本土決戦で一億玉砕」を覚悟して、戦争に協力した当時の国民と何も変わらない。
太平洋戦争の死者数は日本300万人 アメリカ10万人と言われている。
高知新聞8/13
旧日本陸軍の荒木貞夫大将ら4人のA級戦犯(いずれも故人)が自らの戦争責任などについて語ったラジオ番組の音源が、このほど見つかった。番組の中で4人は「敗戦はわれわれの責任ではない」「戦争中にあったことをいつまでもグズグズ言うのは間違いだ」などと述べている。番組のプロデューサーだった水野繁さん(92)=奈良市=は高知新聞の取材に「憲法改正を望むなど4人の姿勢は、今の安倍(晋三)内閣に相通じる点がある。国民の置かれていた状況が戦前と同じになっていないか、危惧している」と語った。
番組は「マイクの広場 A級戦犯」で、約30分間。関東地方をエリアとするラジオ局・文化放送(東京)が1955年に録音し、56年4月に放送した。番組では荒木氏のほか、橋本欣五郎氏(元陸軍大佐)、賀屋興宣氏(開戦時の大蔵大臣)、鈴木貞一氏(元陸軍中将)の4人(いずれも判決は終身刑、それぞれ55年6~9月に仮釈放)が取材に応じ、私見を述べている。
橋本氏は、日本の敗戦を国民に謝罪すると述べる一方、「外国に向かって相済まないとは、一つも思っておらない」と語っている。
賀屋氏は「敗戦はわれわれの責任じゃない。けしからんと言って、(A級戦犯に向かって)憤慨するのは少し筋違いじゃないか」と発言。
鈴木氏は「世論が(戦争反対の方向に)はっきりしていないから(戦争は)起こっている」とし、当時の日本の指導者層に責任はなかった、と話している。
ラジオ番組「マイクの広場 A級戦犯」のプロデューサーを務めた水野繁さん(92)=奈良市=は、なぜこの番組を制作しようと考えたのか。制作から半世紀以上がすぎた今、番組を聞き直して何を思っただろうか。
―「A級戦犯」を取材しようと考えた理由は、どこにあったのでしょう。
「企画を練り始めた(1953年)ころ、A級戦犯の釈放の動きがありましたが、彼らを犯罪人ではなく、名誉ある日本のために尽くした人とする傾向が強くなっていました。多くの政治家がそういう方向で活動し、その政治家たちが憲法改正を掲げる。民主主義を否定する空気です。こりゃ、まずいんじゃないか、と」 「その当時、右派的な人たちはこぞって、『もとの教育勅語が必要だ』『(戦後制定された日本国憲法とは別の)新しい憲法が必要だ』と言いだして。政治の世界でそういうことが広がっていたわけです」
―A級戦犯の肉声にこだわり、放送する意義は。
「ラジオを聞いた人たちがどう思うか、投げ掛けたかった。それに尽きます。民主主義について、具体的に何が大切かを考えてもらいたかったからです」 「民主主義が実現していれば、言いたいことが言えるし、最低限の生活が保障できる社会になると考えています。一人一人が相手を大切にする、基本的人権を尊重するということを実現したかった。」
―取材時、A級戦犯の様子は。
「どなたも確信を持っているので、悪びれた様子はありませんでした。『自分の言いたいことを放送してくれるならそれでいい』と嫌がらずに応じてくれた」
―あの番組の制作者として、今の日本の状況をどう見ますか。
「今、目の前には、戦争したいという人がうようよしています。そして、権力を持っています。国民の置かれている状況が戦前と同じようになっているんじゃないか、と思います」
―昨年末の安倍政権発足後、憲法改正に向けた動きも強まっています。
「(憲法調査会を内閣につくるための法案が審議されていた)1956年3月16日の内閣委員会で、公述人として出席した戒能通孝・東京都立大教授は『(憲法改正では)国民の主権の存在をどうするかの問題が第一に出てくる。主権の所在を移行させる憲法改正となると、これはもう改正ではない。革命なり反革命なりということになる』と述べています。安倍内閣も同じです。憲法改正を掲げることは、革命を企てているということにならないか。そういう懸念があります」
