遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

月日は百代の過客にして・・・

2023年12月31日 | 旅行
大晦日になると決まってタイトルの言葉を思い出す
俳人・芭蕉の「奥の細道」の書き出し
「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり 」

今年も瞬く間に一年が過ぎた
そして只今 俳人・金子兜太のブログの途中・・・
芭蕉より一茶だ 山頭火だ なんて兜太は言うかもしれないが
一茶なら「ともかくも あなたまかせの 年の暮」あたりだろうか 

旅と言えば 知人が今日から奈良に旅行する
私は介護生活の身 平城京はあまりに遠し・・・か
半世紀前 「古寺巡礼」を手に独り旅 懐かしく蘇る

「青丹(あおに)よし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」
真冬の今 詠われた花は咲いていないのだろうが・・・
どんな花だったのか? 梅か 桜か あるいは藤か?

さて このところ居間のPCの壁紙に下の写真を使っている


集合住宅の6階 西の窓から撮った夕焼け空+富士山+スカイツリー
某日 家に来た介護サービスのヘルパーさんが写真を見て叫んだ
「ここに星が見えるっ!!」「どこに?」「ここですよ ここっ!」

指で示してくれた場所が 下の写真の〇印のあたり


私には星も 星のカケラも見えない 老爺の悲劇だけ見える!
写真をG-driveにアップ 拡大して見られるようにした
宵の明星 見つけて嬉し 年の暮れ
ITを イットと読む人 今どうしてる?

ITといえば 今年は Googleの"BARD"を使ってみた
BARDは”鳥"ではない 人である”吟遊詩人”でもない
人工物に 兜太の言う”生きもの感覚”を求めてもムリ それが結論

「青丹よし」は奈良の枕詞 教わったのは半世紀を更に遡った昔々
青丹は若草色を渋くした色・・・と言葉で説明されても 分かんねぇ?!
こんな色だっ!・・・抹茶に似た色か? (文字は万葉集の原文だという)



この一年 ご愛読 有難うございました
[Rosey]

こんな人がいた~『俳人・金子兜太その6・日銀勤務時代のあれこれ』

2023年12月30日 | 読書


【結婚しようよ
1947(S22)年 金子兜太28歳
2月 敗戦・虜囚体験を経て帰国した金子兜太は日本銀行に復職した
4月 塩谷みな子※と結婚 埼玉・浦和に住む
※1925(T14)ー2006(H18) 現埼玉県長瀞町生まれ

"結婚まで余りに早いので 許嫁だった? そう考えたが違ったようだ
兜太には 昔から 好いと思ったら何も考えずに パッと飛びつく
そういう習癖?が"あったらしく 一目ぼれのみな子にパッと飛びついた
・・・なんてバッタのようなことはせず でも すぐに結婚を申し込んだ" 

 二人の結婚式の写真(再掲)


 日本銀行


【労働運動に向かう】
1948(S23) 29歳
6月 日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務める 長男・真土誕生 

1949(S24) 30歳
日銀従業員組合の事務局長になり 組合活動に専従する
浦和から竹沢村(現・小川町)に住居を移す

1950(S25) 31歳 6月に朝鮮戦争勃発
"局長が職員を集めてこう言った「この戦争で日本の経済は立ち直る」
「他国の戦争で経済が立ち直るとは・・・」
兜太は文句を言って殴りかかろうとしたが仲間に止められた
「こんな野郎では平和は絶対に訪れない」と思った"

レッドパージとヒヤメシ
 "この年 レッドパージ(赤狩り)により労働運動が弾圧される
 兜太も巻き込まれ 白地の退職願を書かせられたという
 クビにはならなかったが 年末 福島支店に飛ばされヒヤメシが始まる"

 支店回りはさらに続き 
1953(S28) 34歳 神戸支店に転勤
1958(S33) 39歳 長崎支店に転勤
 東京本店に戻ったのは
1960(S35) 41歳 の時だった
 "本店での仕事は窓際族・・・ではなく 本人曰く「窓奥族」
 地下にある金庫を日に3度ほど開けるだけ だから俳句に打ち込めたという"

【銀行員は烏賊(いか)?】
神戸支店時代に兜太は次の句を詠んだ
「銀行員等(ら)朝より蛍光す烏賊(いか)のごとく」
 "行員が発光する烏賊? 面白いが なぜ?と思ったら兜太の体験からだった"

"「尾道で向島にある水族館を見た
烏賊が青白い光を体内に発光しながら泳ぐ様子が印象に残った
翌朝銀行へ出勤 9時から30分間ほど仕事待ちで各々新聞を読むなどする店内天井は高いが薄暗いため それぞれの前に蛍光燈がつけられる
行員らが背をまるめて新聞なごを読む姿は
深海に蛍光を発しながら泳ぐ烏賊のような状態そっくりではないか」"

 ホタルイカ~薄暗い店内で灯りをつけて仕事する行員のイメージと重なるような・・・


"兜太は「生きもの感覚」という言葉を使った
すべての生き物は原郷という感覚を持って繋がっているのではないか"
(よく分からないがニーチェの「生きんとする意思」に通じるものか?)

