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Fashion Theory in Modern and Contemporary Japan

こんなに暑いのにまだ「冷えたらこわいな…」と思うクセ。
ファッションとジェンダー研究・小山有子

「卒業式の袴」再考

2010年01月15日 | Weblog
「卒業式の袴」再考

 2010年1月7日の朝日新聞に「高額の袴レンタルに違和感」と題された投書が掲載されました。投稿者は22歳の女性。彼女はこの3月に卒業予定。彼女の大学では、女子学生は袴を着用するのが多数だそう。彼女も袴のレンタル店に下見に行ったものの、高額だったために着ようという気持ちにならなくなってしまったとのこと。そのように考える友人が彼女の周囲にいなかったけれども、同じように高額な袴(や成人式の着物)のレンタルに違和感を抱く同世代がいるだろうと、「一人じゃないし、間違ってないよ」と呼びかけました。

 その投書を受けて、1月12日には「晴れ着レンタル」と小見出しがついた投書二つが彼女への返答として掲載されました。ひとつは「なぜ着るか 考える姿勢大切」という46歳女性の投書、もうひとつは「思い出残ればどんな服でも」28歳の女性の投書でした。前者は「お金の価値や自分の価値観をどう子どもに伝え、育てていくか自問自答している親の一人」で、「なぜ着るのか」を考えることはとても大切、と応援しています。後者は、「投稿者とおなじ思いを学生時代に持ち、袴を着なかった一人」で、卒業式はスーツで出席したそう。そして「どんな服装でも」「自分自身が満足のできる形の出席であれば、思い出に残る卒業式になると思」う、と女子学生を応援しています。

 この三つの投書を読み、わたしも全体的には賛成したいと思います。
 ただ、女子学生の最初の投稿のなかには「2年前の成人式は行かなかった」とあって、その理由に、「振り袖を着たら」と言ってくれる両親に負担をさせたくなかった」からだと書かれていたことは気になります。振り袖を着ないと式に出席できないわけではないので、式に行かなかった理由を振り袖のためにするのはどうでしょうか(この部分は朝日新聞の担当者さんの文章短縮がこうさせたのだと思いたいところです)。大学の卒業式も同じように、袴姿でしか出席できないものではありません。自分が式にふさわしい服装だと思うもので出席するのが一番納得できるでしょう。もしくは、あえて政治的にふさわしくない服装で出席する、ということもひとつのアピールになるかもしれません。ただ、それを他の人が見てどう思うか、ということも考えるべきでしょう。ジャンパーで出席できないところには行かない、という姿勢を貫いた今和次郎先生ではないですが、自分の信念(や価値観)と他人のそれとは違う、と認識し、自分の行動に責任を持つこともまた大切だとわたしは考えています。

 けれども、わたしが考えているのはここだけではないのです。「なぜ袴を着るのか」、という部分。現在では、卒業式の袴というものは、形骸化されて単なるひとつのコスプレでしかないかもしれません。明治・大正時代の、懐かしの「女学生」スタイルとして。「はいからさん」っぽいスタイルとして。しかし、「なぜ着るのか」をもう少し深く考えてみると、この「女学生」スタイルも、その成立過程には今の袴の議論よりももっと熱い議論がたくさんありました。近代的な教育を受ける女学生にどのような服装をさせるのかという問いは、そのころの婦人雑誌でもさまざまな意見が交わされています。着物を改良して動きやすい服装にしたらどうかという改良服の提案がなされたり、実際に制服を作った学校の校長先生からは、その制服の意義がわざわざ説かれたりしました。

 一方でそうした新しい試みには、どちらかというと美感という、感情に訴える批判が多くなされました。曰く、妙齢の女子に袴を着せるなんて、何を考えているんだ!女性の着物は、肩から帯にかけてが一番美しいのに!(袴をつけたら帯は締めないので残念) 後ろ姿の柔らかなラインこそ美しいのに!(袴をつけたら隠れてしまうところなので、こちらも魅力半減) などなど。そうした批判をした人にとっては、今まで見慣れていた女性の美しさを奪われた気分になったのでしょう。その気持ちはわからないではありません。ただし、その批判の真意には、服装が変わることによって女性の行動にも変化が生じる可能性を意識的に(あるいは無意識的のうちに)見ていて、むしろそちらに警戒していたことも多いことを付け加えておきます(これについては、小山有子「和服改良論と「女性美」――明治後期の女性の服装とその規範性をめぐって」荻野美穂編著『〈性〉の分割線』青弓社 2009年を参照。ウフフ、宣伝☆)。

