八代城址から約1時間、熊本県人吉市の人吉城址に着いた。
この城はもとは平氏の代官がいた城だったが、
建久9年(1198)に人吉荘(荘園)の地頭となった相良長頼が城主となった。
城の修築の際、三日月の文様のある石が出土したため、別名・三日月城または繊月城とも呼ばれる。
室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、さらに芦北・八代・薩摩方面へと進出し、
戦国大名として勢力を拡大する。
駐車場から近かったこともあり、最初に来たのは清兵衛門跡。
第21代・相良頼寛の家老・相良清兵衛(犬童頼兄)は主君22,000石に対し、8,000石をも領していた権力者だった。
そのため横暴な振る舞いが多く、相良家ではこの権力を制しきれず、
幕府に対して罪状をあげて訴え出た。
その結果、清兵衛は幕府により津軽藩へ追放される。
その際、人吉で留守居をしていた清兵衛の養子・田代半兵衛は、
主君への仕打ちに対し不平を抱き、清兵衛の屋敷(御下屋敷)に閉じこもって反抗する。
藩は屋敷を焼き討ちにし、清兵衛の一族全員が討ち死に、または自害し、121名が死亡する。
これを 『御下の乱』 という。
清兵衛門から入ると相良神社がある。
てっきりここが清兵衛屋敷かと思いきや、ここではない別の場所で、
資料館の地下に清兵衛屋敷の地下室の遺構があった。
【相良神社】
神社から少し歩き、御館跡へ。
【御館跡近くの石垣】
二ノ丸、三ノ丸の西側麓に位置する代々の城主の館跡。
【御館跡】
御館の裏口にあたる場所。 堀合門が見える。
【御館跡・堀合門付近】
堀合門は御館の北側に位置する裏門になる。
明治4年(1871)の廃藩置県後、城外の士族である新宮家に移築され、
人吉城唯一の現存する建物として、市の有形文化財に指定されている。
門跡の発掘調査では、門柱を建てた2つの礎石跡とその両側にあった排水溝とが確認されている。
この門は以前の位置での発掘結果や移築された門、絵図に描かれた姿をもとに、
平成19年に塀や排水溝とともに復元された。
【堀合門】
堀合門の横の草地には米蔵跡がある。
西側に大村米蔵跡、東側に欠米蔵跡がある。
ともに瓦葺で、4間×10間の長い建物だった。
発掘調査では、御用米、免田納米、上村納米と記された木札が出土された。
排水溝も復元されている。
【大村米蔵跡・欠米蔵跡】
文久2年(1862)に城下町の鍛冶屋から出火があり 『寅助火事』 と呼ばれる大火となった。
御館北辺の石垣上には長櫓があったが、この火事により焼失した。
翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くし、
その石垣の上端の部分の石をはね出す 『武者返し』 と呼ばれる突出部を付けた。
【御館北辺の石垣】
この工法は西洋の築城技術で、五稜郭(北海道)や龍岡城(長野県)などの西洋式城郭で採用されているが、
旧来の日本の城郭で採用されたのは、ここ人吉城のみであるらしい。
【武者返し】
武者返しの石垣の正面にある水ノ手門跡。
慶長12年(1607)から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。
水運を利用するため、川に面した石垣には7つの船着場が造られたが、
その中で最大のものが水ノ手門となる。
【水ノ手門跡①】
当時の水ノ手門はこのような様子だった。
【水ノ手門の再現模型写真】
球磨川に架かる水ノ手橋からみた水ノ手門跡。
この門は寛永17年(1640)頃から幕末まで、
球磨川に面する城門だった。
【水ノ手門跡②】
間米蔵(あいだこめぐら)は、大村米蔵、欠米蔵と同じく切妻造りの瓦葺きの建物。
水ノ手門西側にあった間村(あいだむら)の年貢を納めたと考えられる蔵。
この蔵も文久2年(1862)の寅助火事で焼失した。
その後、再建されるも明治初期の払い下げにより解体された。
【間米蔵跡】
左手前は間米蔵跡。 右は武者返しの石垣。
左へ進むと水ノ手門跡があり、
奥へ進むと堀合門、大村米蔵跡、欠米蔵跡がある。
その更に奥へと進む。
御下門は 『下の御門』 とも呼ばれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸への登城口に置かれた門となる。
【御下門跡①】
大手門と同じく櫓門形式で、両側の石垣上に梁間2間半(5m)、桁行10間(20m)の櫓を渡し、
その中央下方3間分を門としていた。
【御下門石垣】
門を入った場所には出入り監視のための門番所があった。
