あさちゃんの懸賞日記

日々の出来事や、懸賞生活について書き綴ってます。

事実は小説より奇なり

2008-01-14 13:37:01 | 日常
そういえば先日の新聞に載っていた記事ですが、英国で双子の兄妹が結婚無効となる悲しい事件があったようです。
生まれてすぐに別々の家庭に養子に出された二人が、大人になって兄妹と気づかず愛し合い結婚したのですが、その後事実が明らかになり裁判所が二人の婚姻は近親結婚であるため無効と判断したそうです。
本当に気の毒なお話だよね~。

日本でも遠い昔には、異母兄妹間や叔父と姪、叔母と甥等の近親結婚が認められていた時代があったけど~(汗)
鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)<後の持統天皇>は父天智天皇(中大兄皇子)の同母弟である天武天皇(大海人皇子)の后となり、草壁皇子の母となります。
息子の草壁皇子の正妃に異母妹の阿閉皇女(あへのひめみこ)<後の元明天皇>(母親同士が姉妹であったので従姉妹でもあるのよね~汗)を迎えたのですが、草壁皇子は早逝。
二人の間に生まれた孫の軽皇子を天皇にするために自ら帝位に付き、念願どおり孫の軽皇子を文武天皇として即位させます。
しかし彼もまた若くしてこの世を去ったため、その後を元明天皇(異母妹の阿閉皇女、軽皇子の母)→元正天皇(氷高皇女、軽皇子の姉)と身内の女性で繋いだ後、(軽皇子)文武天皇と后宮子(藤原不比等の娘)の子である首皇子(おびとのみこ)<聖武天皇>が即位します。
その妃に迎えられたのが安宿媛(あすかべひめ)こと光明子<後の光明皇后>(彼女は文武天皇の乳母であった県犬養美知代(あがたいぬかいのみちよ)と藤原不比等の娘)です。
このあたりで後の平安時代の藤原氏の繁栄の基礎ができたのでしょうね。
ほんと日本史は大好きだったので、昔はこのあたりの系図が書けたんだけどね~(笑)
あと厩戸皇子(聖徳太子)のあたりとか~彼の両親も異母兄妹だったのよね(しかも母親同士が姉妹なので従兄弟でもあるのよ~汗)
全部漫画がらみだわ~日出処の天子もわりと好きでした~笑。

系図を見ていると歴史の流れが分かるような気がします。
見ていると思わぬ血縁関係にびっくりしちゃうよ~。
権力を手に入れる早道は、娘を最高権力者の妻として送り込み、生まれた子を跡継ぎとすることであったのだな~としみじみ思います。
それはいつの時代であっても変わらない構図だよね~(汗)
歴史の教科書ってつまりは権力闘争の繰り返しだものね~(汗)
(そういえば「興福寺縁起」によると藤原不比等は天智天皇のご落胤だったのでは?という説もあるんだよね~(汗))
里中満知子先生の(持統天皇が主人公の)「天上の虹」や長岡良子先生の(藤原不比等が主人公)の「眉月の誓い」等の漫画でこの時代の歴史の流れがよく分かりますよ♪
永井路子さんの歴史小説「美貌の女帝」では元正天皇(氷高皇女)が主人公で、また違った視点からの歴史を知ることができます♪

流石に父母を同じくする兄妹の婚姻については当時であっても認められておらず、軽皇子(文武天皇じゃないよ~もっと遠い昔の違う皇子です)と衣通姫(そとおりひめ)のように愛し合い、断罪された悲しい伝説が残っていますよね。
昔の高貴な人々は子育てを乳母の手に委ね、兄妹であっても大人になるまで別棟で育ち会ったことが無かったといいますから、無理も無かったのかもしれませんね。

このような悲劇を無くすためにも、自分の父母について子どもが大人になったとき実の両親を知る権利を認めるべきだと言われていますが、法整備は難しいかもしれませんね。
悲しい運命に翻弄された英国のお二人が、せめて心の平安を得られますようにとお祈りしたいです。

コメント (2)
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