 こういうことは、形骸化した袴姿としか認識されない現在では、知ったところでどうなるわけでもありません。でも、「なぜ着るのか」という問いに答えるものでもありたいと思います。たとえ形ばかりの袴であっても、現在に伝えられることはもっとあるのではないかしら。わたしたちの周囲には、今もなお「なぜ着るのか」考える問題にあふれているのになぁ、と、今回の投書は考えさせてくれました。






* * * * *



ちなみにわたしが卒業した当時の日本女子大学では、卒業式の案内に「華美な服装は慎むこと」という注意書きがあって、式には振り袖での出席は不可でした(謝恩会には振り袖でもOK)。
その頃はまだ、明治期の雑誌が目白にあるなんて知りもしない頃でしたが、増渕宗一先生の授業などで聞いていたかつての女子大の校風を思い描いて、「こんな注意書きがあるなんて、さすがだなぁ~☆」と感じたことでした。


今でもそうなのかしら。
なんとなくそうであってほしいけれど。
(今度文化学科の淵江先生に聞いてみよう)



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A HAPPY NEW YEAR !!

2010年01月01日 | Weblog
A HAPPY NEW YEAR !!
2♡1♡

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。



* * * * *



今年の年賀状(個人用)は、ちょっと大胆に、ラムちゃん。
2009年は楽しいことも、難しいこともたくさんあったので、新しい年は雰囲気を変えてみたくて。




ここでおもむろに全然重要じゃない new year resolution を。

2010年は…

★可愛いからといって服を買わない

もうね~、ヨーク切り替えのワンピなんて着ていくところがないので、好きだけど買ってはいけないと思いました。
それと、着物はめったに着られないので、半襟や足袋も買いません。



★資料をしっかり読み込む

授業で使うだけじゃなくて、ちゃんとしないと~。


★むやみに太らない

サイズが増減すると服に困るので、とりあえず太らない方で。
痩せる方はむやみには痩せないので安心です。



以上です。

今年はどんな年になるのでしょうか。

ちなみに、初恋の人と職場で偶然出会うなどなどのサプライズが、わたしにあるんだそうです。

なんと!
職場!? どこ!?
誰?? ニニさん!?
でも、たいがい授業前はすごい緊張してるし、授業後はげっそりしてクマが出てるので、職場じゃないロマンティックな場所で再会したいものです。
関西で会えるのかな。できたら梅田がいいな~。
けど、ロマンスは偶然のしわざっていうから、油断は禁物だな…

すっかりその気。
2010年もいろんなこと楽しみにしていきたいと思います。




みなさまにとって、2010年が幸多い年でありますように…☆







Comments (2)
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日本学術会議シンポジウム「歴史教育とジェンダー―教科書からサブカルチャーまで」

2009年12月13日 | Weblog
できたてホカホカの『女性学年報』30号をこっそり売りに行きました。
日本女性学研究会は後援団体ではないので、表立って販売できません…(こういうとこ、WSSJって、残念よね~)。

なので、チラシを置かせてもらったのですが(当然だけど)全然人気なさそう…。
前日に学校で印刷した手作りチラシだもの。

えぇい、まどろっこしい!と、会場の比較的若手そう(『女性学年報』のこと知らなさそう)な方に突然声をかけて、大阪のオバちゃん的な「これ読んで!!」のむりやり手渡しを決行!

次号の投稿につながればいいな~。



肝心のシンポジウムは、いろいろな方面から勉強になりました。
歴史学は、これから!ということなんだな…。

本当はいろいろ思うところあるんですが、うまくまとめられません。
父には帰ってからいろいろ聞いてもらい…(聞いてもらっただけ)、姫路に帰ってから夫にも聞いてもらい…、そして週末には美女にも聞いてもらお~。



囿メモ:ランチ案内

国際学術会議の建物内には食堂など何にもないのです。
お隣の新国立美術館にはレストランが入っているけど、ポール・ボキューズだから気軽にいただける感じじゃない…かな?
仕方ないので、逆方向にちょっと歩いて銀座ウエストに入りました。

