遅くなって申し訳ありませんが、5月23日~27日までの5日間、仙台方面に震災支援ボランティアへ行って来た時のことをご報告したいと思います。
私は地震発生時、たまたま自宅にいました。山形の実家とは当日は全く連絡が取れず、翌朝になってやっと無事を知ったものの、東北にいる従兄弟や友人知人たちの安否が確認できるまでは、毎日気が気ではありませんでした。街中でも食料や電池などが品切れになったり、アルバイトをしているパン屋さんでも、パンがあっという間に売り切れて夕方には閉店・・・というような異常な事態が続き、被災地から遠く離れた所にいるにも関わらず、精神的にすっかりまいってしまいました。被災地の方々のために何か力になりたい、と願いつつも、震災直後は素人が被災地へ直接足を踏み入れることを思いとどまらせるような声が多く、かといって今いる場所で自分の仕事を誠実にこなそうと思っても、自分がやっているステンドグラスの制作は、直接被災者の方々に役立つものではないし、しかもハンダごてや電気炉で余計な電気を使ってもいいのだろうか?・・・というような強い罪悪感を感じてしまい、しばらくは何もする気が起きませんでした。しかし震災直後の過剰な自粛ムードが収まるにつれ、むしろ自分にできることで経済を動かさなければ、という思いが強くなり、バザーを開いて売り上げを義援金にしたり、教会のために義援金用の箱を制作したりしました。しかし、直接被災地のため何かお役に立てることをしたい、という思いは変わらず、悶々としていた時、日本基督教団の西東京教区で被災地ボランティアの募集をしていることを知り、すぐに応募しました。しかしボランティアに応募してからも、「自分のやっていることは偽善ではないのか?自己満足しに行くだけじゃないのか?」とか、「素人が行ってもかえって迷惑になるだけなのでは?」とか、「被災地の凄惨な光景を見て病んでしまったら・・・」などと、自分の中に色々な葛藤があったことも事実です。
しかし、ボランティア初日に初めて顔を合わせた、牧師3名、神学生2名を含む10名のメンバーの中には、最近仕事を辞めた方や休暇を取って来た方など、実に様々な方がいらっしゃいましたが、皆それぞれ葛藤を経ながらも「被災地のために何かしたい」という強い思いは一緒で、自己紹介が終わった時、それまで私が抱いていた不安は一気に吹き飛んでしまいました。
1日目と3日目は、仙台市若林区で、津波で家屋や畑に入った泥の撤去作業を行いました。作業場までは片道15キロ?ほどありましたが、移動は車ではなく自転車で行いました。ボランティアをする上で、被災地の光景や、空気や、匂いなどを、より身近に感じてほしいからとのことでした。女性は電動自転車を貸してもらえましたが、男性は普通の自転車やマウンテンバイクで大変だったことと思います。
震災以降初めて、鍵を空けて入ったというその家の中は、乾燥してひび割れた泥で埋め尽くされ、家具類も皆泥をかぶり、物が散乱し、とても人の住めるような状態ではありませんでした。畳をはがしてその下の泥をスコップや箒ですくい出し、網戸やガラス戸を外して水洗いし、家具も外へ出して雑巾で拭いたりしました。女性や小柄な方で床下に入って、泥を外へ出す作業もしました。外からは見えないところですが、そうしないと後々悪臭が発生するとのこと。床下はとても暗くて狭く、腹ばいになってしか動けません。空気の循環も悪く、長時間いると頭痛がしてきたりもします。最初は恐怖感が強かったのですが、潜れる人が限られているので、その場の作業に全神経を集中させることで恐怖心を抑えました。
