城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

石垣原合戦跡(大分県)

2010-01-21 | 史跡散策
2010年1月4日(月)
(新たに2014年4月6日の写真を追加しました)

九州の関ヶ原といわれる、黒田軍と大友軍が戦った 石垣原の戦い は、
現在の大分県別府市が合戦の地となり、両軍の陣や激戦地の跡を見ることができる。
地元であるため、いざ史跡のある場所を探していると、
普段何気なく通り過ぎていた場所などにあり、新たな発見ができた。

【別府の街】

1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦が動き出すと、
当時、毛利家に蟄居の身となっていた 大友義統 (おおともよしむね)は、
西軍大将を務める 毛利輝元 の命を受け、九州の地へ出陣する。

義統はかつて豊後の国(現・大分県)を支配した 大友宗麟 の嫡男だが、
秀吉の朝鮮出兵の際に敵前逃亡し、豊後一国を没収された。
その為、関ヶ原合戦前の混乱に乗じ、西軍・石田三成 から軍資金などの援助もあり、豊後奪還を目指した。

義統の元には以前、大友氏に仕えていた家臣らが集結し、総勢2000余の軍勢となる。
まずは細川家の飛地となっていた杵築の 木付城(杵築城)を攻めるため、
別府湾の浜脇から上陸し、立石山の中腹に布陣した。

一方、中津城にて関ヶ原合戦の知らせを受けた 黒田(官兵衛)如水 は、こちらも九州を手中に治めるべく立ち上がる。
黒田家の主力となる嫡男・黒田長政 率いる5400余の軍勢は 徳川家康 率いる東軍に属し、
上杉討伐に出陣していたため、
如水は城内に蓄えていた金銀、米などを使って浪人3600余を雇い入れる。
さらに農民からも兵を募集し、最終的には9000余の軍勢に膨れあがった。
これを如水は8陣の軍に分け、自らは第8陣を率いた。

中津城から出陣した如水の黒田軍は豊後高田城を落とし、更に富来城、安岐城に進軍する。
赤根山に到着した時、大友軍が杵築城を攻撃中との一報を受け、
井上九郎右衛門 、時枝平太夫率いる3000余の軍勢に救援に向かわせた。

大友軍は杵築城に籠城する細川軍を攻撃し、三ノ丸、二ノ丸まで攻略していたが、
本丸を攻め落とせずにいた時に黒田の援軍が迫ってきたため、立石に退却していった。
如水はそれを追うよう九郎右衛門に指示し、
杵築城からは城代・松井康之、有吉立行率いる200の兵が黒田軍に加わった。

立石に陣取っていた大友義統は 石垣原 を決戦の地とし、
杵築から退却してきた軍勢を加えた3000余の兵で黒田軍を迎え撃つ態勢を整えていた。
第1陣に 吉弘統幸、第2陣に 宗像鎮続、第3陣に木辺玄達を配し、3段の布陣で合戦に備えた。

大友軍本陣跡 は、現在別府市にある杉の井ホテルから西へ上って行った所にある。



【大友義統本陣跡】

さらに上って行くと義統の側近であり、合戦では第2陣を率いた 宗像鎮続 (むなかたしげつぐ)の陣跡がある。



鎮続は大友氏改易後、岡城主・中川氏に仕えていた。



大友義統本陣跡から下っていくと、第1陣を率いた 吉弘統幸 (よしひろむねゆき)の陣跡がある。

【吉弘統幸陣跡(2014/4/6 撮)】

統幸は大友氏改易後は柳川城主・立花氏の所に身をよせていた。
立花宗茂とは従兄にあたる。



合戦前、統幸は義統に、降伏して徳川方に付いた方が賢明なのではないか。
と諌めるも受け入れられなかったといわれる。



一方、大友軍を追撃してきた黒田・細川連合軍も 石垣原 (いしがきばる)に到着。
石垣原の北方、立石から3キロほどの距離にある 実相寺山 (じっそうじやま)に布陣した。

【実相寺山】

黒田軍の追撃隊大将の 井上九郎右衛門 も自軍を3つに分けて戦に備えた。
第1陣に 時枝平太夫、2陣に 久野次左衛門 曾我部五右衛門
3陣に細川勢と九郎右衛門が布陣した。

実相寺山から大友軍が陣取った 立石山 をみる。

【立石山方面(2014/4/6 撮)】

立石から黒田軍が布陣した 実相寺山 をみる。
間にある市街地一帯が 石垣原 とよばれ、当時は火山岩が点在する原野が広がっていた。

【実相寺山方面(2014/4/6 撮)】

黒田軍は如水を待たずして戦闘を開始。
立石城に討って出た。

大友軍は劣勢と見せかけ、自軍深くまで黒田軍を誘い込み、十分引きつけたところで猛攻をかけた。
その乱戦の中、深追いしてしまった黒田方・ 久野次左衛門 が討ち取られ、
若干18歳の次左衛門の補佐をしていたとされる 曾我部五右衛門
大友方・宗像鎮続 との一騎打ちにて刺し違え、討死した。