ここはおススメ~☆

お値段は、まぁ、都内プライスですが、お茶もケーキもおいしく、店員さんも優しく超可愛い。
内装も落ち着いています。



でも本当は、関西に戻る前にお蕎麦屋さんに行きたかったんだ~。
お蕎麦、食べたかったなぁ~。



* * * * *


日本学術会議シンポジウム
「歴史教育とジェンダー ―教科書からサブカルチャーまで」

1 主催 日本学術会議 史学委員会 歴史学とジェンダーに関する分科会

2 共催 ジェンダー史学会、総合女性史研究会

3 後援
イギリス女性史研究会、イメージ&ジェンダー研究会、お茶の水
女子大学ジェンダー研究センター、京都橘大学女性歴史文化研究所、
国際基督教大学ジェンダー研究センター、女性史総合研究会、
中国女性史研究会、東京女子大学女性学研究所、奈良女子大学アジア・
ジェンダー文化学研究センター、一橋大学大学院社会学研究科
ジェンダー社会科学研究センター、歴史科学協議会、歴史学研究会、
歴史教育者協議会、早稲田大学総合研究機構ジェンダー研究所

4 日時 2009年12月13日(日)13:00~17:00

5 会場 日本学術会議講堂

6 次第

司会 姫岡とし子(東京大学教授・連携会員)
三成美保(摂南大学教授・連携会員)

13:00 開始

13:00~13:10 趣旨説明 長野ひろ子(中央大学教授・連携会員)
13:10~13:25 高校世界史教科書のジェンダー化にむけて――日本と
アメリカの比較
富永智津子(元宮城学院女子大学教授・連携会員)
13:25~13:35 古代ギリシアの社会をジェンダーの視点から読み解いてみる
桜井万里子(東京大学名誉教授・第一部会員)
13:35~13:45 奴隷貿易にジェンダーの視点をクロスオーバーさせる
井野瀬久美恵(甲南大学教授・連携会員)
13:45~14:00 高等学校日本史教科書にみるジェンダー
久留島典子(東京大学教授・連携会員)
14:00~14:10 女性史・ジェンダー史の成果は教科書に生かされているか
――日本近世の場合
長野ひろ子(中央大学教授・連携会員)
14:10~14:20 歴史教育の役割―「歴史」と「自分」を架橋するために
荻野美穂(同志社大学教授・連携会員)
14:20~14:40 ミュージアムとジェンダー――展示による経験の可視化を
めぐって
香川檀(武蔵大学教授・特任連携会員)
14:40~15:00 「女たちは歴史が嫌い」か?~少女マンガの歴史ものを中心に
藤本由香里(明治大学准教授・特任連携会員)

15:00~15:20 休憩
15:20~17:00 討論
17:00 終了

7 アクセス 東京メトロ千代田線乃木坂駅5番出口徒歩1分
(東京都港区六本木7-22-34)

8 事前申し込み不要、参加費無料






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WAN【装うことから考える・その1】ミス・ユニバースのナショナル・コスチュームに思う

2009年12月10日 | Weblog
WANにミス・ユニバース衣裳論議についての短い文章を寄せました。
ら、12月10日にアップされていました~。

よかった~、ボツになったかと思っていました。
(“ビューティー大好き”路線は譲れないので)


とはいえ、ミス・ユニバースそのものよりも、(今回の論議みたいな)周囲のもの、MUJを作り出してくなかのおこぼれみたいなエリカ・アンギャルの指南書などの方がむしろ好物。
わたしたち(とあえて言う)にどんなメッセージが発せられているのか考えることに、とっても興味あり子です。


ところで、タイトルに「特集・その1」とついているので、その2、その3と続くと思うのですが、楽しみです♪
どんなのが寄せられているんだろう~。
早くアップされないかな~。



* * * * *

WAN
女性をつなぐ ウィメンズ アクション ネットワーク
http://wan.or.jp/
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『女性学年報』30号 発行しました!

2009年11月30日 | Weblog
1979年に創刊した『女性学年報』が30号を迎えました。

毎年毎年、“手作り”で発行していること、30年間変わりません!
ぜひみなさまお手にとって下さい。

(今号はかなりプレミアになりそう!?)
(購読お申し込みはぜひぜひお早くに!)



* * * * *



┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃    『女性学年報』30号 発行のお知らせ             ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


『女性学年報』(日本女性学研究会・女性学年報編集委員会 刊)は
今年で30号を迎えました。
多くの方々に支えられてきた『女性学年報』。

今号は、投稿論文のほかに、二つの特集を組んでお届けします!