(注)戒能通孝・東京都立大教授(故人)は1956年3月16日の内閣委員会で、主に以下の数点を理由に憲法改正論議にくぎを刺している。
(1)内閣は行政機関であり、憲法の忠実な執行者でなければならない。内閣には元来、憲法に対する批判の権限がない。
(2)国務大臣は憲法擁護の義務を負う。その者が憲法を非難、批判するのは論理矛盾であり、間違い。
(3)基本的人権、つまり法律によって制限できない思想、言論、表現、結社の自由を認めないと、政治体制の決定権が国民に存在しないことになる。これらに制限を加えてはならない。
(4)不戦は日本国憲法の基本。これに変更を加えることは、憲法改正にとどまらず、(体制の)変革だ。
―番組制作から50年余りになります。聞き直して、どう思いましたか。
「A級戦犯は昔のことじゃないかと、受け取る人もいると思います。何で今更、と。だけど、これは靖国(神社合祀)の問題にもつながるし、現在の憲法改正論にもつながっている。A級戦犯の『教育勅語に戻ろう』『昔の(明治)憲法の方がいいんだ』という発言は、現在の政権の動きと相通じるものがあります。A級戦犯の人たちが当時言っていたことが、今は、一般の人たちにも浸透してきたんじゃないか、と」
制作は文化放送教養部が担当。同年8月にA級戦犯19人(逮捕後の不起訴を含む)をリストアップ。その全員に取材を申し込んだ。 その結果、15人が内閣情報調査室を通して断ったり、病気を理由に親族が断ったりした。
取材に応じたのは、荒木貞夫氏ら4人。放送された番組は約30分間だが、収録は1人2~3時間に及んだという。
水野さんの資料によると、取材を断ったA級戦犯と理由は次の通り。
【病気を理由に親族が断った】岡敬純、畑俊六、嶋田繁太郎、大島浩、佐藤賢了、星野直樹
【内閣情報調査室が断った】平沼騏一郎、南次郎、岸信介、木戸幸一、児玉誉士夫、正力松太郎、鮎川義介、真崎甚三郎、天羽英二
■戦争責任■ けしからんというのは筋違いだ
【橋本欣五郎氏(陸軍大佐、大政翼賛会常任総務)】 「戦争をやるべく大いに宣伝をしたということは事実ですよ。そうして、これが負けたということは誠に、僕は国民に相済まんと思っておるですよ。そりゃ、はっきりしとりますよ。けれども、外国に向かって相済まないとは、一つも思っておらない」
橋本欣五郎(1890~1957年) 陸軍大佐。天皇帰一主義の超国家主義体制を実現させるとして、三月事件と十月事件(いずれも1931年)という2件のクーデター未遂事件を起こす。大政翼賛会では、壮年団本部長を務めた。
【賀屋興宣(おきのり)氏(開戦時の大蔵大臣)】 「敗戦は誰の責任か? われわれの責任じゃない。それをだな、われわれに(対し)けしからんと言って憤慨するのは少し筋違いじゃないか。お前、自分の責任が大いにその原因してるぞ」 「あらゆる責任は、いわゆる軍閥が主です。財閥や官僚というものは、戦争を起こすことについては、非常に力が薄いです。むしろ反対の者が相当にあった。主たるところは軍人の一部です」
賀屋興宣(1889~1977年) 太平洋戦争開戦時の東条英機内閣で大蔵大臣を務める。中国資源の収奪や大東亜共栄圏を中心とするブロック経済を視野に入れ、軍事優先の予算を編成した。戦後は、池田勇人内閣で法相を務めた。
