アモルの明窓浄几

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「福島原発事故の責任を問う」告訴とは

2012年09月24日 | 万帳報
8月1日に福島地方検察庁に「福島原発事故の責任を問う」として、1,324人の福島県民が告訴を行いました。マスメディアにも大きく取り上げられました。
今回は、『世界』8月号に掲載された、告訴団団長の武藤類子さんのお話を紹介します。

武藤類子さんはいいます。
>毎日毎日は、否応なく迫られる決断。
逃げる、逃げない。食べる、食べない。
子どもにマスクをさせる、させない。
洗濯物を外に干す、干さない。
畑を耕す、耕さない。
なにかに物申す、黙る。
まさに毎日が苦渋の選択の連続でした。と

>事故により、日常を奪われ、人権を踏みにじられた者たちが力を一つに合わせ、怒りの声を上げました。告訴へと一歩踏み出すことはとても勇気のいることでした。人を罪に問うことは、私たち自身の生き方を問うことでもありました。

彼女はこの告訴の意味は深いという。
>この国に生きる一人ひとりが大切にされず、誰かの犠牲を強いる社会を問うこと。
>事故により分断され、引き裂かれた私たちが再びつながり、そして輪をひろげること。
>傷つき、絶望の中にある被害者が力と尊厳を取り戻すこと。それが、子どもたち、若い人々への責任を果たすことだと思うのです。

>原発再稼働を表明する時、野田首相は「国民の生活を守る」と言いました。
 何とも言いようのない不条理を感じています。
 今回、告訴だけでなく、刑事告発を同時に行ったのは、このようにして、もはや憤りも悲しみも口に出して訴えることのできなくなった人たちの被害についても、その責任を問わなければいけないと考えたからです。

>政府と電力会社の数多くの無責任が積み重なって、大事故は引き起こされました。にも拘わらず、本人たちは何の責任も取らずに同じ場所に居続け、さらには大飯原発の再稼働を決める立場にまで立っています。こんなことが許されていていいのでしょうか。
 私たちが刑事告訴せざるをえなかったのは、これ以上の無責任を許してはいけない、という思いからです。

>いま、福島では除染や避難、賠償などをめぐる考え方の違いから、県民の間に対立が生まれるという、悲しい状況があります。本当は対立的な関係になどなるはずがない私たちが、対立させられています。今回の告訴は、私たちの困難で苦しい状況をもたらしたのは誰かを明確にすることで、県民の間に対立をつくらせないことにも意味があります。

>私たちは何も言えない民衆ではありません。責任者の責任を問い、被害の回復を求めていくために、発言し、行動していくことができます。そういう力が一人ひとりにあるのです。

>誰を告訴するのか、(略)そこで、今回の事故について直接的に責任を有する人に限ることとしました。具体的には、津波や地震への安全対策を怠ってきた過失や事故発生後に被曝を拡大させた過失の責任です。(略)そして、私たち全員が異論なく告訴が必要だと一致したのは、福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した山下俊一氏です。事故直後から放射線の危険性を軽視する発言を繰り返すことで、子どもたちをはじめとして被曝を拡大させてきた責任は大変に重いものがあります。政治家については、選挙で選ばれた有権者の代表でもあり、別の形で政治的責任を問うていくべきではないかということから、対象から外しています。

>私たちはただ刑事責任を問いたいのではなく、それらの刑事責任を有している人たちの、何の反省もない現在の立ち居振る舞いを問題にしているのです。

>これは、多くの人たちの人権が踏みにじられている人道問題です。

最後に、武藤類子さんは次のように言って締め括っています。
>核が生命を蝕む悲劇は世界中にひろがっています。本質的に生命と対立的な存在である核を利用していこうとする限り、人類は放射能で汚れた大地に住んでいく覚悟を迫られます。未来を担う子どもたちに、このような負担を、こうこれ以上は負わせたくないのです。今回の告訴は、若い人たち、これからの生命への、せめてもの罪滅ぼしだと思っています。
以上

下記もご覧になって下さい。
http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/
http://www.youtube.com/watch?v=LH_kW_5GDyg
http://www.youtube.com/watch?v=TQOZIbIaqBQ


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