                    (定価:1900円+税)
お問い合わせはオフィス・オルタナティブ06-6945-5160 まで
または『女性学年報』編集委員会 joseigakunenpo@gmail.com


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■目次■


■論文
桂容子「フェミニズムと男女共同参画の間には、暗くて深い河がある」
石河敦子「総合職経験を持つ大卒専業主婦にみる性別役割意識の変容」
木下直子「DV被害者支援をおこなう民間シェルターの課題
     ―利用者からの異議申し立てを中心に―」
石井香里「レズビアンのパッシング実践の可能性について」
木村尚子「「産ませること」から「選択的に産ませること」へ 
     ―1950年代の受胎調節普及事業・家族計画運動における
     助産婦への期待―」
山家悠平「遊廓のなかの女性たちがみた「近代」
     ―1920年代の新聞記事を中心に―」

■特集
日本女性学研究会30周年記念
 女性学・ジェンダーフォーラムin 2007
 ―未来へつなぐ女性学、十人十色、「私」の30年をふり返る―
書いてつないで30年、『女性学年報』30号によせて


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■論文 要旨(掲載順)


■桂容子■
「フェミニズムと男女共同参画の間には、暗くて深い河がある」

思いのほか長い間、「男女共同参画」という領域で仕事をすることになった。仕事をしながら、どう考えても納得のできない矛盾に何度もつきあたった。が、まわりはその矛盾を気にしていないように見える…。私が間違っているんだろうか、私の感じ方がおかしいんだろうか、何度も自問した。一方で、ふと洩らす私の疑問には、同意してくれる人も結構いた。行政の人ですら、同意見であったりした。たぶん、みんな感じているのだろう。わかっているのだろう。でも、問題化されることはない。何か目に見えないバリアでもあるのか? 私は、そういう「暗黙の…」というものに疎い。空気も読めない。どうせKYで無謀なんだから、この際、言挙げしておこうと思った。
 内容は大きく分けて、行政現場で感じる矛盾と、男女共同参画センターに感じる矛盾である。どちらにも通底しているのが、フェミニズムとの距離の遠さである。顔は似ているが、中身は全く違う。むしろ、フェミニズムの隆盛によって、既存社会の秩序が揺るがされることのないように、行政が、程の良い、中産階級の女性向けのセンターをつくってきたのかと勘ぐりたくなるような出来映えであり、現状だ。
 バックラッシュばかりが「敵」であるかのような風潮が蔓延しているが、それほど、ここから先がバックラッシュ派だ、というような明確な線は引けない。確かに、明らかに名乗りを上げて看板を掲げて主張する人たちはいる。が、私には、そういう旗印のはっきりした集団よりも、フェミニストを装いながら、あるいは男女共同参画を推進する行政内部にいながら、既存の秩序に従順な人々の方が不気味だ。そういう人々が、なしくずしに、フェミニズムの成果を葬り去る役割を担う気がする。足下から、隣から、侵食は始まっている、という気がする。そういう人たちは、旗幟鮮明ではない。常に、状況を見て態度を決める。権力のある方につく。この人達によって、やがて、事態は転覆される日がくるのではないか。長年、男女共同参画センターは、うかうかしていると、反フェミの拠点になりかねないと危惧してきた。その色合いが、最近はとみに濃くなっているように思う。 
本稿では、そのことについての批判を「程よく」書いたつもりなのだが、あるいは、度が過ぎただろうか。今の私には判断がつかない。大きな権威や勢力に、非力で楯突くしんどさと怖さを味わいながらの作業だった。