【鈴木貞一氏(陸軍中将、戦時中は内閣顧問)】 「戦争責任を考える上については、やっぱり国民のね、政治的な、その何と言うか、責任と言うかね。もし、国民が戦争を本当に欲しないというそれが、政治の上に強く反映しておれば、そうできないわけなんだ。だから、僕は政治家の力が足りないと。足りなかったと。もしも、戦争が誤りであるとすればだよ、その誤りを直すだけの政治の力が足りなかったと」 「政治の力が足りないということは、何かと言うと、国民の政治力が、すなわち、政治家は一人で立っているんじゃないわけだからね。国民の基盤の上に立っているんだから。今日の言葉で言うならば、世論というものがだね、本当に、はっきりしていないことから起こっていると思うんだな」 「当時の堂々たる政治家が、極端に言うなら、軍に頭を下げるようなことをやっておった。そういうことでは、軍人を責めることが、むしろ僕は無理だと思うんだ」
鈴木貞一(1888~1989年) 陸軍中将。第2次近衛文麿内閣で国務相兼企画院総裁を務める。1941年の御前会議で、日本の経済力と軍事力を分析した結果として、天皇に対し「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上(対米開戦は)有利であると確信いたします」と進言した。100歳まで生き、A級戦犯最後の生き残りと言われた。
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■敗戦か終戦か■ イチかバチか戦争するのが普通の人
【荒木貞夫氏(陸軍大将)】 「(米軍が戦争に)勝ったと僕は言わせないです。まだやって勝つか、負けるか、分からんですよ。あの時に(米軍が日本本土に)上陸してごらんなさい…彼らは(日本上陸作戦の)計画を発表しているもんね。九州、とにかくやったならば、血は流したかもしれんけど、惨たんたる光景を、敵軍が私は受けたと思いますね。そういうことでもって、終戦になったんでしょう」 「だから、敗戦とは言ってないよ。終戦と言っとる。それを文士やら何やらがやせ我慢をして終戦なんと言わんで、『敗戦じゃないか』『負けたんじゃないか』と言っとる。そりゃ戦を知らない者の言ですよ。簡単な言葉で言やあ、負けたと思うときに初めて負ける。負けたと思わなけりゃ、負けるもんじゃないということを歴戦の士は教えているものね」 「(対米開戦をしなければ)ジリ貧と言った東条(英機)君の言葉も、必ずしも一人を責めることはできんじゃないかと。どうせしなびてしまうようにさせられるなら、目の黒いうちにイチかバチか(戦争を)しようというのは、普通の人の頭じゃないかと、こう、私は言いたいのです」 「戦争中にあったことは、いつまでもグズグズ言うのは、これは間違いだ」 「逆コース(1950年代前半の日本の再軍備などを指す)なら逆コースでよろしい、と。いま端的に言うなら、憲法問題。(改正反対などと)グズグズ何か言うなら(明治政府の)五箇条のご誓文でいいじゃないかと」
荒木貞夫(1877~1966年) 陸軍大将。陸軍大臣、文部大臣も務める。天皇親政のもとで、国家改造を進めようとした「皇道派」の首領格。文相時代は「皇道教育」を軸に、軍国主義教育を推し進めた。
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■言論の自由■ 自らが自らを縛っている格好に
【鈴木貞一氏】 (国民に対する言論弾圧について問われ)「治安維持法も総動員法も議会でやるんだな。議会でやるんだから、その政治力が『そういうもんはいかん』ということであればだね、(戦時関連の立法は)できないわけなんだな。そういうものを作ったということは、自分(政治家)がそれを承認してだ、そういうものに服するということにしたんだから。自らが自らを縛っている格好になっているんだよ」
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■戦犯の余生■ いつまでも責めるべきじゃない
