アモルの明窓浄几

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『私は誰になっていくの?』を読んで その1

2012年07月02日 | 万帳報
この本の原題は『 Who will I be when I die ? 』(私が死ぬ時、私は誰になっているの?)ですが、邦訳は『私は誰になっていくの?…アルツハイマー病者から見た世界』として、(株)クリエイツかもがわ より出版(2003年)されています。
著者のクリスティーン・ボーデンは、続編の『私は私になっていく…痴呆とダンスを』をクリスティーン・ブライデン(再婚)として翌年出版(2004年)しています。
これらは、福祉関係に携わる方や認知症に関心の深い方々には、良く知られている著者、書物のようです。私は理工系という事や近親者に認知症者がいない事もあるのでしょうか、全く知らずにいました。

従って、書評を書くつもりはないですが、クリスティーンさん(以後、クリスティーンと呼ぶ)の生き様は、今は健常者の私達にとっても大切なメッセージを投げ掛けていると思い、私の様にクリスティーンを知らない方に、少しばかりご紹介したいと思います。
クリスティーンの人物像については、精神科医の小澤勲氏の言葉(岩波新書「痴呆を生きるということ」より)を借りて、簡単に説明します。

> 彼女はオーストラリアに住み、生化学で学位を取り、製薬会社の研究員から科学出版関係へ、さらに連邦科学産業研究機関の政策マネージメントに携わり、政府や経営者などのブレインとして働いてきた、きわめて知的で有能な人だったらしいが、46歳でアルツハイマー病の診断を受け、三年後の1998年にこの本を出版した。
これを読むと、痴呆を病む人からみた世界がよくわかる。彼女自身も、今まで書かれた本や論文は健常者の手によるものばかりで、病を生きるものからみれば、不満な記述が多い、と書いている。(p.152)註1

註1:小澤勲著『痴呆を生きるということ』の初版が2003年ですが、「痴呆」と云う呼称が厚生労働省によって「認知症」に変更されたのが、2004年との事です。

この『私は誰になっていくの?』は、第1章から第17章までがいわゆる本論に該当する部分です。精神科医から認知症の告知を受け、深い喪失感と病との戦い、家族と共に歩む暮らしの困難さから、あるがままの自身を受け入れるまでの経緯をたどっています。
彼女は云う、「アルツハイマー病と共に歩んだ私の感情的、身体的、精神的な旅について、この本に書き記した」と。

家族については「問題は、頼むことをいかにして思い出すか!という点にある。私は何度も家族に我慢を強いている。それは、限られたいくつかの状況での私のふるまいは、それがきっかけで、家族の中に、他の誰かの『よくない態度』へのきわめて当然の感情的な反応を引き起こすからである」
「でも私は、ほとんどの時間を娘たちと過ごしたい。(中略)娘たちが何をしたかは問題ではなく、娘たちの行動がどうかも問題ではない。私は娘たちを愛している。そして、一緒にいたいのだ」
「父の死は、全く予期しないことだった。(中略)いつもは言葉数の少ない人で、感情をあらわにすることにはとても控えめだったが、父が『ただお前の声が聞きたかったのだ』と言った時の、その電話の声の調子(そして、いつもは熱心に本を読む人ではないのに、私の草稿の一言一句まで読んでいたという事実)が、私には大きな意味をもつことだった。私は、天国で父と再び会えることを心から楽しみにしている」と。

彼女の不安と怯えは何処からきているのでしょうか。彼女自身は次のように云います。
「最終的には脳が減少して、身体の機能を維持することもできなくなるほどになるために、アルツハイマー病は死に至るのであろう。(中略)しかし死は、私が最も恐れることではない。むしろ私がおびえているのは、『自己』の本質が崩壊し、病気の後期になって、自分では気付かないまま社会的に受け入れられないような振る舞いをして、たぶん自分自身も困惑し、家族も困らせるだろうという現実である」。

第18章から第23章までは、「後記」とされているが、『神』との関係について書かれています。彼女自身前書きで、「私はこの本に神について多くのことを書いた。信仰は私の生活の一部であり、『聖なる』ものやトラウマ的なことだけでなく、普段のすべてのことの中にある。だから、もしいやだと思われるなら、残念だが、そういう『神のこと』は、とにかくすっ飛ばして、『普通』の事柄だけを読んで頂きたい」と云う。

