アモルの明窓浄几

芦屋・仕舞屋・三輪宝…生噛りの話題を机上で整理します。

『私は私になっていく』を読んで その2

2012年07月17日 | 万帳報
第2章「痴呆症がある――それはどんなことなのか、話しましょう」について、クリスティーンは次の様に云っています。
「この本では、私がどんなふうに感じているのかをあなたとわかちあおうとした。そうすれば、痴呆をもたらす病気とともに衰弱へ向かって進んでいくこの旅路を、あなたが助けることができるからだ。この章では、私たちの視点と、あなたはどうすれば私たちを助けられるのかという視点と、二つの視点から私たちの旅をたどることができるように構成した」。

この2章と、3章「私たちがしてほしいこと―痴呆とのダンスを踊るパートナーへ」で、クリスティーンが語っている事は、認知症サポーターの養成講座や「傾聴」活動のためのテキスト等に掲載されている内容と重なっている点に気付かれると思います。

>私は、あなたが前に来てくれたことも、あなたが誰かも覚えていないかもしれないけれど、それでもどうか訪ねて来てほしい。訪問してくれるその気持ち、私に与えてくれる親しみの気持ちのほうが、はるかに大切だ。私がつながるのはできごとの認知ではなく、感情なのだから。

>何かを強制する前に、私がそれを望んでいるかどうかを確かめてほしい。私はもう大人だ。(略)たとえ話すことができなくても、私は尊厳と敬意に値する存在だ。(略)
何かをするのに、これが「正しい」というやり方はない。家族は、痴呆症と診断される以前のその人はどんな人だったのかを思い出し、その人が無理なく、できる限り自立していけるように手助けをしなければならない。

>とにかく接触を保ち続けよう。けれども同時に、新しい思い出も作ろう。(略)
私たちみんなが、ともに今日という日を心ゆくまで楽しみさえすれば。

>最後の、そして多くの意味で最も重要な要因は、私たちの根底を貫く精神性である。それは単にどの宗教を信仰しているかではなく、私たちに生きる意味を与えているもののことだ。(略)私たちが自分の存在の中心へ、魂へとより深く旅していく時、私たちに生きる意味を与えてくれるものと再びつながれるように、あなたが助けてくれることが大切なのだ。

>私たちをあるがままに見て、まず病気ではなく人間として見てほしい。そのあとに、できる限りの能力を私たちが発揮し続けられるように助けてほしい。

>あなたが私たちにどう接するかが、病気の進行に大きな影響を与える。あなたの接し方によって、私たちは人間らしさを取り戻し、自分たちはまだ必要とされている、価値のある存在なのだと感じることができるのだ。「人間は他人を通して人間になる」

>私たちは、自分がどうしたいのかはっきりと口では言えなくても、あなたと同じ選択肢を与えられなければならない。単に施設に都合のいい考え、あるいはあなたがこうすべきだと思うあなただけの考えに沿って、私たちの行動パターンが強制されるべきではない。私たちを介護される人としてだけではなく、ひとりの人間として考えてほしい。

>痴呆症と診断された人のほとんどが最初に感じるのは悲しみだ。やがて自分自身を失うことへの悲しみである。(略)とりわけ強調したいのは、機能の喪失の進行についてである。それは、複雑だが圧倒的で、じわじわとわかりにくく、不規則に進行する。ひとつの機能が失われたことがわかるたびに、私たちは悲しんでしまう。喪失と悲しみを常に味わい続けなければならないのは、実につらいことだ。

>痴呆を抱えて生きるトラウマを乗り越えるカギは、希望を与えることだと私は思う。(略)私たちは、痴呆症とその宣告を生き延びてきたサバイバーとしてのアイデンティティを見つけようではないか。一番大切なことは、私たちが前向きになって、ゆっくりと生きていく人生に希望を持てるように励まし、一緒に星をつかめるように空に向かって手を伸ばしてくれることだ。

>私たちが続けられる限り仕事をする時間と空間を与えてほしい。本当に必要な場合でなければ、私たちの代わりにやってしまわないでほしい。間違ってもやり損ってもいい、それを私たちに失敗だと思わせないでほしい。私たちを励まし、生きがいを感じさせ、私たちがまだ役に立つ、価値ある存在であることを感じさせてほしい。

>私たちがより感情の世界に生き、認知の世界を生きることが少なくなっているので、記憶に残るのはあなたが何を言ったかではなく、どんなふうに話したか、ということだ。私たちには感情はわかるが、話の筋道はわからない。あなたの微笑み、あなたの笑い声、私たちにふれるあなたの手が、私たちに通じるものだ。共感することが私たちを癒してくれる。ただあるがままの私たちを愛してほしい。訪ねて来て、なんと言っていいかわからない時は、ただそばにいてくれればいい。私たちは言葉よりも、あなたがそばにいてくれること、私たちと思いをわかちあってくれることが必要だ。私たちの感情と精神は、まだここにいるのだ。あなたが私たちを見つけてさえくれるなら!(略)
どうか私たちが伝えようとしているその思いを汲み取ってほしい。話を聞いてくれている、わかってくれているという感覚を得ることで、私たちは自分が尊重されている、あなたとつながっていると感じるのである。