【清瀬一郎氏(東京裁判の特別弁護人)】 「過去における失敗をいつまでも責めるべきじゃない、と思っております。(山口県の)下関へ速く行く汽車は、ひっくり返したら、青森へ速く行けるんですから。あれだけ力を持っている人(A級戦犯)がいっぺん戦犯になったからと言って、ぐにゃーとしてしまわないで、新たな方向へ残年を、残っておる生涯をお使いになることは、私は賛成しておるんです」
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■戦犯への目線■ 戦争起こしていいなんて人間じゃない
【原子爆弾で被爆した広島の匿名女性。年齢も伏せられている。】 「(被爆直後は)鏡のかけらで、私の顔をのぞいて、本当にもう、これが自分の顔だったかって信じられないくらい。うみや血の塊が乾いて、顔全体が噴火口の塊だっていうくらいだったんですけど」 「母がいわゆる原爆症だと思うんですけど、何か下痢がすごく続いて、血を吐いたり、歯ぐきから(血を)出したり、毛が抜けたりして(少し前)息を引き取ったんです。母の、戦争がなかったらって繰り返し繰り返し言ったその言葉を思うにつけても、私のこの醜い身体と心の痛手を残した戦争を、もう二度と絶対に起こさないでほしい」 「これからまた戦争を起こしてもいいなんて考える人があったならば、この私の顔、体をその人に見せてやりたいと思います。私のこの体を見て、目を見て、そのことが言えるんだったら、そのような人は、人間じゃ絶対にあり得ない」
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■戦犯への目線■ 民主主義 一歩譲ると結局百歩を
【有沢広巳氏(高知県出身の経済学者。戦前、治安維持法違反で身柄拘束)】 「世界情勢に明るい人とか、日本の国のことをよく知っている人々は戦争を起こしたら、大変だということを考えておりましたし、言ったもんですけれども。そういう人々は全部、国の方針に反するアカだ、容共論者だというふうになって、弾圧されていったわけです」 「結局、何かものを言う人は、みな国策に迎合したことしか言わなくなって、あたかもそれが、国民(全体)の声のようになっていった。だんだん民主主義の権利を狭める、言論の自由、思想の自由を狭める。そういう小さな態勢でも、一歩を譲りますと、結局百歩を譲らなければならなくなると思うんで、一歩のうちにですね、この民主主義は守らなければならないと思うんです」
有沢広巳(1896~1988年) 高知県出身の経済学者・統計学者。東京大学名誉教授。反ファシズム、反戦主義を呼びかける結社支持を理由に38年、治安維持法違反で起訴され、東大を追われる。戦後は東大に復帰し、原子力委員会委員長代理を務めるなど国の経済政策やエネルギー政策に関わった。
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A級戦犯だけでなく、政府も戦争の総括をしていない。ツンボ桟敷に置かれていた国民が形成する世論のせいで戦争をせざるを得なかったみたいな発言もある・・・・・
敗戦ではなく、終戦だったと言う発言にはたまげた。国民にどれだけ犠牲を払わせれば気が済んだのだろうか?悲惨なのはいつも庶民である。愛国教育やメディアのプロパガンタで戦争協力者に仕立てられ、前線で玉砕を強いられ、無差別攻撃の犠牲になる。そして戦争責任まで押し付けられるのだからたまったものではない。責任の所在をあやふやにして誰も責任を取らないのが日本の特徴である。原発事故後の対応を見ても、誰も責任を取らない。 眼前の問題を直視せず、先送りにして、にっちもさっちもいかなくなって、現場から逃げ出す。