【御下門跡②】
石段を上がって行く。
石垣が見えはじめる。 ここは中ノ御門跡。
この門も櫓門式となっており、見張りのための番所が置かれていた。
【中ノ御門跡の石垣】
【三ノ丸跡石垣】
天正17年(1589)第13代当主・相良長毎(ながつね)により、近世城としての築城が始まる。
ここ二ノ丸は、城主の住む御殿が建てられた城の中心となる場所だった。
御殿は北側を正面とするよう配置され、建物は計6棟からなった。
建物はすべて板葺で、廊下や小部屋でつながり、中庭が造られていた。
周囲の石垣上には瓦を張り付けた土塀が立ち、北東部の枡形には中ノ御門があり、他に十三間蔵などがあった。
北辺には御殿から三ノ丸へ下る 『埋御門』(うずみごもん)が、土塀の下に造られていた。
【二ノ丸跡】
二ノ丸から三ノ丸を時計回りに見渡す。
三ノ丸は二ノ丸の北・西部に広がる曲輪で、於津賀社(おつがしゃ)と2棟の塩蔵、
中ノ御門近くに井戸と長屋を配置するのみで、大きな広場があるだけだった。
【三ノ丸跡】
周囲には当初から石垣は造られず、自然の崖を城壁としており、『竹茂かり垣』 と呼ばれる竹垣で防御している。
これはこの城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐためでもあった。
【三ノ丸跡/塩蔵跡・於津賀社跡方面】
【三ノ丸跡/井戸跡辺り】
二ノ丸から見た本丸石垣。
【本丸石垣】
二ノ丸から本丸へ、石の階段を登る。
【本丸へ】
本丸ははじめ 『高御城』(たかおしろ) と呼ばれていた。
位置的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、
寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、歴代藩主の位牌が安置された。
他にも御先祖堂、山伏番所、時を知らせる太鼓屋などがあった。
礎石跡は二階建ての護摩堂のもの。
中世には 『繊月石』 を祀る場所であったように、主に宗教的空間として利用されていた。
【本丸跡】
本丸はそれほど広くはないが、二ノ丸、三ノ丸の広さには驚いた。
何もない広場だからそう感じたのかもしれないが、人吉城は想像していたよりも大きかった。
特に二ノ丸からの眺めがよく、一休みしていつまでも眺めていたい景色だった。
本丸から再び来たコースを下り、御下門跡から出た。(本丸へ登城するにはこの門から入るしかない)
駐車場に戻る際、御館への入口となる石橋をみた。
ここは御館の南側にある正面入口となる。
溜池に架かる石橋を渡った所に本御門が建ち、その内側右手に門番所を置いて、出入りの監視をしていた。
【御館御門橋】
車を歴史館駐車場まで移動し、大手門跡付近の櫓を見物する。
胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所だったので、
石垣の上に櫓を渡し、下に門を設けた。
大手門櫓は正保年中(1644~1648)に建てられ、享保5年(1720)に造り替えられ、
明治初期の払い下げで撤去された。
【大手門跡】
城の正面口である大手門脇にある長屋風の櫓は多聞櫓。
江戸時代前期の1640年代に建てられ、宝永4年(1707)の大地震で傾いたため修理されている。
【多聞櫓①】
幕末には 『代物蔵』 として使用され、寅助火事でも焼失を免れたが、
廃藩置県後の払い下げで撤去された。
【多聞櫓②】
建物は石塁に合わせ鍵形となっており、梁間2間(4m)、桁行25間(50m)で、
瓦葺の入母屋造りの建物となっている。
【多聞櫓③】
中は見学できるようになっている。
廊下があり、3部屋に分かれている。
【多聞櫓内部】
角櫓は胸川が球磨川に合流する、人吉城北西隅の要所に建てられた櫓。
元は藩の重臣・相良清兵衛の屋敷地だったが、寛永17年(1640)の御下の乱で屋敷は焼失。
直後に櫓が建てられた。
瓦葺きの入母屋造りで、梁間3間半(7m)、桁行11間(22m)。
櫓は文久2年(1862)の寅助火事でも焼失せず、明治初期の廃藩置県で払い下げられ撤去された。
【角櫓】
御下の乱で死亡した清兵衛一族の死体は筏(いかだ)に積まれ、
矢黒の亀ヶ淵の川原に埋葬され、この供養碑が建てられた。
昭和48年に河川改修のため、現在の場所に移転された。
【御下の乱供養碑】
角櫓(手前)、長塀、多聞櫓(右奥)。
いずれも平成5年に復元された。
明治10年の西南の役では、人吉隊と官軍との激戦の舞台となった。
