独白

全くの独白

限定(関係と選択の⑦)

2017-02-05 15:38:50 | 日記
而してトンボと人間とは互いに交代できないように、例えば日本人と白人とが互いに交代する事も出来ない。
物心付いた頃日本人に於いては基本的な日本語での会話ができるように成っている様に、例えば英国人は英語で会話できるように成っている。そして各国人にとっての自国語は、針で皮膚を刺した時の「痛い」と言う感覚のように、まるで生まれつき持っているかの如き自然で不可分のものであると言って良かろう。吾人が英語の勉強の際「何故彼等はわざわざあんな複雑な舌の動かし方をするのかな、とても真似出来ないじゃないか」等と思うように外国人の日本語は何十年日本に住んで居ても例え日本人と結婚していようとも、又碩学ドナルド・キーン氏にして尚、完璧なものではない。
骨格の所為もあろう、日本人の顔がどちらかというと前後から挟んだ感じであるに対して、白人のそれは横から踏ん付けた感じに出来ている。
併し白人同士なら全く同じという訳でもなく、例えば英語のネイティヴスピーカーの中でも米国人の発する声音は独特で、特に真似し難い。骨格ばかりが原因でもなさそうである。詰まり英国人と米国人の交代も又不可能と考えるべきであろう。
言葉に限らず音楽等でも、ラジオから流れる曲の感じが「どこと無く日本風だな」と思っていると終わってから「武満徹の~でした」等と言う事は良くある。ラジオではモーツァルトが良く流れるのでラジオの好きな私等の耳には馴染んで居り、生まれて初めて聞く曲でも彼のものであると感じてそう推定すると殆ど当たる。好んで聴くシベリウス等もそうである。そして例えばシベリウスを好んで聞くのはシベリウス独自の味わいを好むが故であるが、もしその総ての曲に彼らしさが感じられるとすれば魅力的ではあっても、その事は同時に彼の限界を現前させている事にもなる訳である。
要するに言葉や音楽に限らず総ての事物は、各の属性のうち低劣なものは勿論、優れた属性に依ってさえ限定されて居るものであると言って良かろう。(続く)

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