Strawberry Sunday♪

楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、日々徒然・・・。

研修にて。

2005-02-10 00:59:41 | 保育 教育 
5歳児の研修で。

その日は発表会の全通しが研修内容だったが、時間がなかなかとれず部分的な遊びを講師に見て頂くことになった。
5歳児は一年間お百姓さんになって遊ぶ。本当のお百姓さんがするように、田んぼを作り、畑で野菜を作り、それらを収穫する。そして本当のお百姓さんがするように、収穫のお祝いや、お祭りもするのだ。一年を通してお百姓さんとして生活し、(もちろんすべてごっこ遊びとして展開されるが)作物を育てることによって命の尊さ、小さな生物への愛情などを学んでいくのだ。

発表会は、そうやって一年間やってきたお百姓さんの仕事をごっこ遊びで再現するというものなのだ。体験の再現。これは実際やってきたことだから当然できるはず、と思うのは大間違いで、そこが子どもの面白くて凄いところなのだが、実際畑を目の前にし、田んぼを目の前にしたら何度でも繰り返してできるだろう。だけどいざやるのは舞台。木の床の上なのだ。
その場合、しっかりイメージを呼び起こし、かつ子ども達は「その気」にならないと動かない。
実際研修の場でもそうだった。
担任が前やったはずの田植えの話をする。「どこそこの田んぼで稲植えたねー。稲の赤ちゃんなんだっけ」「なえー」「そう苗を植えたよね、何本ずつ植えたっけ」「3本!」
子ども達はよく覚えている。実際田植えをやったから。
一通り話をし、「じゃあここの田んぼ(ホールの床ね)にも苗を植えてみようか。できる?」「うん。できる」
音楽が鳴る。
ところがっ、こどもが全然動かない。
手には自分たちがいろんな材料を使って作った「苗」を持っているのだが誰一人棒立ちで動こうとしないのだ。
焦る担任。「苗、このまえ植えたよね。覚えてるよね」「うん」
しかし、動かないのだ。いや、動けないのだ。
持った苗を3本に分けようとして手を動かしている子ども達。分けられるわけない、作り物なんだから。
子ども達の中で、田植えがリアルになってしまっていたのだった。
だから「木の床」には苗を植えることができないのだ。
ここが大人と子どもとの違い。子どもは演技をすることができないのだ。(芝居とはまた別の意味で使ってます。念のため)

この場合、何がまずかったかというと最初の担任の話。(私たちは導入と呼んでいるが)
一番最初に遊びを子どもに降ろすときのお話がその日の遊びの命運を分けるのだ。最初の話でいかに子ども達を「その気」にさせるか。一番力量が問われるのが、実は最初のお話なのだ。
誘いかけでも創作童話でもなんでもいいのだ。子どもがイメージを起こし、その気になりさえすれば。
研修生が入れ替わり立ち替わりお話をし直す。しかーし動かない。
子どもには申し訳ないのだが、研修生にとってはすごい勉強の場だったと思う。
(あ、その日は私は特別に見学させてもらってたのだ←ホントは一歳児担任だから)

普段日々ではこんなことはない。きっとあの手この手を使って「やらせ」ているのだろう。
当然「やらせ」の意識は担任にはない。子ども達が自主的に、その気になって遊んでいる、と思ってやっているのだと思う。しかし、こういう場で子ども達が動けないということは、普段の遊びがあきらかに担任の「やらせ保育」になっているということなのだ。だから、指示がないと子ども達は動けないのだ。
厳しい。「やらせ」ているのか「その気」になって遊んでいるのかの見極めも。
それに自分の毎日の保育のあり方が、研修という場であからさまに出る。隠しようがないのだ。

長いので続く(T.T)



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