不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

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2012-05-02 19:04:04 | Tweet Log



Fortezza da Basso

2012-05-02 06:57:16 | アート・文化
フィレンツェの中央駅の北側にある
Fortezza da Basso(バッソ要塞)は
正式な名称はFortezza di San Giovanni Battista。
1300年代の城壁を利用して作られた巨大な要塞です。
現在は見本市やイベントの会場として利用されるだけで
イベントのないときには一般の入場は規制されています。

フィレンツェの芸術修復といえば真っ先に名前の挙がる
Opificio ddelle pietre dure(貴石博物館)の
修復工房の一部もこの敷地内に置かれています。

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メディチ家から初のトスカーナ大公を名乗った
Alessandro de' Medici(アレッサンドロ・デ・メディチ)が
1534年に命じて建設させたため、
当初はCastello Alessandria
(アレッサンドロ城)とも呼ばれていました。
Pier Francesco da Viterbo
(ピエル・フランチェスコ・ダ・ヴィテルボ)と
Antonio da Sangallo
(アントニオ・ダ・サンガッロ)が手がけています。

1527年のフィレンツェ掠奪を受けて
一時的に避難したメディチ家がフィレンツェに戻り、
政権を取り戻し統制を行うために建設されたもので
五角形の巨大な要塞は急ピッチで仕上げられました。
緊急時の軍隊配備用に
もしくはメディチ家など支配者の避難場所として
作られたのはもちろんですが、
その威圧感のある様相でフィレンツェ市民を圧迫し
政権に対する反乱を防ごうとした目的もあります。
実際、サンガッロが手がけた市内側は
偉容を示すような作りになっており、
また市民蜂起が起きたときに
市内に向けて発砲&攻撃のできるように
銃窓が市内に向けられています。

メディチ家からロレーナ家に政権が移っても
敷地内に、より使いやすい建物を増築するなどしながら
要塞として利用され、
やがてイタリアが統一され、
フィレンツェが一時的に首都となったときに
周辺の1300年代の城壁は取り壊され、
要塞だけが残る形となりました。
このときに要塞を囲んでいた堀も大部分が埋め立てられています。

銃撃などの衝撃を良く吸収するとされる
安価なレンガが多く使われていますが、
市内に向けた塔部分には
メディチ・リッカルディ宮殿やピッティ宮殿に使われている
Pietro Forte(ピエトラ・フォルテ)が使われています。
また市内側の壁にはメディチ家の紋章にも使われている
丸薬とダイヤモンドをモチーフにした装飾が施されています。


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