遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

こんな人がいた~「杉並シリーズその15 寺山修司その13 交友録・早稲田時代&その後」

2023年10月31日 | 読書


 昨日の続きから始めよう

白石かずこ】1931(昭和6)- 詩人・翻訳家 

 
 早大在学中の1951年 20歳で詩集『卵のふる街』を上梓
 学生時代 映画監督の篠田正浩と学生結婚したらしいが時期不明 
 篠田を寺山に紹介し それが縁で寺山は映画のシナリオを書く

 早大の詩仲間では 入院中の彼をよく見舞った夏子(仮名?)を寺山は好いた
 しかし入院生活が長引いたせいか 夏子は別の男性と結婚した

 白石和子の詩『卵のふる街』は 寺山を思わせるシュールさが面白い

「青いレタスの淵で休んでると
 卵がふってくる
 安いの 高いの 固い玉子から ゆで卵まで
 赤ん坊もふってくる
 少年もふってくる
 鼠も英雄も猿も キリギリスまで
 街の教会の上や遊園地にふってきた
 わたしは両手で受けていたのに
 悲しみみたいにさらさらと抜けてゆき
 こっけいなシルクハットが
 高層建築の頭を劇的にした
 植物の冷い血管に卵はふってくる
 何のために?
 (わたしは知らない 知らない 知らない)
 これはこの街の新聞の社説です」

【篠田正浩】1931(昭和6) 映画監督・表現社代表・早大特命教授等


 篠田は早大卒業後 松竹映画社に入社し 寺山とのコンビで映画を撮った
 寺山は「中退せず卒業すれば一緒に松竹に入っていたかも・・・」と述懐した

【山田太一】1934(昭和9)- 脚本家・小説家
 
 寺山がネフローゼで入院していた時 毎日のように見舞ってくれた男が彼
 頻繁に来るので 母ハツに「来ないで」と言われ 以後は手紙にしたという 
 かれも面倒見がよかったが 面倒見のよさNo.1は次の人だろう

【谷川俊太郎】1931(昭和6)- 詩人・翻訳家・絵本作家・脚本家
 
 
 寺山のデビューから結婚・葬儀まで生涯に亘って面倒を見た
 見舞いにもよく訪れ ある時 「何か欲しいものある?」と寺山に訊いた
 「プレイヤー」と答えると 谷川は自分で組み立てて持って来てくれた

 また 当時の寺山は貧乏だったので、ラジオドラマの脚本作りも薦めた 
 彼の有能さを認めていた谷川は 時に金銭的な援助もしていた
 二人とも好奇心旺盛 ビデオレターの交換など行っている

 谷川俊太郎⇔寺山修司 ビデオレター(Youtube)


 今日はここまで 明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~「杉並シリーズその14 寺山修司その12 交友録・早稲田時代」

2023年10月30日 | 読書


 今日は寺山修司が早稲田大学に入学したあとの交遊関係を書く予定だった
 ところが野暮用が色々あって時間が取れなくなった
 とりあえず今日は交友のあった人物が関係する映画を共有する

 寺山修司脚本「夕陽に赤い俺の顔」
 関係人物:山田太一 白石かずこ(詩人) 篠田正浩 岩下志麻(女優)
          (篠田の最初の妻)      (篠田の2番目の妻)
 

それでは明日またお会いしましょう
[Rosry]

こんな人がいた~「杉並シリーズその13 寺山修司その11 交友録・青森の俳句仲間」

2023年10月29日 | 読書

  
 今日の修司交友録は青森時代の俳句仲間について書く

1949(昭和24) 修司13歳 翌年朝鮮戦争勃発('53年まで) 
 修司は青森市の映画館「歌舞伎座」に身を寄せ 野脇中学校2年に転入した
 句作をしていた京武久美(きょうぶ ひさよし)と知り合い俳句を創り始める
 京武と共に文芸部に属し 学校新聞に俳句・詩・童話を熱心に投稿する


野脇中学校2年の時の寺山修司と京武久美1936(昭和11)ー存命中:俳人

1951(昭和26)~1954(昭和29) 修司15~17歳 青森高校時代
 青森高校に入学 新聞部・文芸部に所属する 
 京武と共に「山彦俳句会」を結成し 「校内俳句大会」」を開催する  
 同じく京武と俳句雑誌「牧羊神」を創刊する→【山形健次郎】  
 第1回全国高校生俳句コンクールが行われ寺山2位となる(1位は京武)

 ※京武は卒業後、東北海運局職員となる
  金子兜太主宰の「海程」の同人メンバーとして活躍 句集「二月四日」 
   インタビューの終わりに「戦争は知らない」の歌が入っている