"また 兜太は自分の人生を支えたのは3つだったと語っている
・トラック島での戦場体験 ・日銀でのヒヤメシ ・俳壇の保守返り
俳壇については伝統的な花鳥風月を詠うことを排した
といって前衛俳句という言葉も嫌いだったらしく 社会性俳句と称した

 長崎支店時代に詠んだ句
 「彎曲し火傷し爆心地のマラソン 」

 以下にユーモアのある兜太の句を幾つか
「夏の山国母いてわれを与太(よた)と言う 」
「長寿の母うんこのようにわれを生みぬ」
「酒止めようかどの本能と遊ぼうか 」
「オットセイ百妻は一妻に如かず 」

今日はここまで それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~『俳人・金子兜太その4.』

2023年12月28日 | 読書


 "死んだ戦友たちに報いるためにも 出世より自分なりの戦争責任をとる”
 それが日本銀行に復職した金子兜太の選んだ道だった
 また 兜太はこうも言っている "私は反戦の塊です "私は俳句です"と・・・     

 そこで 今日は遡って兜太の戦争体験と句作について書く

【戦地への赴任】 


1944(S19) 25歳 
海軍主計中尉に任官 トラック島(現ミクロネシアチューク)夏島に赴任

句会の開催
上官に詩人だった今西中佐がいて 隊員や工員の句会開催の命を受ける
食糧事情が悪化し士気が衰えるので句会で空気を和ますという理由だった 
その今西中佐は転勤命令で帰国中 サイパン島で戦死 サイパンは陥落した

陸軍の戦車部隊長にもう一人の詩人・西澤少尉がいた
兜太は彼に今西中佐の話をすると 陸海軍合同句会でやろうという話に・・・

犬猿の仲の陸軍と海軍 多い時には三十人ほどが集まって月2回の句会実施
南方の島なので季語は無し 階級差無し 1人3句ずつ出す という形式
兜太の人徳 俳句の魅力もあって 句会は敗戦直前まで続いたという

兜太の戦場を詠んだ句をいくつか 
 足につくいとど星座は島被う (いとどは昆虫?)
 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
 古手拭蟹のほとりに置きて糞(ま)る
 銃眼に母のごとくに海覗く 
 犬は海を少年はマンゴの森を見る
 被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり
   
【兜太の忘れ得ぬ記憶】
 武器弾薬に限りが出てきて 島内で手榴弾の試作実験を行った
 実験する工員が海辺に立って 兜太ら仲間は離れた場所で見守っていた
 しかし手榴弾が彼の手元で爆発し 右腕が吹き飛んだ
 兜太らが駆け寄り 彼を抱き起こしたが 背中の肉がえぐれて即死
 しかし工員らは死体を担ぎ上げて「わっしょいわっしょい」と病院へ向かう
 即死とわかっていても 仲間への気持ちがそうさせるのだろう
 兜太も一緒に泣いて走りながらこう思ったという 
 「人間っていいもんだ その人間がこんなむごい死に方をする戦争は悪だ」

1945(S20) 26歳 
 通信途絶 食糧事情悪化 栄養失調続出 総員虚脱状態のうちに敗戦となる
 敗戦の時に詠んだ句
  椰子の丘朝焼しるき日日なりき
  スコールの雲かの星を隠せしまま
  海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 米軍機の爆撃を受けるトラック島

 トラック島の日本軍基地への爆撃


1946(S21) 27歳
 米軍捕虜となり航空基地建設に従事
 最後の復員船で帰国 奥秩父へ行く
 復員船の船上で詠んだ句
  水脈(みお)の果炎天の墓碑を置きて去る

1947(S22) 28歳 日本銀行に復職 俳人・塩谷みな子(俳号・皆子)と結婚


 金子兜太が語る戦場トラック諸島


 今日はここまで
 次回は日本銀行に戻って 兜太のその後を追う
 それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~『俳人・金子兜太その3.』

2023年12月27日 | 読書


 今日は金子兜太の日本銀行勤務時代の事を書く予定
 
 日本銀行本店 石造りの建物が旧館 左奥が新館 画面右手に南館(貨幣博物館)がある
 

 私事になるが 1984(S59)年から3年弱 私はここで仕事をした
 旧館に1年半 その後新館に移って1年半くらいだったろうか
 私には 旧館の天井の高い部屋の方が 落ち着いて仕事できた記憶がある
 金子兜太は既に定年55歳で退職(1974年)していたので面識は無かったが・・・

 左サイドの写真スクロールで様々な場所を見られる 金庫室も札束の山も
  
 彼は 敗戦後の1947(S22)年に日本銀行に復職 
 その年 銀行内に労働組合が誕生 彼は自ら名乗り出て初代委員長に就任
 東大出の先輩らは"出世できないぞ"と忠告 しかし決意を変えなかった
 "死んだ戦友たちに報いるためにも 出世より自分なりの戦争責任をとる”
 それが兜太の選んだ生き方だった

 ここまで書いたところで所用が発生
 この続きは明日書くので 明日またお会いしましょう
  [Rosey]