2日目は急遽石巻へ行ってほしいとの依頼があり、車で石巻へ行ってきました。日和山公園の上から見下ろした街の光景は、恐らく生涯忘れることはできないと思います。その後車で街中を通りましたが、本当に目を覆いたくなるような光景が続きました。大好きな写真集『日本の教会をたずねて』に載っている、石巻ハリストス正教会も被災し、かろうじて教会とわかる建物が残っているだけでした。街中は気味の悪いほどに静まり返り、時折家の片付けの人や自衛隊の人の姿が見えると、ほっと胸を撫で下ろしたくなるほどでした。同志社大学の神学生の方が、石巻の街中をずっと案内して下さったのですが、道中ずっと、被災地の現状や、今まで接してきた方々のことを色々と話して下さいました。話を聞きながら、ただただ心が痛むばかりでした。
午後からは、津波で庭に入ってしまった砂を除去する作業をしました。砂利と砂をふるいにかけて、砂だけを土嚢に詰める・・・という、これも大変地道な作業です。そこのお宅の方は、休憩時間には飲み物やお菓子を出して下さったり、自分たちが大変な状況であるにも関わらず、大変私たちのことを気遣ってくださいました。
3日目は再び若林区で、畑に入った泥の撤去作業をしました。一体何処からが元々そこにあった土で、何処からが津波で入ってしまった泥なのか見た目ではわからないのですが、塩分を含んだ土では農作物が育たないのです。まず大きな木片やガラス瓶などを取り除いたあと、表面の枯れ草や土をスコップで掘って、一厘社で畑の外へ出す・・・ということを繰り返しました。非常に地道な作業です。あのような悲惨な出来事の後にも関わらず、畑では菜の花が咲いていたり、イチジクが小さな実をつけ始めていました。改めて木々や草の生命力の強さを感じました。しかし、地元の方の話によると、土が塩分を含んでしまっているので、そのように植物が芽吹いても、すぐに枯れてしまうのだそうです。すぐに木の根元を掘り、真水をたっぷり入れてやれば生き返るかもしれない・・・とその方が語られていたのが強く印象に残りました。昼休みには、自転車を漕いで荒浜にも行きました。目の前には何事もなかったかのような、ゴミひとつない砂浜と穏やかな海。しかし、後ろを振り向くとそこには凄惨な光景が広がっており、心の引き裂かれるような思いで海辺を後にしました。その日は午後からまた畑の泥出しをして、3日間のワークは終了しました。
作業終了を告げられ、瓦礫のなくなった畑を見回した時、最初の自己紹介の時にある牧師先生が仰っていた「微力だけども、無力ではない」というのは本当だな、ということをひしひしと感じました。もう何度もボランティアに来ている方のお話では、一見瓦礫の山がいつまでも残っているように見えても、回を重ねるごとに被災地は確実に変わってきている、とのことです。人間は罪ある者だけれども神様は同時に、人間に「善を成す力」をも与えて下さっていること、だから人から「偽善だ」と言われることを恐れずに、それを用いていかなくてはならないのだということをこれほどに実感したことはないと思いました。そういうことに気付けたことでも、このボランティアに思い切って参加して良かったと思ったし、他のメンバーの表情からも同じことが伺えた気がします。また、今回ボランティアに参加できたことの背景には多くの方々の祈りや献金などによる支えがあったこと、全国から集まって来たボランティアをコーディネートしている現地の支援センターの方々の多大なお働きがあったことを、心から感謝したいと思います。
しかし畑の外を見ると、まだまだ大量の瓦礫の山が残っています。しかも、自分達がどかした畑の泥やゴミは、今後どこへ行くのでしょうか??復興のためには、今後まだまだこのような地道な作業を絶えず続けていかなければならないということも同時に痛感しました。そして、自分の心の中から自然に湧き上がってきた思い、それは神様から示されたことでもあるのだと思いますが、それに従って、7月に再びボランティアに参加することにしました。今度は破傷風の予防接種もして行きます。いつもよりちょっと長い日記を読んでくださってありがとうございました。どうか皆様も被災された方や、被災地で働かれる方のため、そして日本の今後のためにお祈りください