戦争を総括してこなかったA級戦犯。原発事故を直視せず、強引に再稼働に突き進む政府。両者はともに、現況を直視・分析せず、責任の所在を有耶無耶にし、自己の在職期間の事なかれ主義を決め込む。災害列島日本の未来は暗雲が垂れこめている。
NHKスペシャルで放送された番組は、先の大戦での日米の鮮烈な闘いを記録した113本のフィルムの一部である。
撮影地はフィリピンの東800キロに位置するパラオ諸島の小島ベリリュー。70年前日米両軍がここで死闘を繰り広げた。米海兵隊の第一海兵師団第一連隊の死傷率は約60%で歴史上最悪となった。約1万人の日本兵のうち最後まで戦って生き残ったのはわずか34人。そのあまりの犠牲の多さと過酷さから、殆ど語られて来なかったため、「忘れられた戦場」と言われている。
当時米軍が3日以内で終わると予想した戦闘は2ヶ月半の長きに及んだ。大本営の戦略転換があったからだ。玉砕前提のバンザイ突撃隊を火器でせん滅するだけの3日で終わる戦いと踏んでいたアメリカ海兵隊の誤算は大きかった。日本は軍司令部から、「玉砕」ではなく出来るだけ敵を引きつけ持久戦に持ち込むようにと指示されていた。
番組では、撃たれた兵士を助けようとして、日本軍の銃弾に倒れてしまう兵士や、過酷な戦場に耐え切れず錯乱状態に陥っていく兵士の姿を、映像で目にする事が出来る。よくもこんなに多くの映像が残っていたものだと驚くが、この戦いの映像をプロパガンタとしては利用する計画があり、18名のカメラマンが送り込まれたと言う。
カメラマンの1人で、存命していたグラントウルフキルさん(91歳)は、「生き残れるかどうかは運だけでした。あの戦場の事は家族にさえ話せません。狂気が狂気を呼ぶ地獄の戦場、それがペリリュー島でした」と語っている。
日本の戦況が悪化していた1944年4月、ペリリュー島の防衛のため、派遣されたのが中川州男(なかがわくにお)大佐率いる陸軍歩兵第2連隊だった。満州に駐留していた関東軍の中でも最強の部隊と言われていた。この年、日本はニューギニアの島々やサイパンなどをアメリカ軍に次々と奪われていた。一方アメリカ軍は最大の目標をフィリピン・レイテ島に定めていた。レイテ島攻略を有利に進めるためアメリカ軍はペリリュー島の飛行場に戦略的価値を見出し、これを察知した日本軍は関東軍の精鋭を島の防衛の主力として送り込んだのだ。
中心となったのは約1万7000人の第1海兵師団の将兵たち。海兵隊きっての精鋭部隊だった。師団長のウィリアム・ルパータス少将は「3日もあればペリリュー島を制圧できる」と豪語していた。1944年9月15日、アメリカ軍の上陸作戦が始まった。真っ先に上陸したのは師団の中でも最強とされる第1海兵連隊の将兵3000人。犠牲を払いながらも島に上陸したアメリカ兵たちはバンザイ突撃と呼ぶ日本軍の攻撃を待った。バンザイ突撃とは銃剣や軍刀を手に部隊ごと敵陣に切り込む日本軍の戦法だ。これまで装備に勝るアメリカ軍は圧倒的な火力で制圧してきたため、ペリリューでもこれを撃破すれば3日間で戦いを終わらせることが出来ると考えていた。しかし、待てど暮らせどバンザイ突撃隊は来ない。
中川守備隊長は大本営の指示を受け持久戦の準備を進めていた。硬い石灰岩を掘り進め複雑に入り組んだトンネル陣地を構築していた。一度に1000人以上が立てこもれるものもあり、飛行場北部の岩山を中心に500ヶ所以上作られた。上陸から8時間後、アメリカ軍は最大の目的であった飛行場の制圧に取り掛かる。日本軍の戦車は初日で壊滅した。上陸して3日目、アメリカ軍は飛行場付近の日本軍陣地を制圧し、食料の備蓄倉庫もおさえた。3日間の戦いで日本軍の死者は少なくとも2400人。アメリカ軍もすでに2000人を超える死傷者を出していた。この時、ルパータス少将のもとには陸軍から援軍を得るべきだという意見が上がっていた。しかし「あと2日もあれば我々だけで制圧できる」と支援を断わる。陸軍をライバル視していたからだ。陸軍からの援軍を断った海兵隊は日本軍がトンネル陣地をはりめぐらした岩山でのゲリラ戦に引き込まれ、負傷者はさらに増えていく。
