遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

永井荷風#28『断腸亭日乗~血縁の葛藤』

2024年02月29日 | 日記

 永井一家 1902(M35)年頃 貞二郎は日本基督教会牧師 威三郎は農学者

今日から「摘録 断腸亭日乗(上)(下)」の下巻に移る

1937(S12)年 荷風散人59歳 から下巻は始まる
 01/01 午後1時に麻布の家を出 雑司ヶ谷・鬼子母神・三ノ輪・玉ノ井・浅草・
  新橋・・・午後7時に帰宅 円タク・電車を乗継ぐとはいえ 健脚ぶりに驚く
  
 ~この頃「濹東綺譚」の草稿整理など出版準備に関わる記述も目立つ~
 
03/18 郁太郎(※1)より手紙 大久保の母上(※2)重病の由
母上方には威三郎(※3)の家族が同居するので見舞いに行きたくない
※1荷風の生母恒(つね)の父 鷲津綺堂(儒学者・官吏)のこと
※2鷲津恒(つね) 鷲津郁太郎の次女 荷風の父永井久一郎と結婚
※3荷風の弟

荷風は04/30にも威三郎との関係”を書いているので そちらを要約記述~

04/30 母上の病状悪化を知らされるが 威三郎の家へは行きたくない
"威三郎との関係”
・彼は 私の思想・文学観を苛酷に批判している
・私が芸妓を妻にしたので 彼は同じ家に住むことを嫌い 母を説得
 家屋改築を理由に旧邸を取り壊し 私を邸内の小家に移らせた
・芸妓とは縁を切るに忍びず 母も承知の上で妻とした
・だが彼は私を戸籍から除き 兄弟の関係を断った(あと4箇条は省略)
 以上の理由により 私は母の臨終・葬儀にも威三郎方へ行かない

荷風と威三郎 兄弟でも犬猿の仲 あるいは嫌縁の仲という関係だったのか

09/08 母上危篤の知らせを受けるが行かない
08/09 母上昨夕死去 と知らされるが やはり行かない
~欄外朱書きで 恒の生まれから死去(享寿76)迄を略記し 追悼の2句
泣きあかす夜は来にけり夜の雨 秋風の今年は母を奪いけり~

子供嫌い 血の繋がりを否定 徹底した個人主義を貫いた荷風
昔ながらの家制度を疑わない父や母とも確執があったと思われる
自由に生きた半面 孤独と隣り合わせの人生だったかもしれない
ふと そんなことを思ったりもするのだが・・・

気がついたら文字ばかりになってしまった 今日はここまで
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#27『断腸亭日乗~西遊日誌抄その5 イデスその後』

2024年02月28日 | 日記

前々回(#25)で 「あめりか物語」ではイデス→マリアン 荷風→博士B と
名前を変えてていることを書いた
荷風が仏蘭西に渡ったあと イデスはどうしたのだろうか?
旅費を貯めて自分も仏蘭西に行く と言っていたイデスだったが・・・

荷風は「ふらんす物語」中の「雲」という挿話にイデスを登場させている
名前はアアマ 語り手の小山貞吉という外交官が荷風である
荷風が亜米利加在住時を回想し アアマとの日々などを想うという挿話
しかも荷風 他の娼婦と同棲や外泊を繰り返しながら・・・

そして或る日 大使館の机の上にそのアアマからの手紙が置かれる
以下 「ふらんす物語」からの要約引用~名はイデス、荷風で書く

<あちこち転送され 宛先が朱色になったイデスからの手紙が来た
~運河工事で人が大勢集まるパナマに稼ぎに行った
3か月経たずに風土病に冒され 死も近いので最愛の人に手紙を送る~
10行足らずの乱れた文字 筆をもつことすら苦しかったのだろう
荷風は呆然としてしばらく何も考えられなかった>

<どうしてパナマなんかに行ったのか
色香の失せたこの種の女の末路を荷風は眼に思い浮べた
米国で食いつめ 技手や工夫を相手にあんな処まで流れて行ったに違いない 
可哀想な事をした>

イデスは既に死んでいるだろう
親しく触れて感じたその肉体が朽ち果てたと思うと荷風は恐怖を感じた
馬車を呼び 思いっきり駆けろ と命じた>

<セーヌ川からの冷たい風に吹かれ 馬車の中て再びイデスを想う
初めに感じた悲愁や恐怖は既に消え 広場の向こうには繁華な大通り
過ぎた恋人の死さえ 唯一夜も泣き明かせない自分の頼りない心
荷風は自分ながら悲しく思った> 