大友義統本陣跡から少し行くと 天満天神宮 があり、
ここには 宗像鎮続の墓 がある。

【天満天神宮(2014/4/6 撮)】



墓は本殿を正面に見て右手。



元は現在地の東南方向下段にあったが、明治に現在の場所に移されたらしい。
壇上の向かって右から3番目の石殿が鎮続の墓とされているが、
一番左の五輪塔だともいわれている。

【宗像掃部鎮続の墓】

『 黒田家譜 』 によれば、大友軍の反撃を受けた黒田軍の先鋒は総崩れとなり、
一時は実相寺山と 加来殿山 の間の 犬の馬場 (いんのばば)まで撤退を余儀なくされた。
大友軍の武将・吉弘統幸 はその黒田軍を追い、実相寺山の麓まで迫ったと伝えられている。

【加来殿山】

大友軍・吉弘統幸 は、戦が始まる前は大将である義統に降伏を勧めるも、
いざ戦いが始まると勇猛果敢に戦った。

【吉弘統幸】

大友軍は弘統幸の活躍などで、黒田軍の本陣に迫る勢いだったが、
加来殿山で戦況を見ていた 井上九郎右衛門 は、
徐々に疲れの見え始めた大友軍に一気に攻めかかり、これによって戦況は逆転する。
戦場となった石垣原の中心には、火山噴火によって自然にできた 石垣土手 が東西に走っており、
これを黒田軍が突破したことにより、ほぼ戦の勝敗は決した。

そこで全軍撤退を命じた義統だったが、統幸は戦い続け、遂には井上九郎右衛門との一騎打ちとなった。
槍の名手だった統幸は九郎右衛門の股に傷をつけるも疲労しきっていたため、
終には九郎右衛門に左脇下を槍で突かれ、討ち取られたという。

別府市石垣西に 吉弘統幸 を祀る 吉弘神社 がある。



【吉弘神社本殿(2014/4/6 撮)】

本殿裏には板碑型の墓碑があり、これが 吉弘統幸の墓 といわれている。

【吉弘統幸の墓】



隣りにある石殿は統幸の二男・正久が仕えた細川氏が建てたもので、
屋根の部分には細川氏の九曜紋と吉弘氏の家紋が刻まれている。



吉弘統幸の死によって混乱した大友軍は敗走し、立石城に籠った。
激戦の後の石垣原には、大友方の兵500余の屍が横たわっていたといわれる。

やがて、黒田如水の本隊も石垣原に到着。
実相寺山に本陣を構えた。
現在、黒田如水本陣跡 の碑が、実相寺山麓の公園の中にある。

【黒田如水本陣跡】

敗北が濃厚となった大友軍からは逃亡者が相次ぎ、総勢800余名にまで減っていた。
ここで、立石城に籠った大友義統の元に黒田方の使者がやってくる。
黒田家重臣 母里太兵衛 である。
太兵衛の妻は大友宗麟の娘で、太兵衛と義統とは義兄弟にあたる。
『 降伏すれば身の安全を約束する 』 という条件を伝えてきた。

そしてついに義統は降伏を決め、
明るいうちに降伏すれば、黒田の兵から嘲笑を受ける。ということで、
日没後に太兵衛の陣所に赴いたという。

義統はその時、剃髪して黒染めの衣を纏って降伏してきたといわれ、
義統本陣跡近くにある 海雲寺 でその儀式を行ったとされている。

【海雲寺正門(2014/4/6 撮】

のちに義統は常陸国へ流罪となり、
1605年(慶長10年)、48歳で死去した。

【海雲寺本堂】

1600年(慶長5年)9月15日、義統が降伏したその日、
関ヶ原では家康率いる東軍が勝利を収めていた。
如水の元にその東軍勝利の一報が入ったのは、8日後の9月23日だった。

別府市荘園町に建つ、石垣原古戦場跡の碑

【石垣原合戦の碑】

無名の戦死者の墓といわれる墓石が並んでいる。



近くを流れる境川は、合戦では大友軍の防衛線であった。
川沿いは春には桜並木の道となり、鶴見岳までの登山道にもなっている。

【境川の桜】

石垣原合戦の碑から東へ緩い坂を下りる感じで道を行くと、
七ッ石稲荷神社(七ッ石公園)がある。

【七ッ石公園】

ここ七ッ石から現在の南立石公園の周辺一帯が激戦地だったと伝えられている。

【七ッ石稲荷神社】



現在、標高169mのなだらかな実相寺山の頂上には、妙法寺の仏舎利塔が建っている。
黒田方の本陣となったこの山では、合戦後の首検分が行われたといわれる。

【仏舎利塔】

激戦地跡の周辺では毎年見事な桜が咲き、桜並木の下では花見をする人々で賑やかになる。
華やかに咲く桜は、合戦での多くの戦死者を偲び、盛大に弔っているような気がしてならない。




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