しかし、この「後記」の章は、私のような信仰心のない者にとっても大切な内容を含んでいます。クリスティーンを理解するキーワードは、「身体的、感情的、精神的」この三つの部分です。彼女は(神を知る前は)「自分には三分の一である精神的な面が欠けていると気づいたが、忙しすぎるからどうしようもないのだと自分に言い聞かせた」と語っています。
彼女にとっては、認知症と向き合い、あるがままを受け入れるに至るには、神が必要であったのでしょう。「私が言える唯一の『奇跡の治療』とは神である」と宣言しています。
この部分については、次回に再度、触れてみたいと思います。

この本の特徴に『付録』があります。クリスティーン自らが「アルツハイマー病とはどのような病か?」を書いています。
「私は『付録』の中で、アルツハイマー病について簡潔に説明すると同時に、その段階ごとに洞察を加えた。社会通念とされるものの嘘をあばき、真実は何か、あるいは何がそうでないのかを明らかにしたいと思う」と云います。

例えば、
※友達や家族の名前を忘れたり、家族の一人を他の一人と間違える(事について)
>以前からずっと知っている人なのに、名前は考えないとすぐには出てこない。時には、時間がなくて、それができないこともある。あなたを示すラベルが、どういうわけかどこにも見あたらなくなっているので、名前を混同してしまう。しかし、私にはもう、あなたに名前があるということは重要ではなく、あなたという人を知っているということこそが重要なのだ。

「訳者あとがき」以降にも、クリスティーンを理解するうえで役に立つ記述があります。

クリスティーンは、日本の読者に対しての前書きで、「私たちが認知症であっても、たとえそのために理解しがたい行動をとったとしても、どうか価値ある人としての敬意をもって私たちに接してください」と語っています。
同様のことを『はじめに』において、「アルツハイマー病は、少しタブーともされる事柄―あるいは冗談にしてしまうような事柄―になっている。(中略)なせ、脳細胞の身体的故障を体の他の部分の身体的故障以上に恥じるのだろうか?私たちは正気を失っているのではなく、病気なのである。だから、どうか私たちが尊敬を保てるように扱い、私たちのことを笑い者にしたり、恥じたりしないでほしいと思う」と述べています。

最後に、クリスティーンは本当にアルツハイマー病なのか?について触れておきます。
当書籍の巻末に小澤勲(精神科医)氏の『認知症を生きるということ』の寄稿文が掲載されています。

>この本はおそらく「これが認知症を病む人が書いた文章だろうか」という驚きで迎えられるだろう。(略)この文章を読んだわが国の専門家のなかには、ボーデン(クリスティーンの事)さんの認知症という診断が誤診なのではないか、と疑った方があったという。(略)本書ではアルツハイマー病と診断されたと書かれているが、国際アルツハイマー病協会の招待講演では、彼女は前頭側頭型認知症と自己紹介している。になみに、専門家のあいだではこの二つの病態は区別して論じられるのが通常である。(略)彼女が認知症であることに疑いを差し挟む余地はない。しかし、画像はアルツハイマー病とも前頭側頭型認知症とも異なる、きわめて非定型なものであった。

小澤勲氏は、自書の『認知症とは何か』においても、次のように云っています。
>私たちが出会う大半の方は、かなり初期から知的「私」の崩れがみられる。なぜ彼女の場合は、そうでないのだろう。おそらく、そのあたりで、あるいは認知症の進行が予想と異なり、きわめて穏やかだったこともあるだろうが、アルツハイマー病とは違う認知症のタイプを想定したくなり、彼女の主治医は前頭側頭型認知症と再診断したのではないだろうか。だが、この診断ではかえって彼女の現実の姿とのズレが大きくなってしまう。(中略)実は、私は彼女のMRI画像を見せていただく機会があったが、アルツハイマー病としても、前頭側頭型認知症としても典型とはいえない非定型的な画像だった。だが、(略)変性疾患による認知症であることは間違いなく、彼女が「認知症体験の語り部」であることに疑念を差し挟む余地は全くない。

以上から、小澤勲氏によると、クリスティーンは認知症ではあるが、アルツハイマー病や前頭側頭型認知症では如何も無さそうだと云う事のようです。


追伸:クリスティーンさんの著作二冊を読まれる事をお勧めするのですが、これらの解説として、小澤勲氏の『痴呆を生きるということ』の第四章「痴呆を生きる不自由」及び、『認知症とは何か』(2005年)の第二部第二章「ある認知症者の手記」と第三章「認知症をかかえる不自由」を参考にされるのがよいと思います。いずれも岩波新書です。

又、クリスティーン・ブライデンさんからの画像メッセージは、下記から。
→ http://www.ninchisho100.net/christine/index.html



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