高城址(木城町)から車で15分程の場所に高鍋城祉(高鍋町)がある。
高鍋城は戦国時代には財部城(たからべじょう)と呼ばれ、伊東氏の家臣・落合氏の居城だった。
天正5年(1577年)、落合氏は跡目問題による事件が元で島津氏に寝返り、
財部城は島津氏の所有となる。
しかし天正15年(1587年)、
豊臣秀吉の九州征伐により、筑前・秋月城主だった秋月種実が移封され、城も秋月氏のものとなった。
関ヶ原合戦後の慶長9年(1604年)には秋月種長により、櫛間からこの城に居城が移される。
延宝元年(1673)に財部城は、高鍋城と名が改められた。
岩坂門前の駐車場に車をとめた。
岩坂門は寛文10年(1670)に完成した、二ノ丸の正門となる。
【岩坂門跡】
石段を上ると舞鶴神社がある。
高鍋城は舞鶴城と呼ばれ、現在は舞鶴公園として整備されている。
長友勘右衛門の水路功績記念碑。
勘右衛門は高鍋一帯の用水路を敷設。
初代藩主・秋月種長はその功績を大いに称えたといわれる。
【水路功績記念碑】
二ノ丸からさらに上へ、石段を上る。
戊辰の役・殉難招魂の碑。
明治元年(1868)、高鍋藩は高鍋隊を編成。 北越・東北を転戦する。
谷坂墓地に眠る、この戦役で斃れた十一勇士達の霊を悼み、
秋月種樹によって記された碑文が刻まれている。
【殉難招魂の碑】
延宝6年(1678)に完成した長峰門は、もとは櫓門だった。
本丸北側にあり、本丸正門となる。
【長峰門跡】
西南の役・丁丑(ていちゅう)戦亡記念碑。
明治10年(1877)の西南の役の際、
高鍋藩は官軍につくか西郷軍につくか、意見が分かれるも結局は西郷軍に参加。
田原坂の激戦など各地を転戦するも、ついに官軍に降伏する。
この役に参加した者700名余、うち戦死者78名、受刑者20名と多大な戦災を被った。
【丁丑戦亡記念碑】
本丸は芝のきれいな広場になっていた。
【本丸跡①】
本丸にはかつて御殿があり、
延宝4年(1676)、第三代藩主の秋月種信のときに完成する。
藩士の集まる大広間、御書院、家老所、奉行所などがあり、ここで高鍋藩の政治が行われた。
点々と本丸御殿のあった名残りである、礎石が散らばっていた。
【本丸御殿跡礎石】
案内板には細かく御殿の見取図があった。
【本丸跡②】
ここが本丸なら、もう見るものはないかな・・・と思いつつ、
物見台への案内があったので行ってみた。
物見台からの景色は木が邪魔をして、町並がよく見えなかった。
遠くに日向灘が見える。
【物見台からの景色】
物見台からさらに上は山道になっていた。
途中に児童公園があり、遊具などがあったが他には何も見あたらなかった。
案内板によると三層櫓跡があるはずだったが、見つけることができなかった。
ここが三層櫓があった場所かな? と思った・・・何かの跡。
しばらく山道を歩いていたが、とくに何の案内もないので下りることにした。
再び岩坂門跡付近まで戻り、その周辺を歩いてみる。
高鍋藩領の境界に建てられていた二本の石柱。
左は佐土原藩との境にあったもの。
右は延岡藩との境にあったもの。
【領国境標柱】
明治24年(1891)に秋月種樹の住居である萬歳亭が建てられた。
その際、掘られたのではないかと考えられている井戸。
その後も藩主やその一族が、昭和の初めまで使用していたとのこと。
【御殿井戸】
井戸のすぐ側には、刀工鍛冶場を復元した建物があった。
秋月家のおかかえ刀工師は三家あり、いずれも岩下姓で、
初代藩主・秋月種長により、筑前から呼び寄せられたということ。
内部は刀工師の人形によって、鍛冶場が再現されていた。
【刀工鍛冶場】
萬歳亭(ばんざいてい)は秋月種樹の住居として、明治24年に建てられた。
【萬歳亭】
昭和17年に現在歴史資料館のある場所に秋月邸が新築されたことにより、
秋月種英氏の書斎として使用された。
【萬歳亭内部】
【歴史資料館】
ここで高鍋城祉の見学は終えようと思ったが、
本丸跡にぽつんと一つあった、多分石垣の一部であろう石のことが気になったので、
岩坂門跡の石垣をよく見てみた。
所々に本丸の石と同じ、矢穴技法で割られた跡が見られた。
【岩坂門跡の石垣の一部】
ちょうど昨日まで、ここ高鍋城址では灯篭祭りが開催されており、
周辺は約13000基の灯篭の灯りによって、幻想的な光景がひろがるとのこと。
この灯篭祭りは、
高鍋藩の全盛期を築き、江戸時代の名君とされる第七代藩主・秋月種茂を偲び、
種茂の創設した藩校 『明倫堂』 の教えに明かりを灯す・・・
という目的で始まったものらしい。
ポスターやHPでみる、灯篭祭りの情景はとてもきれいなものだったので、