この頃から映像は遺体ばかりが目立つようになる。遺体のことを「丸太」と呼ぶようになるほど感覚が麻痺していたとグラント・ウルフキルさんは言う。
第1海兵連隊は上陸から1週間で撤退を余儀なくされ、ペリリュー島をめぐる戦況は大きく変化していた。マッカーサー大将率いる陸軍6万人はペリリュー島の陥落を待たずにレイテ島に上陸することを決定し、レイテ島攻略を支援するというペリリュー島の戦略的意義は失われつつあった。上陸から2週間、5000人近くの犠牲者を出していたアメリカ軍は火炎放射器を投入した。炎を130m先まで噴射することが出来、トンネル陣地に近づかず、日本兵を生きたまま焼き殺すことができた。さらに上空からナパーム弾を投下、1000℃の炎で日本兵が潜む岩山を丸ごと焼き尽くした。新兵器の投入によって日本兵の死者は9000人を超えた。水も食料も底をつき、10月になっても40℃を超える暑さの中、島は放置された遺体であふれ、耐え難い臭いが充満した。一体何のために戦っているのか、目的さえ分からない戦いが続く。
持久戦が始まってから50日が過ぎた11月8日、中川大佐率いる守備隊の将兵は300人余りになっていた。司令官に緊急電報を送り、銃剣を手に敵に突撃したいと玉砕を申し出た。しかし、返信は「国民の士気を高めるためにも持久戦を最後まで続ける」よう命じたものだった。一方、アメリカ側でも作戦が見直されることはなかった。ペリリュー島は戦局から取り残されたにも関わらず、軍上層部は島の制圧にこだわり、戦闘が続けられたのだった。1ヶ月を過ぎた頃から常軌を逸した異常な戦いになっていく。
ペリリュー島の戦いが始まって71日目の11月24日、守備隊本部以外はすでにアメリカ軍に制圧された。この時、日本軍の生き残りは120人。そのうち70人は身動きすら出来ない重傷者だった。長期持久戦を続けてきた守備隊長・中川大佐は「状況切迫 陣地保持ハ困難ニ至ル」という電報の後、自決した。
生存者の証言と狂気の描写が物凄い。
米軍のボムロイ一等兵は、「闘いのさなか日本兵が突然銃剣で襲って来た。私は彼の腹に2発打ち込んだ。倒れた彼の懐から一枚の写真がのぞいていた。手にとって見ると彼が両親と幼い妹と共に写っていた。一体なんて事をしてしまったのだろう。私は大きなショックを受け言葉を失った」と後に語り、座り込んで動かない姿がビデオに記録されている。
「3人の米兵が惨殺されていた。ペニスが切り取られ、口にくわえさせられ、刺し傷が50か所にも及んでいた。死体を使って銃剣の練習をしていたに違いない。これを見た私は復讐心に突き動かされ、皆殺しにしたいと思った。怒りに震えたまま、その場にいると仲間が、あの中にジャップがいるぞ!と叫んだのです。私はゆっくりやつらのトンネル陣地に近寄りました。そこには通気孔があり、中を覗き込んでみると日本兵がこちらを見ていました。私は銃をそいつの顔に突きつけて思いっきり引き金を引きました。そのまま銃口を振り回して8発の銃弾を撃ち込みました。やつらを蜂の巣のようにしてやりました。全部で17人の日本兵を皆殺しにしたのです。」
錯乱状態になった米兵を米兵自身が殺さざるを得ない状況にも遭遇した。アメリカ兵の1人が「俺は殺される!やつらに殺される」と大声で喚き出し、大量のモルヒネを打ったものの効かず、わめき声が大きくなるばかりだった。塹壕用のシャベルで殴り殺したと言う。300m先には日本兵の陣地があった。多くの仲間を危険にさらすことはできなかったのだと言う。
