Strawberry Sunday♪

楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、日々徒然・・・。

前向きな自分

2005-05-27 03:07:05 | Weblog
よく相談される。

べつに改まって相談にのるわけではない。

気がついたら

え?相談されてる? ってことが多い。

そして最後になって相手が言う。

「いつも元気いっぱいで前向きだね。ありがとう」


リアルでもネットでも言われる。同じように。

そういわれてこっちの方が勇気づけられる。

元気がでてくる。



人がみた自分が本当の自分なのか

自覚している自分が本当の自分なのか

なんだかよくわからない。

でも自分が望んでいる姿が 本当の自分になるのなら

それが一番なのだろうな。




産まれました

2005-05-26 14:39:05 | Weblog
今朝、姪誕生w

姪の入院している産婦人科はケータイがオッケーらしく、すぐに画像付きメールが送られてきた。

今の赤ちゃんって顔がキレイだなぁ。
つるつるしてるもん。

娘のときも似たようなこと言われたけれど。

とにかく無事に産まれてきてくれて本当によかった。
命の誕生というのは、それだけで素晴らしい。
周り中を幸せにしてくれる。

姪の人生は始まったばかり。
毎日がいつも輝いていますように。

あ~~~帰りたいよー。
会いに行きたいよー。
帰れるとしても冬・・・。
産まれたばっかりの頃を見逃してしまうのがとてもとても残念だ。
写真だけじゃ欲求不満だーーー。


こっそり夏帰ろうかなぁ・・・などと密かに計画練ったりしてw

産まれない

2005-05-24 11:33:08 | Weblog
妹が出産・・・のはずが、予定日を過ぎてから早一週間。
一度流産したため、子宮口を縛る手術をし9ヶ月目に入ってから糸をはずした。
そのため出産は早いだろうと誰もが思い、胎児も下がってきてたため本当は連休中にも産まれるかも とか思ってたのだ。
兄妹のこどもっていうのは初めてだから、私もものすごーーく楽しみにしていたのだ。

ところがっ

産まれなーーい。

連休中どころか本来の予定日も通り過ぎ、いったいいつになるんだぁぁぁと周り中がじりじりしている。
当初の期待が大きかったため本人も「いい加減にでてこいっ」と思っているようだ。

何事か起こっても連絡はいつも後回しにされる私。
もしかしてもう産まれてるんじゃないのかと妹の家に電話を入れた。

プルルルルーーーーー
お、コールが長いw もしかして留守?もしかして~~~w ((((o゜▽゜)o))) ワクワク♪

「はい ○○ですが。」いるじゃん。

・・・・・ガッカリ

「もしもしっ 私だけど、いつ産まれるんーー???」

といきなりの言葉。ゴメンね。
と、向こうも負けずに「そおおおおなんよ。もうホントマジで早く出てきてほしいよーー」
(●´・ω・`●)ハァー
診察によれば、下がっていたはずの胎児の頭がまた上がっているらしい。(なぜ?)
よっぽどお腹の中が心地良いんだろーなぁ。

「ねー お腹に向かって早くでておいでーーとか言ってみたら?」
「連休あけから毎日言い続けてるよ」
「・・・・そう」

なかなか強情な御仁らしい。
母曰く、「性格なんかも親をしのぐよ」
あーーだからでてこないんだよ。お腹にいるうちからこりゃ大変だねーとしだいに笑い話に。

とりあえず、来週の月曜まで待ってそれでも出てこない場合は陣痛促進剤を使うらしい。
子供も大きくなりすぎるから。
あーなんでもいいから健康に産まれてほしい。
今度こそ。

「私最近ずーっと出産の夢ばっかり見てるのに。陣痛がきた夢とか、破水した夢とか」
「・・・陣痛はいいけど、破水した夢って・・・それやめて」

あぁそこまで待ち望んでいるのだよ。
はやくでておいでーーw
ほんとに遠く離れていることがうらめしいなぁ・・・とちょっと思ったのだった。

さてさて、いったいいつになることやら。


怖いもの

2005-05-23 09:26:33 | Weblog
私の住んでいる地域は油田が多い。
町のあちこちで、大きな機械が毎日毎日休むことなく静かに動いている。

無機質な繰り返しの動きを見ていると
なんだか言いようのない不安と畏れがこみ上げてくる。
毎日の通り道なのだが近くに来ると、つい足早に通り過ぎてしまう。
できるだけ見ないようにして・・・。

とても大きな機械なのに音が静かなのだ。
黙々と動く。
もしかして生きているのでは。とか。
じーーっと黙って夜になるのを待っているのでは。とか。
よけいな想像を駆り立てるような姿。
無機質なものに生命の兆しを感じるとき、自分がおかしくなったのか、それともホントに生きているのかもしれないのか、一瞬混乱することがある。
だから普段は見ないように通り過ぎる。

今はずーっと稼働している。
でもこれが止まったとき、彼らは大きな首をもたげて初めて周りを見渡して、違う世界があることに気がつくかもしれない。
その瞬間が恐ろしい。