是非一度、見てみたいと思った。
高鍋城は戦国時代には財部城(たからべじょう)と呼ばれ、伊東氏の家臣・落合氏の居城だった。
天正5年(1577年)、落合氏は跡目問題による事件が元で島津氏に寝返り、
財部城は島津氏の所有となる。
しかし天正15年(1587年)、
豊臣秀吉の九州征伐により、筑前・秋月城主だった秋月種実が移封され、城も秋月氏のものとなった。
関ヶ原合戦後の慶長9年(1604年)には秋月種長により、櫛間からこの城に居城が移される。
延宝元年(1673)に財部城は、高鍋城と名が改められた。
岩坂門前の駐車場に車をとめた。
岩坂門は寛文10年(1670)に完成した、二ノ丸の正門となる。
【岩坂門跡】
石段を上ると舞鶴神社がある。
高鍋城は舞鶴城と呼ばれ、現在は舞鶴公園として整備されている。
長友勘右衛門の水路功績記念碑。
勘右衛門は高鍋一帯の用水路を敷設。
初代藩主・秋月種長はその功績を大いに称えたといわれる。
【水路功績記念碑】
二ノ丸からさらに上へ、石段を上る。
戊辰の役・殉難招魂の碑。
明治元年(1868)、高鍋藩は高鍋隊を編成。 北越・東北を転戦する。
谷坂墓地に眠る、この戦役で斃れた十一勇士達の霊を悼み、
秋月種樹によって記された碑文が刻まれている。
【殉難招魂の碑】
延宝6年(1678)に完成した長峰門は、もとは櫓門だった。
本丸北側にあり、本丸正門となる。
【長峰門跡】
西南の役・丁丑(ていちゅう)戦亡記念碑。
明治10年(1877)の西南の役の際、
高鍋藩は官軍につくか西郷軍につくか、意見が分かれるも結局は西郷軍に参加。
田原坂の激戦など各地を転戦するも、ついに官軍に降伏する。
この役に参加した者700名余、うち戦死者78名、受刑者20名と多大な戦災を被った。
【丁丑戦亡記念碑】
本丸は芝のきれいな広場になっていた。
【本丸跡①】
本丸にはかつて御殿があり、
延宝4年(1676)、第三代藩主の秋月種信のときに完成する。
藩士の集まる大広間、御書院、家老所、奉行所などがあり、ここで高鍋藩の政治が行われた。
点々と本丸御殿のあった名残りである、礎石が散らばっていた。
【本丸御殿跡礎石】
案内板には細かく御殿の見取図があった。
【本丸跡②】
ここが本丸なら、もう見るものはないかな・・・と思いつつ、
物見台への案内があったので行ってみた。
物見台からの景色は木が邪魔をして、町並がよく見えなかった。
遠くに日向灘が見える。
【物見台からの景色】
物見台からさらに上は山道になっていた。
途中に児童公園があり、遊具などがあったが他には何も見あたらなかった。
案内板によると三層櫓跡があるはずだったが、見つけることができなかった。
ここが三層櫓があった場所かな? と思った・・・何かの跡。
しばらく山道を歩いていたが、とくに何の案内もないので下りることにした。
再び岩坂門跡付近まで戻り、その周辺を歩いてみる。
高鍋藩領の境界に建てられていた二本の石柱。
左は佐土原藩との境にあったもの。
右は延岡藩との境にあったもの。
【領国境標柱】
明治24年(1891)に秋月種樹の住居である萬歳亭が建てられた。
その際、掘られたのではないかと考えられている井戸。
その後も藩主やその一族が、昭和の初めまで使用していたとのこと。
【御殿井戸】
井戸のすぐ側には、刀工鍛冶場を復元した建物があった。
秋月家のおかかえ刀工師は三家あり、いずれも岩下姓で、
初代藩主・秋月種長により、筑前から呼び寄せられたということ。
内部は刀工師の人形によって、鍛冶場が再現されていた。
【刀工鍛冶場】
萬歳亭(ばんざいてい)は秋月種樹の住居として、明治24年に建てられた。
【萬歳亭】
昭和17年に現在歴史資料館のある場所に秋月邸が新築されたことにより、
秋月種英氏の書斎として使用された。
【萬歳亭内部】
【歴史資料館】
ここで高鍋城祉の見学は終えようと思ったが、
本丸跡にぽつんと一つあった、多分石垣の一部であろう石のことが気になったので、
岩坂門跡の石垣をよく見てみた。
所々に本丸の石と同じ、矢穴技法で割られた跡が見られた。
【岩坂門跡の石垣の一部】
ちょうど昨日まで、ここ高鍋城址では灯篭祭りが開催されており、
周辺は約13000基の灯篭の灯りによって、幻想的な光景がひろがるとのこと。
この灯篭祭りは、
高鍋藩の全盛期を築き、江戸時代の名君とされる第七代藩主・秋月種茂を偲び、
種茂の創設した藩校 『明倫堂』 の教えに明かりを灯す・・・
という目的で始まったものらしい。
ポスターやHPでみる、灯篭祭りの情景はとてもきれいなものだったので、
是非一度、見てみたいと思った。