→この文章は「心と魂にふれてほしい」の段落部分ですが、ここの一部分が、私が受けた認知症講座のテキストに掲載されていました。私はこの文章を読みクリスティーンを知る事となり、彼女の本を読むきっかけとなりました。

>私たちはコーヒーとビスケットを前に、あれやこれやおしゃべりを始めた。まもなく私はジョージがほんの少し身を乗り出すのに気づいた。唇がぴくぴくと動いて、何か言いたいように見えた。そこで私は、他の人たちにちょっとの間黙っていてくれるように言ってから、こう言った。「ジョージが何か私たちに話したいみたいよ。さあ、話して。時間はたっぷりあるからだいじょうぶ。ぴったりの言葉を見つけようとしている時の気持ちがどんなものか、私たちにはよくわかるわ」
そして私たちはしばらく黙ってじっと座っていた。その間彼は考えをまとめ、ゆっくりと話しだしたのだ。その後も私たちはときどき話をやめては、彼がしゃべり、言いたいことを人に聞いてもらうための時間を取った。
彼の妻が迎えに来て彼を車まで連れて行き、車に乗せてから、また走って部屋に戻ってきた。彼女は私をしっかりと抱きしめて、顔を輝かせた。ジョージが、今日はとても楽しかった、と言ったというのだ。

→ジョージの「楽しかった」と云う喜びの顔が目に浮かびます。そして奥様の輝いた顔も。以来、ジョージは以前には行きたがらなかったデイケアにも行くようになったそうです。

>ある日私が彼女を訪ねて行くと、明らかにモーリーンは相当混乱してしまっていて、キッチンの近くの壁まで私を引っぱっていった。彼女は床からすぐ上のところを指さし、たくさんのものがうごめいているように表現した――彼女にとってはそれがその場所を埋め尽くしているように見えていた。私は言った。「ここにネズミがたくさんいるの?」彼女の顔がニコッとした。「そうなの!」と彼女の「言葉」――つまり顔の表情とゼスチャー――で私に言った。二人で廊下を歩いてみると、確かにそこいらじゅうにネズミがいた。もちろん私には見えなかったけれど、だからといって彼女にとって現実味が薄れることにはならなかった。
そこで私は言った。「猫を探しましょうよ。きっとこのあたりにもいるわよ。猫がネズミを全部追い払ってくれるわ」二人でしばらく歩いていると、やがてモーリーンは私の腕をつかんで指さした。彼女の顔と音の立て方から、それを見つけたことがわかった。猫がいた!そしてすぐに彼女は静かに落ち着き、猫とネズミは彼女の世界から離れ、彼女はまた日常生活に戻っていったのである。

→「傾聴」と相通じるところがある。クリスティーンは何処までも彼女に寄り添っている。
クリスティーンは云っている「私たちの現実の中に入ることは大切だ。私たちの現実は、ごちゃまぜの感情とわずかな認知から作られていて、私たちの真の自己である魂によってつなぎとめられている」と。

>話すことも見ることもできない女性でさえ、私がそこにいるのがちゃんとわかって、ぎゅっと手を握り返してきた。彼女はそんなふうにして私と意思を通じあっていたのだ。
私たちが何を言おうとしているのかを知るカギは、私たちをじっくりとよく観察することだ。私たちのコミュニケーション方法は、その大部分が非言語的なものだ。

>私たちは、この病気で二つの重荷を背負っている。一つは病気そのものとの闘い、もうひとつは、いわゆる「社会の病気」との闘いだ。(略)世界を二つの目に見えない領域――「痴呆」の領域と「正常な人」の領域――に分断してしまうという社会問題だ。(略)私たちを孤立させるような態度を存続させ、壁で囲って隔離した痴呆という場所に私たちを押し込めるのだ。

>あなたにとって、私たちの「介護者である」ということが唯一のアイデンティティになってしまうと、それは私たちの病気を際立たせ、お互いが持っているほかのアイデンティティを剥ぎ取ることになる。双方の関係は、介護者と苦しむ人のそれになり、共依存に陥ってします。介護者であるあなたは自分のアイデンティティを保つために、私たちを病人のままにしておかなくてはならなくなる。私たちがほかの役割を演じて力づけられたりすると、介護者は脅威を感じてしまう。

>共依存は、痴呆の人にとっても、その家族にとっても、不健康なものだ。私たちは本当の自分よりも無力な存在になってしまい、介護者も必要以上に疲れてしまう。どちらの側も誠実ではなく、何をすべきかについての正しい理解や判断がないままに苦しみ、痴呆の旅をひとりで続けることになる。

>だから、介護者と病人というレッテルを自分たちに貼ることをやめて、ケアパートナーシップにならなければならない。痴呆の旅の中で新しい役割を受け入れ、協力し、適応していかなければならない。私は痴呆と共に生きるサバイバーになり、あなたはその旅における私のケアパートナーになる。(略)
このようなケアパートナーシップでは、痴呆の人本人が関係性の中心におり、ただの介護を受けるだけの存在にも、置き物のように外から眺められる存在にもならない。代わりに、私たちはケアの輪の中で、積極的に行動するパートナーになるのだ。

>そのような要求と能力を表現しようとしている私たちに、耳を傾けてほしい。そうすれば、あなたと私たちは祝福のダンスを一緒に踊り、共有する将来を喜んで受け入れられるのだ。

つづく


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