幾度の戦火、災害に耐えた城跡には色んなドラマがあった。
この城はもとは平氏の代官がいた城だったが、
建久9年(1198)に人吉荘(荘園)の地頭となった相良長頼が城主となった。
城の修築の際、三日月の文様のある石が出土したため、別名・三日月城または繊月城とも呼ばれる。
室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、さらに芦北・八代・薩摩方面へと進出し、
戦国大名として勢力を拡大する。
駐車場から近かったこともあり、最初に来たのは清兵衛門跡。
第21代・相良頼寛の家老・相良清兵衛(犬童頼兄)は主君22,000石に対し、8,000石をも領していた権力者だった。
そのため横暴な振る舞いが多く、相良家ではこの権力を制しきれず、
幕府に対して罪状をあげて訴え出た。
その結果、清兵衛は幕府により津軽藩へ追放される。
その際、人吉で留守居をしていた清兵衛の養子・田代半兵衛は、
主君への仕打ちに対し不平を抱き、清兵衛の屋敷(御下屋敷)に閉じこもって反抗する。
藩は屋敷を焼き討ちにし、清兵衛の一族全員が討ち死に、または自害し、121名が死亡する。
これを 『御下の乱』 という。
清兵衛門から入ると相良神社がある。
てっきりここが清兵衛屋敷かと思いきや、ここではない別の場所で、
資料館の地下に清兵衛屋敷の地下室の遺構があった。
【相良神社】
神社から少し歩き、御館跡へ。
【御館跡近くの石垣】
二ノ丸、三ノ丸の西側麓に位置する代々の城主の館跡。
【御館跡】
御館の裏口にあたる場所。 堀合門が見える。
【御館跡・堀合門付近】
堀合門は御館の北側に位置する裏門になる。
明治4年(1871)の廃藩置県後、城外の士族である新宮家に移築され、
人吉城唯一の現存する建物として、市の有形文化財に指定されている。
門跡の発掘調査では、門柱を建てた2つの礎石跡とその両側にあった排水溝とが確認されている。
この門は以前の位置での発掘結果や移築された門、絵図に描かれた姿をもとに、
平成19年に塀や排水溝とともに復元された。
【堀合門】
堀合門の横の草地には米蔵跡がある。
西側に大村米蔵跡、東側に欠米蔵跡がある。
ともに瓦葺で、4間×10間の長い建物だった。
発掘調査では、御用米、免田納米、上村納米と記された木札が出土された。
排水溝も復元されている。
【大村米蔵跡・欠米蔵跡】
文久2年(1862)に城下町の鍛冶屋から出火があり 『寅助火事』 と呼ばれる大火となった。
御館北辺の石垣上には長櫓があったが、この火事により焼失した。
翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くし、
その石垣の上端の部分の石をはね出す 『武者返し』 と呼ばれる突出部を付けた。
【御館北辺の石垣】
この工法は西洋の築城技術で、五稜郭(北海道)や龍岡城(長野県)などの西洋式城郭で採用されているが、
旧来の日本の城郭で採用されたのは、ここ人吉城のみであるらしい。
【武者返し】
武者返しの石垣の正面にある水ノ手門跡。
慶長12年(1607)から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。
水運を利用するため、川に面した石垣には7つの船着場が造られたが、
その中で最大のものが水ノ手門となる。
【水ノ手門跡①】
当時の水ノ手門はこのような様子だった。
【水ノ手門の再現模型写真】
球磨川に架かる水ノ手橋からみた水ノ手門跡。
この門は寛永17年(1640)頃から幕末まで、
球磨川に面する城門だった。
【水ノ手門跡②】
間米蔵(あいだこめぐら)は、大村米蔵、欠米蔵と同じく切妻造りの瓦葺きの建物。
水ノ手門西側にあった間村(あいだむら)の年貢を納めたと考えられる蔵。
この蔵も文久2年(1862)の寅助火事で焼失した。
その後、再建されるも明治初期の払い下げにより解体された。
【間米蔵跡】
左手前は間米蔵跡。 右は武者返しの石垣。
左へ進むと水ノ手門跡があり、
奥へ進むと堀合門、大村米蔵跡、欠米蔵跡がある。
その更に奥へと進む。
御下門は 『下の御門』 とも呼ばれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸への登城口に置かれた門となる。
【御下門跡①】
大手門と同じく櫓門形式で、両側の石垣上に梁間2間半(5m)、桁行10間(20m)の櫓を渡し、
その中央下方3間分を門としていた。
【御下門石垣】
門を入った場所には出入り監視のための門番所があった。
【御下門跡②】
