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シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

『関係について』について

2012年07月14日 | 本と雑誌

生沼義朗さんの第2歌集『関係について』(北冬舎)をいただく。

「よしろう」さんと思っていたら、「よしあき」さんだったのか。ちょっとショック。

「日本人は刻苦勉励をこのむゆえ最終回にクララは歩く」のように、シニカルなユーモアを含んだ文明批評といった感じの歌が多いのだが、私が好きなのは、次のような歌である。

▼▼▼引用はじめ▼▼▼

① 動詞よりつきし地名をかりそめに過ぎることありたとえば押上

② 葱畑過ぎてなお夏、本庄にかつて保険金殺人ありき

③ 干からびてしまってもなお薬液の匂い残れるウェットティッシュ

④ 真向かいのビルいちめんの鏡壁にニュースの字面は逆さに流る

⑤ ファミレスで深夜に茂吉読んでいるわれはおそらく晩婚ならむ

⑥ 営業車に乗ること多く電車とは東京に戻るための乗物

⑦ たんこぶのようなる坂に出くわしぬ自動車教習所内の坂道

⑧ 塩にまで小蝿がたかる この先に何人の若き死者と出会うか

▲▲▲引用おわり▲▲▲

①の「押上」とは、思えば不思議な地名である。そんな地名の奇妙さに、ふだんは気づかずに過ぎていることに気づいた、という意識のおもしろさが、うまく出ている。「たとえば押上」という結句の置き方がいい。②の「本庄」もそれに近くて、保険金殺人によって記憶される地名の哀れさ。だが、そういう土地にも人が生活し、葱を植えたりしているのである。

③・④は、当たり前のことをそのまま歌って、現代の生活の虚しさのようなものを匂わせている。乾いたウェットティッシュの、人工的な存在感への違和。ビルの鏡面に反転される情報の薄っぺらさ。だが、それを淡々と受け入れているところに妙味がある。

⑤は、なるほどと思わせる、自虐的なユーモア。茂吉はこういうとき、本当によく生きる。ただ、「ファミレスで」「深夜に」と「で」「に」という助詞が続くと、ややくどい感じがしてしまう。

⑥は、個人的に、よくわかる。地方での営業はまさにこんな感じ。こうした仕事の実感がある歌が、もっと読みたかったとも思う。

⑦も「たんこぶのようなる」という素朴な比喩が命。こういう一点突破の歌も、もっとあっていいのではないか。

⑧の下句は、短歌では多い内容なのだが、上句の「塩にまで小蝿がたかる」という描写がよく効いていて、心情に深さを与えている。(腐った食物が塩に染みていた、という場面だろう。)作者自身も若い時代を過ぎようとしている寂しさも、背後にあるのだろう。

     *     *

いくつか気になった点もある。

▼▼▼引用はじめ▼▼▼

・なにもかも欲しがらぬ口を持ちおりし一日(ひとひ)なりせば水さえ不味き

・真夏わがための夕餉を作りなば体力気力気化するごとし

・イタリア語にポルポなる語をわが知りて意味を問いなば蛸のことなり

▲▲▲引用おわり▲▲▲

「せば」は「仮に……であったならば」、「なば」は「……してしまったならば」「確かに……するならば」という意味。(どれも未然形+「ば」)

どうも、文脈に合わないような気がするのである。「なれば」「作れば」「問えば」と、已然形にしたほうが自然なのではないか。

文語で歌いたい気持ちはよくわかるのだが、私は引っ掛かりを感じてしまった。ただ、私も文法はあまり得意ではないので、詳しい方は教えてください。

それからもう一点。

▼▼▼引用はじめ▼▼▼

・錦秋の錦の部分をつくづくと仕事とはいえ箱根に見ており

   ライブドア事件報道

・情報の情とは何ぞ 水に落ちし犬いっせいに撲られており

・教養の養とは何ぞ 車内にてモンスターペアレントの子を見ておりつ

・及第の及とは何ぞ 言うことがその都度変わる顧客ばかりで

・仰天に値するとき仰天の天とはいかに輝きおらむ

・尋常の尋とは何ぞ モノサシはおりおり他人よりもたらされ

▲▲▲引用おわり▲▲▲

これも意図的にやっているのだろうが、同じようなパターンの歌がいくつも点在していて、だんだん新鮮さがなくなってしまう。作者の意図が、必ずしも奏功していない。これは歌集の作り方として損だと思う。1首目以外は全部カットしても、よかったのではないか。(一首目は、仕事の哀感がよく出た、いい歌とおもう。)

「情報の情とは何ぞ」のように、言葉の表層を用いて、社会批評に持ち込もうとすると、どうしても歌が軽くなる。それが何首も続くと、発想にやや食傷してしまうのである。

私が⑥の「営業車」のような歌をいいと思うのは、仕事を通して社会に触れている体感が、どことなく感じられるからなのである。

ただ、私とは別の読み方をする読者もいることだろう。いろいろな感想が、生沼さんのもとに届くことを願っている。


りとむ創刊20周年記念号

2012年07月05日 | 本と雑誌

「りとむ」創刊20周年記念号をいただく。

300ページを超す分厚い一冊である。こうした記念号では座談会を載せることが多いのだが、主に近代歌人に関する評論を多数掲載しており、重厚な記念号になっている。

滝本賢太郎という人が、佐藤佐太郎論を書いている。粘りのあって、深みのある文章で、注目して読んだ。たとえば、

   篁(たかむら)にそひつつ来ればわが靴に踏みてやはらかし竹の落葉は  『地表』

という歌を引いて、こう書いている。

「風景とはそこに動かずあるのではなく、たえず震えて揺れている、いわば幾つもの薄いカーテンの重なりのようなゆらめくものである。その僅かな動きを見、触れ、くぐるべく寄り添い、自身をかすかなものにしていく。作者の姿が透明に感じられるのはそのためであり、肝要なのは(中略)「そひつつ」という、この風景に寄り添う姿勢だろう。」

佐太郎の歌をよく読み込みつつ、風景に寄り添うことで「自己」を透明化していく佐太郎の歌の特質を、シャープに捉えている。佐太郎の歌に詠まれた風景の細やかな奥行きが、批評によって、いっそう明確になっているところもよい。

三枝昂之さんが、半田良平を論じているのもうれしい。(半田良平は、私もとても好きな歌人なのだが、最近は取り上げられることがほとんどないのである)

また、今野寿美さんは「赤光語彙」という単語索引を制作している。斎藤茂吉の『赤光』に、どんな単語が使われているか、一目でわかるもの。この分析をもとに今野さんは、与謝野晶子の『みだれ髪』には「見る」9回「見ゆ」4回だが、『赤光』では「見る」81回「見ゆ」44回と、圧倒的に多く、視覚を非常に意識した歌集であることを指摘している。大変説得力のある指摘である。

とても地道に丁寧に作られた一冊とおもう。粛然とさせられる。