城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

島原城(長崎県)

2011-08-17 | 城(城址)歩き
8月15日、原城址を歩いたあとは、島原城 へと向かった。
相変わらず雨はやまず、車も多少混んでいたので、
到着するまで、1時間ほどかかった。

島原城に着くと、堀に架けられた通路を渡り、本丸へと入る。
本丸の石垣は高く、そのため車でググッと上る感じだった。
本丸に着くと、いきなり 天守閣 が目の前にあり、
その周辺が駐車場となっていた。
これには、ちょっと違和感を覚えた。

【天守閣①】

島原城の天守閣は、明治9年(1876)に一度解体され、
現在の天守閣は、昭和39年に外観復元された、五重の復興天守となる。

天守入口では、忍者姿や鎧を着た人達が観光客を案内している。
原城址の静かで神秘的な雰囲気とは違い、ここはとても賑わっていた。

【天守閣②】

城の外観をゆっくり見てまわりたかったし、時間もなかったので、
天守閣の中には入らなかった。

【天守閣③】

この地は森岳といい、この城も別名 『森岳城』 という。
天正12年(1584)、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい) にて、
日野江城主・有馬晴信 が本陣を構え、
佐賀の 龍造寺隆信 を討ち取った地でもある。

【天守閣④】

慶長17年(1612)、
有馬晴信が、岡本大八事件 をきっかけに追放、死罪となると、
元和2年(1616)、
大和五条(奈良県)から、松倉重政 が入封する。

重政は当初、日野江城に入るも、
その日野江城と支城の 原城 を廃し、資材や石垣の石などを転用して、
元和4年(1618)、島原城の築城にとりかかった。

【天守台石垣】

原城の城歩きでも記したが、
この島原城は総石垣で、4重5階の天守と櫓49棟を建てた、
4万3千石の大名には過分な城だった。
その結果、領民に重い税の負担を強いることとなり、
それが、島原の乱 が起こった原因のひとつとされている。

【天守閣⑤】

この地の地盤は、火山灰や溶岩流で形成されており、築城には危険な工事が伴った。
本丸には、松倉重政の祠が建っており、
重政と築城工事中に亡くなった人々が祀られている。



現在、本丸には三つの櫓が復元されている。
その一つ、
昭和35年(1960)に本丸南西の位置に復興された、西ノ櫓
現在の天守よりも先に完成したことになる。
島原の乱時、この櫓に蓄えていた鯨の肉が役に立ったという話がある。

【西ノ櫓・表側】

【西ノ櫓・裏側】

この西ノ櫓付近には、
18世紀末以降に桜門外の水源と三ノ丸との間に布設されていた、
石の水道管などが置かれていた。



西ノ櫓の正面にある、御城ノ鐘。

【御城ノ鐘】

本丸東に位置する、現在は民具資料館となっている、丑寅ノ櫓

【丑寅ノ櫓】

巽ノ櫓 は、昭和47年に復元された三重櫓。

【巽ノ櫓】

御馬見所(おんうまみしょ)とは、藩主が藩士の訓練状況をみたという場所。
三ノ丸にあった建物が、現在は本丸に移築されている。

【御馬見所】

本丸北側の駐車場から天守閣をみた。

この辺り、石垣の前にゴミ箱があったり、物置小屋があったり、
雑然としていたのがちょっと残念。



寛永14年(1637)、島原の乱時、
この城は 天草四郎 率いる一揆軍の猛攻を受け、これをしのいだ。
本丸には原城にあったものと同じ姿の、天草四郎像が建っていた。

【天草四郎の像】

外郭は、4キロ四方にわたり、矢挟間をもつ練塀で囲まれている。



塀に沿って歩いてみた。
一段下がった場所であるため、間近に本丸石垣が見れる。

【本丸石垣】

木がじゃまだと思う・・・。



島原城本丸から見る 雲仙普賢岳 は、
この日はずっと霧に包まれたままだった。



また雨が強くなったので、売店で雨やどり。
しばらく休んで、城の外周と堀を見るため、本丸を出た。

本丸では、歴史的な価値を考えるとちょっと物足りなさを感じたが、
石垣、堀を見ると立派なもので、やはり大がかりな城であることが実感できる。

【堀①】

屈曲した石垣が並び、段々状に見える。

【堀②】

城の南東から東側の水堀には、蓮がびっしりと茂っている。

【蓮池】

南東方向からみた天守。
手前は巽ノ櫓。



天守の東側に位置する、丑寅ノ櫓。

【丑寅ノ櫓】

本丸石垣側から、二ノ丸方面をみる。

島原城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸を一直線に配置した、
連郭式の縄張の城だった。

二ノ丸石垣の上に建っている建物は、島原文化会館。
他にも森岳公民館などが建っている。

【二ノ丸遠景】

本丸と二ノ丸の間の堀。
きれいに整備され、歩けるようになっていた。
菖蒲園になっている場所もある。

【本丸、二ノ丸間の堀】

今度は、二ノ丸側から本丸石垣をみた。

本丸と二ノ丸は堀を隔てて、唯一廊下橋によって繋がっていた。
緊急時はこの橋を落とすことにより、本丸が独立できるようになっていた。



丑寅ノ櫓と本丸石垣。
草に覆われた石垣は、なかなかいい感じ。

【丑寅ノ櫓と本丸石垣】

上の写真、カメラを左にずらすと本丸東側の堀の様子がわかる。

【本丸東側の堀】

北東隅から北側の本丸石垣。

【本丸石垣】

二ノ丸石垣の南東隅。
大雨の中、車で移動しながらの外周見学だったので、
この時は堀の中を歩く気もしなかった。

【二ノ丸石垣】

堀から道路を隔ててある、武家屋敷・佐久間邸跡



島原藩二代藩主・松平忠雄 時代に 佐久間太郎左衛門 が家臣に召抱えられ、
知行100石とこの屋敷を下賜された。
往時の屋敷は300坪あまりの立派な武家屋敷だったようだ。

天草にて、住民約5000人がキリシタン信仰の疑いで幕府に取り調べを受けた際、
郡方勘定奉行として江戸へ上り、
穏便な解決を図るようかけあったのが、この佐久間太郎左衛門という人。
優秀な人物だったようだ。

ちなみに佐久間家は代々、太郎左衛門の名を世襲したらしい。
これではどの太郎左衛門さんなのか分からない。(笑)



島原城は築城の際、領民から重い税を摂取して建てられた。
島原の乱の時、この城は何万人もの命を奪った幕府側の城だった。
原城の遺構と歴史に触れた後、ここを訪れると、
この城に対して、どうしてもいい印象を持てない。

城の案内板には、
~城の復元は、長年の島原市民の夢である~ ようなことが書かれてあった。
ちょっと皮肉めいたものを感じたが、現在は観光地として多くの観光客が訪れ、賑わっている。
きっと島原市民の生活にも、いい影響を与えているのだと思う。



【おまけ】

盆休みを利用して、島原の2つの城を歩いてみたが、
大雨に悩まされ、運が悪かった。
その分、印象に残った城歩きだったが・・・。

帰り道、信号待ちの時にちらっと櫓風の建物・・・島原駅が見えた。



晩飯に川登SAで食べた、佐世保バーガーは美味かった。