石段を上がって行く。
石垣が見えはじめる。 ここは中ノ御門跡。
この門も櫓門式となっており、見張りのための番所が置かれていた。
【中ノ御門跡の石垣】
【三ノ丸跡石垣】
天正17年(1589)第13代当主・相良長毎(ながつね)により、近世城としての築城が始まる。
ここ二ノ丸は、城主の住む御殿が建てられた城の中心となる場所だった。
御殿は北側を正面とするよう配置され、建物は計6棟からなった。
建物はすべて板葺で、廊下や小部屋でつながり、中庭が造られていた。
周囲の石垣上には瓦を張り付けた土塀が立ち、北東部の枡形には中ノ御門があり、他に十三間蔵などがあった。
北辺には御殿から三ノ丸へ下る 『埋御門』(うずみごもん)が、土塀の下に造られていた。
【二ノ丸跡】
二ノ丸から三ノ丸を時計回りに見渡す。
三ノ丸は二ノ丸の北・西部に広がる曲輪で、於津賀社(おつがしゃ)と2棟の塩蔵、
中ノ御門近くに井戸と長屋を配置するのみで、大きな広場があるだけだった。
【三ノ丸跡】
周囲には当初から石垣は造られず、自然の崖を城壁としており、『竹茂かり垣』 と呼ばれる竹垣で防御している。
これはこの城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐためでもあった。
【三ノ丸跡/塩蔵跡・於津賀社跡方面】
【三ノ丸跡/井戸跡辺り】
二ノ丸から見た本丸石垣。
【本丸石垣】
二ノ丸から本丸へ、石の階段を登る。
【本丸へ】
本丸ははじめ 『高御城』(たかおしろ) と呼ばれていた。
位置的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、
寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、歴代藩主の位牌が安置された。
他にも御先祖堂、山伏番所、時を知らせる太鼓屋などがあった。
礎石跡は二階建ての護摩堂のもの。
中世には 『繊月石』 を祀る場所であったように、主に宗教的空間として利用されていた。
【本丸跡】
本丸はそれほど広くはないが、二ノ丸、三ノ丸の広さには驚いた。
何もない広場だからそう感じたのかもしれないが、人吉城は想像していたよりも大きかった。
特に二ノ丸からの眺めがよく、一休みしていつまでも眺めていたい景色だった。
本丸から再び来たコースを下り、御下門跡から出た。(本丸へ登城するにはこの門から入るしかない)
駐車場に戻る際、御館への入口となる石橋をみた。
ここは御館の南側にある正面入口となる。
溜池に架かる石橋を渡った所に本御門が建ち、その内側右手に門番所を置いて、出入りの監視をしていた。
【御館御門橋】
車を歴史館駐車場まで移動し、大手門跡付近の櫓を見物する。
胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所だったので、
石垣の上に櫓を渡し、下に門を設けた。
大手門櫓は正保年中(1644~1648)に建てられ、享保5年(1720)に造り替えられ、
明治初期の払い下げで撤去された。
【大手門跡】
城の正面口である大手門脇にある長屋風の櫓は多聞櫓。
江戸時代前期の1640年代に建てられ、宝永4年(1707)の大地震で傾いたため修理されている。
【多聞櫓①】
幕末には 『代物蔵』 として使用され、寅助火事でも焼失を免れたが、
廃藩置県後の払い下げで撤去された。
【多聞櫓②】
建物は石塁に合わせ鍵形となっており、梁間2間(4m)、桁行25間(50m)で、
瓦葺の入母屋造りの建物となっている。
【多聞櫓③】
中は見学できるようになっている。
廊下があり、3部屋に分かれている。
【多聞櫓内部】
角櫓は胸川が球磨川に合流する、人吉城北西隅の要所に建てられた櫓。
元は藩の重臣・相良清兵衛の屋敷地だったが、寛永17年(1640)の御下の乱で屋敷は焼失。
直後に櫓が建てられた。
瓦葺きの入母屋造りで、梁間3間半(7m)、桁行11間(22m)。
櫓は文久2年(1862)の寅助火事でも焼失せず、明治初期の廃藩置県で払い下げられ撤去された。
【角櫓】
御下の乱で死亡した清兵衛一族の死体は筏(いかだ)に積まれ、
矢黒の亀ヶ淵の川原に埋葬され、この供養碑が建てられた。
昭和48年に河川改修のため、現在の場所に移転された。
【御下の乱供養碑】
角櫓(手前)、長塀、多聞櫓(右奥)。
いずれも平成5年に復元された。
明治10年の西南の役では、人吉隊と官軍との激戦の舞台となった。
幾度の戦火、災害に耐えた城跡には色んなドラマがあった。