■石河敦子■
「総合職経験を持つ大卒専業主婦にみる性別役割意識の変容」

総合職とは1986年の男女雇用機会均等法施行後に企業がとりいれはじめたコース別人事管理制度で設けられた昇進も昇給もある採用枠である。女性が総合職で採用されることは、男性と平等に働く機会が与えられ、男性なみの働き方が期待されることを意味する。高学歴女性は性別役割規範に否定的だといわれるが、実際には専業主婦になる大卒女性は多く、長期キャリア志向を持つことが期待される総合職女性さえ、専業主婦になる。こうした現象は女性たち自身の性別役割意識と関連があるのではないか。本研究では、大卒専業主婦の総合職志向と性別役割意識の関わりを問い直すべく、総合職を経験した大卒専業主婦を対象に、性別役割意識の変容を探った。
インタビューの結果、現在は性別役割規範に肯定的な大卒専業主婦たちが、大学時代に総合職を希望していたからといって性別役割規範には否定的であったとはいえないようだ。質問への抵抗感、記憶の矛盾や曖昧さを考え合わせると、性別役割規範に変容があったとは結論しがたい。出産・育児によるキャリアの中断はやむをえないとする向きもあり、総合職志向は必ずしも継続就業志向を意味しないことがわかる。では彼女たちは一概に腰掛けのつもりで就職したかといえばそうでもなく、大学時代、仕事も家庭もと考える両立志向であったことも明らかになった。彼女たちが専業主婦になったのは、できると思っていた両立ができなかったからだ。両立挫折の背景に彼女たち自身の性別役割規範があった。性別役割規範肯定の主観的根拠としては、育児が女性の仕事であるとの考え、夫が家事に不向きであるとの思い込み、自分より夫が外で働くほうが有利であるとの判断があげられる。社会や職場のジェンダー格差も離職を促した。とくに職場の性差別的慣行は社内での居心地を悪くしたし、会社の育児制度は使いにくく、社会的育児支援が十分ではなかった。
キャリア断念には、自身の価値を認められないなど現在の生活における不満と将来への不安が少なからず伴った。総合職経験にあって専業主婦に欠けるのは社会的評価である。こうした不満を抱える大卒専業主婦たちには、離職による人生的損失を埋めるためにも、社会活動や再就職活動により社会的評価を受ける場が必要だろう。



■木下直子■
「DV被害者支援をおこなう民間シェルターの課題 ―利用者からの異議申し立てを中心に―」

 DV被害者支援の現場では、「同じ女性として」被害者と痛みを分かち合い、連帯しようとする特徴があった。特に民間であれば、無償に近い状況であってもボランタリーな精神で取り組みが行なわれているため、シスターフッドは支援事業の推進力となってきたと考えられる。しかし近年、DV被害者支援を受けた当事者から、民間の支援者に対する異議申し立てがなされるようになった。「二次被害」が問題化されているのだ。それらに対して支援者側からの明確な応答はみられない。
 本稿では、異議申し立てをする新しい主張に対し支援者側からの応答が盛り上がらないのは、それらが「善意」の支援者を責めているよう映るため、支援者自身がとまどっていたり、受け止めきれなかったりしているのだと想定する。
 そこで、異議申し立ての声を伝えてくるものとして三本の論文を対象に絞り、議論を概観しつつ、要点を整理する。さらに、二〇〇七年に筆者が実施した「シェルター利用満足度調査」の結果も手がかりにすることで、サバイバーの想いを探る。これらにより、議論の活性化につなげることを目的とする。
 三本の論文からは重要な視点が提示されており、いずれも具体的な事例を挙げている点で説得力がある。しかし、論理展開の整合性に関して議論の余地のありそうな点や、さらなる実態調査が求められる側面も見られた。
 「シェルター利用満足度調査」は小規模な調査ではあるが、利用者に歓迎されていること、違和感を持たれた出来事など双方がわずかに見えてきた。支援が決して「二次被害」を起こすばかりではないことが再度確認できたともいえる。支援という事業の枠組みを超えたところでの感情の触れ合いも捉えることができた。
 とはいえ支援-被支援の関係性には、どうしても権力関係が生じる。積極的な是正のための一つの打開策として、民間シェルターのネットワークによる苦情処理制度の構築を提案したい。支援者たちは日々多忙な業務を抱えているが、異議申し立ての声を集約し、反論も含め、応答する必要があるだろう。それらに真摯に向き合うことは、より対等な関係性を探る上で重要になってくるだろう。
 すべてのサバイバーの声を聴き届けることは困難であっても、すでに出ている意見と向き合い、痛みを想像し、議論が継続されることを願う。