あ~本の読み過ぎか?
本と自分の世界がリンクする~~~~~~~~~(TmT)

どーにかしてくれ この影響受けやすい体質


納得

2005-05-20 15:19:14 | Weblog
あぁーーそうなんだよねぇ。
と気づかされることがある。

それは自分が結構いっぱいいっぱいのときなのだが、自分がどういう考え方で人とつきあっているのか、とか。
自分の今ある立場とか。
些細な言葉で改めてはっとさせられることがある。

「この前あなたはこういうことを言ってたんだけど、その通りだと思うよ」

∑(〃゜ o ゜〃) ハッ!!
私、そんなこと言ってたっけ・・・。
あ、言ってたな。

それを他の人から教えられる。
自分が言っておきながら情けないにも程があるのだが・・・。

そんな経験をするにつけ、私は人に話しながら自分自身に言っているんだと実感することが多い。
相手に伝えているつもりでも、
自分の中から考えや言葉を探し出し、形にしながらそれを自分に向かっても言っている。
相手に必要な言葉を、というよりもむしろそのときの自分に必要な言葉だったりするのだ。

だから時々相手からその言葉を返されたりして一瞬驚いたりする。
でも相手に向かって投げて、また返ってきた言葉はそれなりに重い。
自分からでた言葉だからだ。

そうやって気づかされながら生きていくんだなぁ。
やっぱり人は一人では生きていけないんだ。

他人と話すときは、まるで合わせ鏡の前で話しているようなものなのかもしれない。




不安定

2005-05-19 20:08:16 | Weblog
最近、友人に振り回されている。
まぁ、例の友人だが。

なんか言ってることが不安定だしその日その日で感情バラバラだし。
話聞いてて非常に疲れる。
私までその人に振り回されて自分が何を言ってるんだかわからなくなったりもする。

相手の心が千々に乱れている分、私が安定しとかないと、とか思うのだがなかなかうまくいかない。
(●´・ω・`●)ハァー

結構消耗するなぁ・・・。
せめて脈絡のある態度くらいとれよ~~~~~(TmT)。

時々、何もかもぜーーーんぶ切って捨ててしまいたい衝動に駆られる。
なんか、私って都合のいい人なのか?
あんまりこういうこと考えたくないんだけど
ちょっと屈折して、そんなことを思ったりするのだ。

わかってるんだけどねぇ。
そんなんじゃないってことはさ。

でも私だってそう出来た人間じゃない。
泥沼に落ちる一歩手前で踏みとどまってあがいていたりもするんだぞーーっ!!

そうそういつも安定してなんかいられるもんかっ。




と、ちょっと愚痴りたくなった。

闇と希望と

2005-05-18 14:36:13 | Weblog
ヤフーニュースに掲載されていたビートたけしのインタビュー記事の一文。

佳境はバイク事故に及んだ時だ。蓮實さんが「自殺願望があったのですか?」と聞くと、たけしは「記憶がない」とポツリ。「現場の血を見てぞっとした。『自殺したんだな』と思った。下手したらもう1回するような気がする」「一番のファンは一番足を引っ張ろうとする。その人が落ちていく様を見たがっているものだと事故の時に痛感した」。

この中の何が気になったかと言うと、最後の文章だ。
思い当たることがありすぎる。
立場は違えど、自称ファンと名乗る人間からひどい中傷を受け、傷ついている人を知っている。
「あなたのファンだからこそお知らせするのです」と言いつつ、立派な中傷だ。
この心理はなんだろう。
一番のファンなら、憧れの人が功績をあげ、幸せになることを望むものではないのだろうか。
その人が幸せなら自分も嬉しいと。
そう願うものだと思っていた。

屈折した愛情。

自分からどんどん遠くなっていくことが辛いのか。
好きだから、自分の側近くまで引きずりおろしたいのだろうか。

相手が落ちていく様を見てどうなる。
ぼろぼろの姿を見て、これで自分と同じ位置に来てくれたとほくそ笑むのだろうか。
そして共に落ちていくつもりなのだろうか。
好きなのに、近づきたいのにそれができない、そのいらだちや苦しみが狂気を生み闇を呼ぶ。


人の素晴らしさや、心の強さを感じることは多い。
でもそれと同時に闇もまた見えてしまう。
いったいどこまで続いているのかわからない深淵だ。

その二つはいつも紙一重のところにあるんだろうな。
いつ何時、どっちに転ぶかわからない、危ういものを誰でも持っている。

でも私は、相手を引きずりおろすのではなく、自分がそこまで昇って行きたい。
そうなってこそ憧れの人と対等になれるのだから。
常にそういう気持ちを忘れないで生きていきたい。