 寺山修司作詞 「戦争は知らない」 
  "野に咲く花の 名前は知らない だけど 野に咲く花が好き
  帽子にいっぱい 摘みゆけば なぜか涙が 涙が出るの

  戦争の日を 何も知らない だけど私に 父はいない
  父を想えば あゝ荒野に 赤い夕日が 夕陽が沈む

  戦さで死んだ 悲しい父さん 私は あなたの娘です
  20年後の この故郷で 明日お嫁に お嫁に行くの

  見ていて下さい 遥かな父さん いわし雲とぶ 空の下
  戦さ知らずに 20才になって 嫁いで母に 母になるの"

 【山形健次郎】「牧羊神」創刊時のメンバー
   寺山修司の資料映像は出て来るが 談話としては無い

 今日はここまで 次回は早大時代の交友録の予定
 明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~「杉並シリーズその12 寺山修司その10 海と猫と言葉と」

2023年10月28日 | 読書


今日は寺山修司の交友録を一休み 言葉の面から彼の詩作品を眺めてみる  
修司の作品を読んでまず感じるのは 意表を突く言葉の組み合わせだ

たとえば代表的な彼の短歌の例
"マッチ擦るつかのま 海に霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや "
上の句と下の句のギャップは何だろう 叙景と叙事・・・ではない
よくわからないが 彼の場合はすべてが心象風景のような気もする

 「海」の言葉も多く使われるが、
 例えば 「一ばんみじかい抒情詩」
 "なみだは にんげんのつくることのできる 一ばんちいさな 海です"
なみだ=海・・・寺山が「言葉の錬金術師」と呼ばれる所以なのだろう

次てがみ=さかな となる次の詩も同様  
"つきよのうみに いちまいの てがみをながして やりました
  つきのひかりに てらされて てがみはあおく なるでしょう
  ひとがさかなと よぶものは みんなだれかの てがみです"

「かなしくなったときは」
"かなしくなったときは 海を見にゆく 古本屋のかえりも 海を見にゆく
あなたが病気なら 海を見にゆく 心貧しい朝も 海を見にゆく
ああ 海よ 大きな肩とひろい胸よ
どんなつらい朝も どんなむごい夜も いつかは終わる
人生はいつか終わるが 海だけは終わらないのだ
かなしくなったときは 海を見にゆく 一人ぼっちの夜も 海を見にゆく"

言葉が時空を超えて広がりを増す
哀しい→海を見る→朝も夜も→終わる→朝も夜も人生も→海は終わらない

修司は「猫」が好きだったのだろうか? 猫の詩も多い
「少年時代」
"長靴をはいた猫と ぼくとが はじめて出会ったのは
書物の森のなかだった
長靴をはいた猫は ぼくに煙草をおしえてくれた ちょっといじわるで
いいやつだった
長靴をはいた猫と わかれたのは 木の葉散る秋という名のカフェ
その日ぼくは はじめて恋を知った
人生のはじまる前と 人生のはじまった あと 
そのあいだのドアを すばやく駆けぬけようとした
ぼくの長靴をはいた猫は いまどこにいるか?"

「名詞」 思わず笑ってしまう詩 こういう奇想?はどこから出て来る? 
"恋という字と猫という字を入れ替えてみよう
「あの月夜にトタン屋根の上の一匹の恋を見かけてから
ぼくはすっかりあなたに猫してしまった」と
それからブランディー をグラスに注いで いると
恋がすぐそばでひげをうごかしている"

今日の最後に一曲(歌詞付き)
「ふしあわせという名の猫」詞:寺山修司 曲:山木幸三郎 歌:カルメン・マキ 


{Rosey]

こんな人がいた~「杉並シリーズその11 寺山修司その9 交友録・中学/高校時代」

2023年10月27日 | 読書


 今日は 超要約記述引用をやめて 写真・動画・サイトへのリンクで構成する

【歌舞伎座のこと】


歌舞伎座の外観(再掲)


歌舞伎座の間取り

 鳴海氏(鳴海廣なるみひろし)は歌舞伎座支配人の息子
 寺山とは青森市の野脇中学校の同期生(存命されている)
 (前掲間取り図も動画中に含まれている)


【青森高校での同期生沢田教一】

 
1936(昭和11)-1970年(昭和45) 報道写真家~1966年「ピューリッツァー賞」 


 ベトナム戦争で沢田が撮影した『安全への逃避』



今日はここまで 明日またお会いしましょう
[Rosey]