後ろ手に縛りあげられ、喉を掻き切られた日本兵の遺体にも遭遇した。当時、敵前逃亡者や投降しようとした日本兵は日本兵によって情け容赦なく惨殺されたと言う。
戦いから70年、ペリリュー島では今もトンネル陣地の跡が新たに見つかり、旧日本軍の武器が当時のまま残っている。2500人を超える日本軍将兵の遺骨がいまなお眠ったままだ。
太平洋方面最高指揮官ニミッツの戦史の中で、難攻不落の激戦場として回想しているのは、ペリリュー島の攻防戦だけである。
とにかく、戦争の狂気を記録したものすごい記録だ。日本なら、秘密保護法の下にこんな凄いフィルムは始末していただろうに。
情報公開という面で、アメリカは間違いなく先進国だ。
ペリリュ―で転換された戦術、玉砕から持久戦への変遷、バンザイ突撃からゲリラ戦への転換・・・・ぺリリューで地獄を味わった米国は硫黄島、沖縄、ヒロシマ、ナガサキと切れ目なく繋がる戦闘で住民を巻き込んだせん滅作戦、無差別攻撃に転換していくことになったのかもしれない。
国内での困窮から脱するため、政府の言葉を信じてブラジルに渡った移住者は、19万人にも上り、農奴のように働かされ、帰りの船賃を貯める余裕もなく、過労と病気でどんどん死んでいく。彼らを守るはずの日本領事は、太平洋戦争の開戦と同時に自分たちだけ帰国、大勢の移住者は「敵性国民」として取り残されてしまった。日本語新聞は禁止され、日本語学校は強制閉鎖され、ラジオまで取り上げられ、サンパウロ州の奥地で開墾していた日系人は孤立する。
その後、1945年8月に日本から「敗戦」の知らせが届くが、それを信じたくない移住者は「これは敵のデマだ、本当は日本は勝ったのだ」として、敗戦を受け入れた移住者を敵視する。そういう「日本の敗戦を信じたくない日本人」を目当てに、嘘の情報を印刷して売る「業者」が現れ、読者が読みたがる現実逃避の創作物語を「事実」として販売したという。1946年のサンパウロ新聞の正月号の社説には「日本戦勝の春」と題する社説さえ掲載された。
「勝ち組」の人間による殺害の動機は「あいつらは天皇の悪口を言ったりご真影を粗末に扱ったから」というものだったが、「負け組」に属していた人やその家族は「そんなことは絶対あり得ない、一体誰がそんなデマを流したのか」と憤る。憎悪に思考を支配されると、その憎悪を正当化したり増幅させる情報しか耳に入らなくなり、際限なく攻撃的になり、「悪いのは相手だから殺しても構わない」という論理に飛躍する。
終戦から2ヵ月後の1945年10月3日、日本からはじめて敗戦を伝える公式文書が届いた。それには「朕は帝国政府ヲシテ北米合衆国・大ブリテン国・支那...右諸国共同宣言ノ条項を受諾ス...」とポツダム宣言を受諾する旨が書かれてあった。その文書に添えて、秘密結社興道社の指導者でバストス産業組合理事長であった退役陸軍大佐の脇山甚作ほか計7名の署名の敗戦を認める文書も作られ、サンパウロ州に散在する日系移民社会に配布された。当時日系移民の9割は、西方の奥地に暮らしており、そのほとんどが日本の勝利を信じ、「勝ち組」と呼ばれる人々であった。彼らの多くが、「日本は勝つ」と考えていた。当時の「勝ち組」のひとりである中野文雄はNHKの取材に応じて「今から考えれば、一種の迷信を信じた、ということになるのだが、神国日本が戦いに負けるはずはない、と思った」と言い、絶対的な信仰状態だったと語った。サンパウロ州奥地の移民の多くが、この終戦伝達書を偽書と見なした。勝ち組は2万人におよび、「認識運動」を行う人々の家の門や玄関に「国賊」と落書きする、商売の邪魔をする、脅迫状を投げ込むことまで始めた。