■石井香里■
「レズビアンのパッシング実践の可能性について」

レズビアンのパッシングとは、レズビアンが異性愛者のふりをすることを指す。全てのレズビアンがパッシングという行為を経験するにもかかわらず、パッシングは単に後ろ向きであるとか、「本当の」レズビアンならばしない行為であると考えられてきた。果たしてレズビアンのパッシングとは本当にそれだけの行為なのだろうかという疑問が本稿の出発点である。パッシングという言葉は決して一般に馴染のある用語ではないので、始めにパッシングの概念と機能について整理した。次に、レズビアン解放運動がカミングアウトを解放戦略の主要な戦略として採用しているために、「隠す」行為であるパッシングはレズビアンの可視化を妨げる行為として考えられてきたことを確認した。
ところで、レズビアンのパッシングの概念定義には諸定義あり、レズビアンのパッシングは複雑な現象である。そしてその実践に対する解釈もまた否定的なもののあれば肯定的なものがある。心理学的な研究においては嘘をつくことからくる罪悪感やストレスが指摘されてきた。また。レズビアンの運動家であるアドリエンヌ・リッチは、レズビアンのパッシングをレズビアン連続体の可能性を破壊する行為であるとして糾弾した。本論ではシェリー・イネスのパッシングに対する前向きな見解に着目し、そこからレズビアンのパッシングの肯定的側面について検討した。パッシングは時に身を守り、公に晒せば破壊されてしまうかもしれない性的なアイデンティティを存続可能にすると考えられる。
パッシングという行為を考察することによって、一枚岩的なレズビアン・アイデンティティは、その流動性と社会構築性が認識されることを指摘した。その上で、同性愛者が可視化した社会において、レズビアンという地に安住することなく、敢えて用語の誤用を促す確信的なパッシング実践こそが、これまで問題視されてこなかった異性愛に目を向けさせることができると考えた。以上のように、レズビアンのパッシング実践には秘められた変革の可能性があるとして論を閉じた。



■木村尚子■
「「産ませること」から「選択的に産ませること」へ ―1950年代の受胎調節普及事業・家族計画運動における助産婦への期待―」

子どもを「つくる」とすれば数少なく計画的につくりその子をより良く育てたいという願望は、子どもの将来を願う親、とりわけ母親の愛情や責任から生じる当然の帰結と考えられている。日本でのこのような子どもの質への関心が大衆化し幸福な家族像が平準化するのは、1950年代から60年代にかけてであり、その中で幸福な家族の実現と管理とが女性の役割とされるようになる。本稿は、この時代から現代につながる女性役割の定着と生殖のあり方、そして子どもの質への観点に大きく影響を与えた1950年代の受胎調節普及事業と家族計画運動に着目し、受胎調節指導員としてその運動の推進を担った助産婦に対しどのような期待がされていたのかを考察する。
中心的な史料は月刊誌『助産婦雑誌』や日本産婆会機関誌などで、中でも『助産婦雑誌』は、行政関係者や産科医、助産婦などの執筆者が助産婦の資質向上のための最新の知識を与えることを目的としている。明治期以降その職業的基調を「産ませること」に置いた産婆・助産婦の多くが、戦後の第一次ベビーブームと呼ばれる繁忙期の後は厳しい現実に直面し、生業維持に困窮する助産婦の悲痛な声が多数寄せられる。これに対し行政関係者や産科医、一部の助産婦からは「母性保護」を掲げる政策に身を呈するよう説得が続く。助産婦の苦境が、政策側にとっては安価で即戦的な労働力として運動に動員する好機であったことがわかる。さらに助産婦には、避妊や人工妊娠中絶など「産ませないこと」をもその職域とし、「不良な子孫」の出生排除、すなわち「選択的に産ませること」が期待された。史料には、これに積極的に応じて優生手術対象者の発見に協力する助産婦の手記が見られる。このような助産婦が抱く質への観点とそれにもとづいた選別は、運動の拡大とともに大衆化する。そこで重視されたのは、性の二分化の強調とその役割徹底によって実現する「幸福な家族」の姿であり、その実現のために身体をとおして役割を果たす女性であった。
この時期の一連の運動によって産む/産まないという選択を女性が自覚的に行うようになり、同時にその選択は子どもの質への観点を伴って戦後の新たな秩序としての家族と男女の役割を意味づけた。これは、日本の人口の質と量に関する政策課題が幸福な家族像として個々の生活に浸透し、生殖とその結果としての子どもの質と量への管理が具現化した過程である。1950年代の助産婦への期待は、このような性別役割の徹底と生殖のあり方の平準化を先導し、社会を補完する家族を形成することにあった。



