独白

全くの独白

面影

2017-04-04 15:36:37 | 日記
見ず知らずの相手と、メールやブログで語り合っていると、自身の年齢も意識の外に出て行ってしまうのと逆に、相手のイメージは何と無く意識の中に出来上がって来てしまう。
私の場合その像には容姿が無く、精神だけで出来ている。
ここから連想するのは、同窓会などである。長らく会って居なかった友達はすっかり容姿も変わっていて、暫くは同定さえ出来ないが、会話等を交わすうちに様々な思い出と共に当時の面影も今の表情の上に鮮やかに甦えって来る。
この様な時の会話の相手は、その人の精神の心髄であり又真髄でもある。
それは「三つ子の魂、百迄」の「魂」であり、「雀百迄踊り忘れず」の「踊り」である。
「軸」と言っても良く、嘗て備えていた物より遥かに大きなスクリュープロペラを船尾に付けて、高速で遥か彼方へ行ってしまった様に見える友と雖も、軸は恐らく三歳位で出来上がってしまった物を其の儘使って居るのであろう。
癌で他界した伯父を末期に見舞った事がある。見慣れた伯父とは違う人がそこに居た。足は象のように浮腫み、前歯は何本も抜けた儘、煩わしくて入れる気にも最早成らぬと言う。正視に堪えず立ち尽くして居ると、横に為って居た伯父が「ちょっと起こしてくれ」と言う。
背中や腕に手を添えて起こして居ると「御棺に入れる時もこの要領だぞ」と言い乍らニカッと笑ったその顔は、元気だった頃と少しも変わらず、紛れも無く懐かしい私の伯父のものであった。
因にその時、母(伯父にとっての妹)が浮腫んだ足を摩ってやると、「(触られると)痛いんだぜ」と言った。詰まり伯父は泰然として居る様に見えて実は、苦痛と闘い乍ら横たわって最期の時を待って居たのである。それなのに然程でもない遠路を訪ねて行った私を、冗談でねぎらってくれたのである。