断腸亭日乗・西遊日誌抄・あめりか物語・ふらんす物語等々・・・
読んでいて時々思うのは どこまでが事実か 或いは虚構か ということ
しかし 一方で 書いた本人にも誰にも分からないのでは? とも思う 
思いながら浮かんだ言葉が 実即虚 虚即実・・・

それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#25『断腸亭日乗~西遊日誌抄その3』

2024年02月26日 | 日記

1900: Broadway bei der 73rd Street 

昨日はイデスと荷風の熱愛と懊悩を書いた その後を駆け足で
07/09 イデスを見送りながら 彼女無しでは生きられないと荷風は思う
08/01 友人より銀行解雇の噂を聞く イデスのいる米国からは離れ難い     
08/15 イデス紐育へ移り ホテル住まいの後 貸間を借りて住む
 平日は方々の舞踏場に行って稼ぎ 日曜日は荷風と過ごす日にする
荷風は銀行勤めの傍ら毎夜のようにオペラ劇場通いの日々を送る

1907/M40 28歳
07/02 銀行支配人室に呼ばれる いよいよクビか・・・
 意外なことに 仏蘭西の里昴(リヨン)への転勤辞令だった
 この後に手紙が来て 父の計らいだったと知る
07/09 イデスと別れの酒杯 旅費を工面し仏蘭西へ行くというイデス
 心は既にパリ 涙ながらのイデスの繰り言も 荷風には上の空
07/18 ハドソン川河口の波止場から出航
07/28 仏蘭西ル・アーブル港着 列車でパリを経由し0 7/30 里昴到着
 
1908/M41 29歳
01/31 本年になって2度イデスに手紙を書いたが返事無し
02/01 銀行辞職を決意し 父に手紙書く
02/28 散策中 微笑み過ぎる年若い娘と言葉を交わす
03/05 銀行より解雇の命を受ける
03/20 父からの手紙届く 帰国の運命が決まった
03/21 日本へ帰っても父とは会いたくない どこかに身を隠すか
再び紐育に戻りイデスと悪徳不良の生活を再演するか・・・決断できない
03/28 里昴を出て夜 パリに着く

ここで「西遊日誌抄」は終わっている
その後に「西遊日誌稿 1908年」が続いて掲載されている なぜ?
書いてあることは日誌抄の内容とほぼ同じ ただし稿のほうが簡潔

また 抄では 03/05 銀行より解雇の命を受ける とあるが
稿では この日 公然と辞表を銀行に出して関係を断った と勇ましい
それはいいとして 抄には書かれていない記述が稿にはある 
 イデスの書を受取る 彼の女はなほ余を忘れざりき

抄と稿の違いを調べたら 稿は抄の下書きだということだった
ということは刊行されたのは抄・・・イデスの名はなぜ消されたのか?
疑問はこれだけでは無い 西遊日誌抄より先に読んだ「あめりか物語」
そこにも「イデス」は登場しないのである!

私の記憶違いかも・・・そう思って電子版の「あめりか物語」を再読してみた
たしかにイデスの名は無いが マリアンという女芸人が出て来る
「旧恨」の章で 博士Bが語り手 彼女に出会った場所は華盛頓ではなく紐育

・・・(博士によれば) マリアンの年は21,2 
全体が小作りで 頸の長い頤の高慢らしく尖った眼の大きい円顔で 
小さくて堅く締った口元には 何か冷笑する様な諷刺が含まれている 
決して美人というのではない
人は時として「 完全」よりもこの「 不完全」と「未成」の風致に どれ ほど強く 魅せられるのであろう!・・・
 
・・・初めてマリアンと出会った夜 彼女を宿まで送り届けて帰る
翌朝 彼女からの手紙
「あなたを待つために宿を移った わたしは一目見てあなたに恋した
今宵の逢瀬までさようなら~恋するMより」
博士は夢見心地でマリアンの宿に行き 1年半一緒に暮らした・・・

このマリアンってイデスのことじゃない? 博士Bはもちろん荷風!
「あめりか物語」は出版社と約束した刊行物 名前をそのまま使えない
もっとも書簡形式や日誌形式の作品もある
とすると「西遊日誌抄」も創作の部分があるのではないか・・・

