城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

広島~山口・・・萩城城下町

2010-08-24 | 史跡散策
この2日間は快晴でとにかく暑かった。
15日14:00
萩城址見学は旅の最終目的だったが、せっかくなので城下町も見学した。
幕末ブームもあって、観光客が多い。
町中の駐車場はいっぱいだったが、近くの中央公園駐車場に車をとめる事ができた。

始めに桂小五郎こと木戸孝允の旧宅を見学。

天保4年(1833)、萩藩医・和田昌景の長男としてここに生まれた。
8歳で桂家の養子となるも、養母が死去したため、
江戸へ出るまでの約20年間をこの家で過ごした。

初名は桂小五郎。 33歳の時に藩の命により、木戸貫治と改名。
翌年には木戸準一郎と改めた。 木戸孝允は実名。

青年の頃には吉田松陰に学び、30歳の頃には藩の要職につく一方で、
京都に赴き、国事にも奔走した。

慶応2年(1866)には坂本竜馬の仲介により、
討幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。

明治新政府では多大な功績により、西郷隆盛、大久保利通とともに、
『維新三傑』 と呼ばれる。

明治10年(1877)西南戦争の最中、45歳で京都にて病死した。

桟瓦葺二階建の木戸孝允旧家は、昭和7年(1932)に国の史跡に指定された。

【木戸孝允旧家】

木戸孝允旧家からすぐの場所に円政寺(えんせいじ)という寺があった。
ここは高杉晋作、伊藤博文が勉学に励んだという寺。

江戸時代には、法光院(ほうこういん)とよばれ、藩主毛利家の祈願寺だった。
明治時代に入り、別の場所にあった円政寺とこの法光院が合併し、今の円政寺という名前になった。

【円政寺鳥居前】

伊藤博文の母・琴子とこの寺の住職とは従兄妹同士であったため、博文は一年間ここに預けられた。
門には毛利の家紋・一文字三星が掲げられていた。

【円政寺山門】

円政寺から少し歩くと石井茶碗美術館などがあり、高杉晋作が生まれた家がある。

【高杉晋作生家の門①】

この時の一番人気。 多くの見学者がいた。

【高杉晋作生家の門②】

この旧宅は家禄200石を受けていた晋作の父・高杉小忠太の家で、
座敷、次の間、居間、玄関、台所などが当時のまま残っている。

玄関は狭い。

【玄関】

玄関横の小室。
全体的に小さな造りのように感じる。

【小室】

裏庭に残る井戸。
晋作誕生の際に産湯として使用されたといわれている。

【初湯の井戸】

庭園に残る鎮守堂。
家を守護するもの。 晋作遺愛品とある。

【鎮守堂】

座敷には色々と展示物があった。
ここは人だかりができていて、少々観るのに時間がかかった。

【座敷】

他にも吉田松陰、伊藤博文、久坂玄瑞ゆかりの建物、松下村塾などを観たかったが、
暑さと疲れで断念した。
萩の城下町を見学し、こんなにも幕末の志士がここから巣立ったことに改めて驚いた。

★1泊2日の小旅行を終えて★

14:50 萩の城下町を後にした。
持ってきたポロシャツは2枚とも汗が乾いてなかったので、
駐車場で、城下町売店で購入した高杉晋作Tシャツに着替えた。

今回のおみやげ。
広島のもみじ饅頭。 中身がクリーム、チョコクリームなどが入った詰め合わせ。
広島カープの包装がされたものもあったが、今回は別のもの。
長州揚げ。 ビン詰めのホタルイカの塩辛。
特に今回一番気に入ったのが、東行庵で買った晋作餅。
大宰府の梅ヶ枝餅に似た焼き餅で、普通のとシソが巻いてあるものがあった。
その場で焼きたてを食べるのもよし、
帰って冷やして食べても美味しかった。

2日間の旅で、5つの城を観に行くことが第一の目的だったので、
結構、名所の近辺を素通りした所があった。
心残りはいずれまた行く機会があるだろうと思うことにして、
城や城址だけでなく、最近少し興味を持ちはじめた幕末史にも触れることができ、
とても満足した小旅行だった。


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