■山家悠平■
「遊廓のなかの女性たちがみた「近代」―1920年代の新聞記事を中心に―」

一九二六年八月八日の『大阪朝日新聞』には「東京まで走った娼妓廃業/広島に舞戻って」という短い見出しがある。新聞が伝えるのは、二十代後半のふたりの娼妓が広島の遊廓を飛び出し、夜行列車で上京して警視庁に廃業を訴えた、という出来事である。しかし、そのシンプルな「事実」のまわりに、どれだけ語られていない歴史的条件がひそんでいるだろうか。広島の娼妓たちは、だれと話し合って、どんな展望を持って、遊廓から飛び出すことを決めたのだろうか。実のところ、いままでの女性史研究はその問いにはっきりと答えることができなかった。それは研究者たちが事実の究明に不誠実であったということではなくて、そもそも娼妓たちがどのように自分たちの状況をとらえていたのか、という問いがなかったのだ。「後悔したときは時おそく、二度と通常社会に戻れない。なぜなら男の社会は彼女たちの存在を咎めず、存分に利用しながら、しかも自分たちとおなじ人間であることを認めようとしないからである」という『明治女性史』における村上信彦の記述に代表されるように、売春をして生きるということの困難があまりに「自明」であったからである。その悲惨な売春のイメージを大きなフレームとして、これまで遊廓のなかの女性たちの生活史は常に特殊な歴史として、ほかの女性たちの状況から切り離されたものとして記述されてきた。しかし、もし別々のものとして語られてきた歴史を、「近代」という共通の文脈に置きなおしてみたら何が見えてくるだろうか。必要なのは、女優に憧れて汽車に飛び乗った酌婦たちの経験を、あるいは東京の貧民街をさまよった金子ふみ子のまなざしを、遊廓のなかに生きる女性たちの視線や言葉と重ね合わせていくような作業である。この論文では、遊廓のなかの女性たちがみた「近代」を、かの女たちの言葉や行動のなかに、そしてかの女たちと同時代を生きたさまざまな女性たちの視線が交差する場所にさぐりたい。



年報に関するお問い合わせや、投稿のお申し込みは
『女性学年報』編集委員会 joseigakunenpo@gmail.com


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 〓〓 お申し込みはオフィス・オルタナティブ06-6945-5160へ       〓〓
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『女性学年報』30号 11月末発行!

2009年11月15日 | Weblog
『女性学年報』は今年、晴れて30号をむかえます。

もちろん本年も山あり、谷あり。
最終校正が終わり、いよいよ月末に発行になります。

今号の投稿論文はもちろんのこと、研究会30周年記念の報告や『女性学年報』をめぐるみなさんのエッセーは、編集していても本当に楽しく、そしてちょっと泣けて、なにげに力づけられたりして。

ぜひぜひお楽しみに~!




印刷所で表紙の写真撮ってくればよかった~。

とても優しく元気な色なので表紙もお楽しみに~!
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澁谷知美『平成オトコ塾 ─悩める男子のための全6章』筑摩書房双書ZERO

2009年10月17日 | Weblog
澁谷知美さんからご著書をお送りいただきました!
ありがとうございます。


この本について伺ったのは、F美で着物展をしていたとき…(冬)。
相変わらず鋭く切り込んでられるわ~。

わたしは女子も男子もおだてる方向のものが大好物(淳一ほか)なので、お話を伺うのがとっても楽しい。
そして恐い。

ただ、澁谷さんの、切り込んだ後に「でも大丈夫だよ、ホラ」って手を差し伸べるのと、わたしが好きな「きれいなことばっかり言ってるけど、本心はちょっとどうなのかしらね?」みたいなことを言うのと、どちらがどうでしょうか。


それにしても、澁谷さんはやっぱりすごいというのと、時間がたつのは早いというのと、筑摩書房の厚紙の封筒もカッコよかったです!!
(かつての企業封筒コレクター)



夏に日本学で、こっそり読書会をしていたときに、さんざんぱら宣伝した今回の本。
授業でも、もちろん紹介します♪


澁谷さんにいつ会えるかしら。
サイン下さいね。




* * * * *

双書Zero
平成オトコ塾―悩める男子のための全6章

澁谷 知美【著】
筑摩書房 (2009/09/25 出版)

713p / 19cm / B6判
ISBN: 9784480878083
NDC分類: 367



平成男子の恋愛から結婚、非モテまで、知られざる包茎手術の真実から、風俗店利用の是非まで。
オジサン的「男らしさ」とは違う、新しい視点から提案する、平成男子の「生き方」本。


第1章 その「男の友情」は役に立つか?
第2章 「僕がキミを守る!」と思ってる?
第3章 非モテはいかにして生きていくべきか
第4章 暴力はなぜ、いけないか
第5章 包茎手術はすべきか否か
第6章 性風俗に行ってはダメか

恋愛から結婚まで、包茎手術の真実から風俗店利用の是非まで。
男を縛る思い込みから自由になり、共に気持ちよく生きるための提案集。



(紀伊國屋書店さんのHPより)




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美しく生きる 中原淳一展 愛する心 大丸ミュージアムKOBE 

