アモルの明窓浄几

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改正臓器移植法に関連して思うこと

2010年08月08日 | 万帳報

母が亡くなってもう23年の歳月が過ぎましたが、いまだに忘れられない事があります。母は若い頃から心臓の病があり、人生の半分近くを病院のお世話になっていたと思うほどの印象しか残っていません。人生の後半は、障害者の認定を受けましたが、自宅療養中でも酸素吸入が欠かせず、深夜に救急で病院へ駆け込むことも多々ありました。

その母の死期も近いのではと何となく感じてはいたのですが、内ポケットのポケベルの音が母の死を知らせてくれました。母は、誰にも看取られずに亡くなりました。病院へ駆けつけた私は、人の一生のあっけなさに涙も出ませんでした。もう母とは、口喧嘩もできなくなったのです。

精神科医の中井久夫氏は、「不条理の最大は死である。私たちが死期を知りえないために死はひとごとになっている。…私たちの『希望』はしばしば不確定な将来の先送りである」と云う。

母は、心不全で亡くなりました。医師は内臓の提供を申し出てきました。今後の医療の発展に臓器提供と云う形で寄与してもらいたいとの事です。ですから、臓器移植のための臓器提供ではありませんが、私は生前の母とはその様な事で話合ったことはなく、迷いましたが最終的に承諾しました。

霊安室へ運ばれて行く母の顔をみて不思議に思い、よく確認して見ると、額から頭部にかけて施術後がありました。私はショックのあまり言葉も出ませんでした。脳を摘出したのです。やられたと私は思いました。母は心臓疾患で亡くなっているので、心臓のみの提供だと思い込んでいたのでした。後に医師にこの事を伝えると、脳も臓器の一種と云われました。

私は、臓器移植に必ずしも反対ではありません。生き返ることのない身体の一部が、他の人の役に立つ行為は納得出来るし、遺族にとっても臓器の一部が引き続き生き続ける事は、癒しになるとも思われます。

では、私が今日の臓器移植に疑問を拭えない理由は何処にあるのか。
先ず、私にとっては臓器移植の問題点は、脳死が人の死とするとしている点です。前回のブログでも紹介しましたが、厚労省は「…一般の医療現場で一律に脳死を人の死とするものではない」とわざわざ全国自治体に通知文書を出しているぐらい混乱を深めています。仮に厚労省の言う通りだとしても、人の死にダブルスタンダードがあってよいはずはないと思います。「臓器移植を推進する側のより新鮮な臓器が欲しいという要求」(前回ブログの『基調報告』)から二重基準が設けられたのであれば、本末転倒と云わざるをえません。

又、『基調報告』で云う処の「人の死は、呼吸・心臓の停止、瞳孔の散大、身体が冷たくなるなど、誰がみても納得せざるを得ないもの」でなければなりません。
今日の高度医療の発達した状況において、専門家(医者等)に「死」の判定を委ねなければならないとしても「誰がみても納得せざるを得ないもの」でなくてはなりません。「脳死」判定は、果してその役目を担えるのでしょうか。

そして、今や医療現場は、「トリアージ」(選別)や「クリニカルパス」(効率化・標準化)と云った軍事や工業用語が用いられているという。「価値のない命」への医療費の抑制、削減を行い、その臓器や組織を資源とする「有効活用」化が、その根底にあると言う人々がいる。その事例に事欠かない。「八木晃介さんの講演を聞く」(当フログ7/4日)にも記載しましたが、別の事例を紹介します。

・「羊水穿刺の費用を2万円とし、ダウン症候群の平均寿命を20年、1年間の養育費を100万円として計算する。たとえば35歳以上のすべての妊婦に羊水穿刺を行い、ダウン症候群ならすべて中絶するとすれば、ダウン症候群の発生は2割減り、社会は約60億円の経費削減を達成できる」(『図説染色体異常』黒木良和著)八木晃介氏講演テキストより

・「年齢別にみると、一番医療費がかかっているのが後期高齢者であるから、この部分の医療費を適正化していかなければならない。特に、終末期医療の評価とホスピスケアの普及が大切である。実際、高額な医療給付費を見ると、例えば、三日で500万円、一週間で1,000万円もかかっているケースがある。そうしたケースは、終末期医療に多くある。後期高齢者が亡くなりそうになり、家族が一時間でも、一分でも生かしてほしいと要望して、いろいろな治療がされる。それが、かさむと500万円とか1,000万円の金額になってしまう。その金額は、税金である公費と他の保険者からの負担金で負担する。どちらも若人が中心になって負担しているものである。…それを抑制する仕組みを検討するのが終末期医療の評価の問題である」(『高齢者の医療の確保に関する法律の解説』厚労省保険局国民健康保険課課長補佐・土佐和男編著)『唯の生』立岩真也著より

・「命(植物状態の人間の)を人間とみるかどうか。家族の反社会的な心ですよ。人間としての自覚が不足している」(日本安楽死協会理事長・太田典礼)『唯の生』立岩真也著より
註:「植物状態」は原文の通りですが、「遷延性意識障害」と呼ぶべきです。又、日本安楽死協会は、今日の日本尊厳死協会の前身。太田典礼氏は、この協会の創始者であり、優生保護法制定(1948年)に深く関わった人物と云われている。

立岩真也氏は、「安楽死・尊厳死の主張は優生思想だと批判した人たちがいる。なんでも一言で括ってしまうのはたしかに乱暴なことではあるが、私はこの括り方は基本的には当たっていると考えている」と云う。
次に『良い死』(立岩真也著)より引用する。
「障害者とのつきあいがなかったら、きっと私も、母の気持ちに深く同調し、尊厳死を願っていたことでしょう。「できなくなったら終わり」「人のお世話になりたくない」。この潔癖すぎる個人主義は、人間と人間の本来の関係を否定します。できないままの自分を素直に生き、おたがいに迷惑をかけあうところから、初めて本当の人間関係が始まる。障害者の主張を、そんなふうに聞けるようになり、すべてを一人で背負いこむ自己完結型の自立を幻想であると理解できるまでには、ずいぶん時間がかかりました」(石川憲彦氏)

人は、天寿を全うしてのみ、その分身を提供出来るのであり、遺族もそれでこそ納得出来ると思います。又、提供を受ける側も、そう望んでいるのではないでしょうか。
医療機関や医師への信頼、行政機関の医療行政への信頼の構築がすべてに優先します。
前回の『基調報告』にあるように「徹底して患者の側から医療をとらえかえし、…いっさいの医療、看護を患者の側からつくりなおしていくことだ」と。


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