創作でも構わないのだが イデスはその後どうしたのか気になる
下手な考え休むに似たり・・・今日はここまで
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#24『断腸亭日乗~西遊日誌抄その2』

2024年02月25日 | 日記

 リリック・ホール1890年頃~サラ・ベルナールも公演

1905/M38 26歳
12/14、16 仏蘭西の名女優サラ・ベルナールの興行に狂喜する
~オペラ観劇は日参に近いので 特記事項がある場合を除き以下省略
12/17 支那街酒場に入る 地下に大舞踏場 男女入り乱れ描写価値あり
12/20 空気汚れた銀行事務室に閉じ込められる苦しさは耐え難い
 たびたび屋上に出て喫煙 灯火の紐育を眼下に見るのも好もしい
12/23 サラ・ベルナール最後の紐育興行を観る 劇は脚本のみでは某氏
 の空論と同じで役立たない 私の海外旅行の目的は舞台を観たいため
 これで渡航の目的は達した
12/25 クリスマス 夕方今村子と移民街散歩 旧教の礼拝式を見た後
 支那街の酒場で夜を過ごす


 サラ・ベルナール 1844(弘化01)-1923(T02) 1881年頃撮影

1906/M39 27歳
01/01 今村子と支那街の一角に立ち 行き交う人々の群れを眺める
 支那料理店で食事しようとしたが空席一つも無し
01/09 華盛頓の娼婦イデスから手紙 会いたいと次週紐育に来るという
01/20 紐育美術学校の展覧会を観る 佳い絵なし 亜米利加はダメだ
02/14 イデスから連日手紙が来る 心が歓喜と恐怖に充たされる
・・・絵や娼婦の事 こういう表現が荷風の面白さのひとつだろう・・・

02/22 メトロポリタン劇場でワーグナーを聴く あまりよくなかった
03/19 カーネギー音楽堂で露西亜管弦楽を聴く
03/28 銀行昼休み ブルックリン橋下の波止場を歩く~人々は社会偽善
 の束縛を脱した自然人 銀行街の人は忙しげ賢げに歩く~別天地の感


メトロポリタン歌劇場 1905年撮影


 カーネギーー・ホール 1895年撮影

04/11 露の文豪マキシム・ゴーリキー 夫人・秘書を伴い紐育へ来る
04/15 各紙報道 彼が旅館の宿泊を断われる 理由は夫人が正妻でない
 為(米国では妾・情婦の宿泊禁止) 奇怪な米国の法律・風習は理解不能
06/09 新緑の野に寝転んで 仏蘭西の詩集読むほど幸福なことはない
06/16 イデス 久しぶりの手紙でトレントン市に来ることを知らせる

06/20 銀行の仕事外の交際が苦痛 日曜は頭取の社宅にご機嫌伺い
 こうした苦痛の後は必ず で呑み 時々賤業婦の腕を枕に寝る
 全ての希望を失った彼女らに接する時 同病相憐れむ親密さを感じる
06/27 仏蘭西語の夜学校に行く
06/29 家から手紙 家の経済的事情が思わしくない模様
07/02 イデスより手紙 日曜日に紐育に来る どうしようかと思い惑う
07/04 独立祭 町中に花火が上がり爆竹が響く

07/08 紐育に着いたイデスより電報 これを手にホテルへ駆けつける
 この秋か冬イデス紐育に移り 部屋を借りて一緒に暮らしたいと語る
 仏蘭西小説中の人物になったようで 嬉しくてかたじけなく涙が出る
 しかし再度の別れを思えば 今のうちに別れるべきかと悩み眠れない

・・・荷風の懊悩は 06/16のイデスの手紙から既に3ページに渡る
これを十数行に要約するというのも かなりの懊悩ではあるが・・・
それはともかく 荷風もイデスの事を忘れられない
イデスからの手紙は 荷風が銀行に出勤する毎朝届く
ある時は 銀製の巻煙草入れに「愛はすべてなり」と刻んだ贈り物
愛か芸術家か パリ行きは諦めイデスと共に暮らすべきか
銀行員になる気は無いし 支那街の料理店で仕事を見つけるか・・・

まだ続きそうなので 続きは次回に
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]