2009年09月23日 | Weblog
大好きな淳一先生の展覧会に行ってきました。

もう、何度目だろう。
河口湖も連れて行ってもらったし、同じものを何度も見ています。

でも、何度見ても、やっぱりステキ!!
とくに雑誌のレイアウトをされている原稿の、墨の感じ。
物語の挿絵の、気が遠くなるようなペン使い。
後期の人形作品が醸し出す雰囲気。


最終日の遅い時間に行ったので、バタバタとお客さんが入る会場でしたが、ある二人組の女性が「あと20分?この展覧会なら、10分で見れるわ」と言ったのを聞き、心の中で「ちょっと~~!10分で流し見るだけなの~~~!?」と叫んでしまいました。
ゆっくり見てほしいよ…


若い人やこっそりスケッチをする人もあったけど、淳一先生のかつてのファンだったような、年配の女性がほとんどでした。
もっとファン層広がればいいのに…。




* * * * *




美しく生きる
中原淳一展
愛する心


大丸ミュージアムKOBE

2009年9月9日(水)→23日(水・祝)

●会期中無休

【入場時間】
午前10時→午後7時30分(午後8時閉場)
※最終日は午後4時30分まで(午後5時閉場)


●主催:NHKサービスセンター、毎日新聞社
●特別協力:中原淳一 25to30プロジェクト
●協力:ひまわりや
●監修:中原蒼二
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平成21年度大阪府公文書館アーカイブズ・フェア

2009年09月04日 | Weblog
大阪府公文書館さんより、21年度のアーカイブズ・フェア講師を務める機会をいただきました。
一昨年に「ジーパン論争」でお邪魔し、質疑応答ではいろいろな角度からの服装にまつわるお話を聞けました。

今年は9月9日~23日まで神戸大丸で中原淳一展もあることなので、ここは、ぎゅうっと淳一先生に迫ってみたいと思います。
熱狂的にこっそりと、有り金をはたいて資料を集めていたので、豊富(!)な資料を用いて報告をしたいと思います。

淳一先生を好きなことなら、誰にも負けません!
(いや、お姉さまには負けるかもしれん)




大阪府公文書館
アーカイブズ・フェア
http://www.pref.osaka.jp/annai/moyo/detail.php?recid=5395







* * * * *



平成21年度大阪府公文書館アーカイブズ・フェアのお知らせ

【特別講座 第5回】
◎テーマ
「中原淳一の女性像
―『美しい』女性とは何なのか」
◎と き・講 師
 講座番号 E 平成21年11月10日(火)
午後2時から午後3時30分まで
【講 師】 小山 有子(こやま ゆうこ)氏
【紹 介】 文学博士(大阪大学)。大阪大学非常勤講師。最近の著書に「和服改良論と『女性美』―明治後期の女性の服装とその規範性をめぐって」(荻野美穂著『日本学叢書2 〈性〉の分割線』青弓社、2009年1月)があります。
【講座の概要】
  中原淳一(1909~83年)は、昭和戦前戦後において、抒情画家や雑誌編集者・人形作家として活躍し、多くの女性たちの人気を博しました。現在においてもなお、熱い支持を受けていると言えます。ただ、現在においては、彼の描くところの女性像を、永遠に美しい女性・・・女性が希求すべき“普遍的”なものとする見方が目立ちます。果たしてそうでしょうか。今回は雑誌『それいゆ』や『ひまわり』の記事と、社会の動きとを連動させながら、淳一の画き出す女性像について考えたいと思います。






あっ、なんかもうひとつ、知ってる名前が入ってるんじゃない??





* * * * *



追記(2009.12.25)


大阪府の文化行政縮小のなかで、公文書館もまた縮小・廃止の方向を余儀なくされているとのことです。
本当にそれでいいのかと、非常に案じています。

この問題は、あとでまた記事にします。


大阪の公文書館問題を考える
http://wiki.livedoor.jp/archives_osk/
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2009夏・卒業旅行

2009年09月03日 | Weblog
伊勢丹前の恋愛の神様に、邪悪なお祈りをしている2009年晩夏。
お線香とろうそくと、そして赤いばらを捧げるのです。
ステキでしょう!!

せっかく行くのだから平松先生にお会いしたかったけど、出発日当日まで〆切に追われていて連絡できず…無念です。

でもまたすぐ行く!
エラワンプームにも卒業できたことを伝えにお参りしましたが、次のお礼参り、早くしたいな(心から)。



この写真は同行の美女に撮影してもらいました。


もうひとり邪悪なお祈りしているのも映り込んでいるわ~。
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