同じ「深淵」があるのなら。
闇ではなく希望の淵に立っていたい。





漫画を読んで考えたこと

2005-05-17 12:45:27 | Weblog
あまり漫画というものを読まない私が、一つ好きで読んでいるのがある。クラシック漫画と呼ばれるコメディータッチのかなり面白い作品なのだ。
その中で、バイオリンの天才の男の子がレッスンをしている場面がある。
その子はレッスン中に、家庭内のごたごたでの悩みや怒りを師匠にむけて思わずぶちまけてしまうのだ。
その後の師匠の言葉。
「もう今日は帰りなさい。」
男の子「え?」
師匠「なんか、すっきりしちゃったでしょう?」
そういって、師匠はその子を帰してしまう。
その場面を読んで気づいた。
芸術って、すっきりしちゃダメなんだ~~と。

悩んだり、苦しんだり、何か心の中で激しい葛藤がある。
その中から芸術は生まれてくるものなのか。
そういえば巨匠と言われる人たちはほとんどが苦悩を抱えていたような気がする。
画家なんてまさにそうだ。

私はお花を生けるけど、だいたい 気持ちが穏やかではないとき、あぁ今日はダメだっと思ってるときほどいい花が入る。
またそういうときは決まって生けるのに時間がかかるのだが。
ああでもない、こうでもないと花一輪をあっちやりこっちやり。
なにか悶々とした思いが花に投影されるのも不思議だし面白い。
でもそれでダメだしをされることは少ないのだ。
もちろん、穏やかでなければ入らない型もある。
役枝が決まっている生花などがそうだ。
でも自分の発想が求められる立花新風体や自由化などの場合は苦悩している時の方が意外な作品になったりするのだ。
そういえば、お花の世界でも、天才的と言われる先生方はだいたい繊細で傷つきやすい人が多い。
心の中にいつも葛藤を抱え、自分の弱さを見つめながらそれを作品で表現しているのかもしれない。

音楽でも絵画でも何でも、自分の中のわきあがる想いを込めてこそ作品が生きてくるものなのか。
喜びや怒り、悩み妬み、その他いろいろなものが混然となった心が
芸術を生み出す母親のようなものなのかもしれない。
すっきりと安定した場からは生み出されないのだ。

芸術家と呼ばれる人たちの足下になど及ぶはずもない私だが、その漫画の場面にはなにか納得させられるものがあった。



人の心の葛藤って凄まじい。

ほとんど狂気の世界に近いのじゃないのか。
そのどろどろぐちゃぐちゃの中から 転生するように何かが生み出されてくる。
まるで蓮の花だ。

なんてキレイなんだろうと思う。


そしてあらゆる混沌から生まれ変わったものが、他の誰かを癒しているのだ。

人って、そういう存在なんだよね~。


2005-05-14 19:20:37 | Weblog
チャットの話。

時々HNを変えてチャットルームに入って来る人がいる。
そして別人として参加している。

百歩ゆずってそれもまぁいいかなと思ったとして
理解できないのはその姿で暴言を吐くということ。

自分のことを知られたくないなら別の部屋に行けばいい。
あえて知っている人たちがいる所に別人として入り、暴言を吐き、いったい何がしたいのか。
まわりの反応を知りたいのか。
けれど成功することは稀だ。
常に気づかれる。
わかるのだ。常連なら。
それを知ってか知らずか、時々ふらりと入ってきている。


私は別HNで別人のふりをして入ってくる人を見ると
その人の中にある闇が見え隠れしているような気がしてなんだか空恐ろしい思いにかられる。
怒りよりも恐ろしい。

そして哀しい。

その人に巣くう闇なのか。
それともネットが生み出しているのか。
顔が見えないからこそ、そういうことができるというのは否めない。


ただのきまぐれ、いたずら気分であることを願っている。


桜の木

2005-05-12 01:51:44 | 保育 教育 
落雷で裂けてしまった桜の木。
桜の木には思いがある。
私がまだ現場にいた頃、5歳児の保育内容に桜の木がでてくるものがあった。
大きな大きな桜の木で、動物さんたちになりきっている子供たちはその木にいつも見守られながら毎日を楽しく遊んで過ごすのだ。
まぁそういった内容のお話をもとに遊びを展開していくのだが。

この桜の木ってのがまたすばらしいもので、強くたくましく堂々としていて、どんな自然の驚異にもゆるがない強い木という設定。
結局はきこりさんたちに切られてしまうのだがまた春にはみどりの小さな芽を出す。
そういう命の再生の意味もこめられたお話なのだ。

保育現場では仮想の木。
実際桜の木の周りで遊ぶけど、そこまで大きな木ってのは身近にはそうないのだ。
でも盛岡に住んでいたとき、まさにそのままのイメージの木にたくさん出会えた。
石割桜もそうだし、桜に限らず岩手公園にあるたくさんの大木も。
強烈な冬の寒さにも揺るがず、りん と、堂々とたっているのだ。

あぁーここに私たちの木があるじゃん!と感動したものだった。
こどもたちに見せたいなぁ、この木の周りで遊ばせたいなぁとつくづく思った。

どんなに厳しい冬でも、凍えそうな寒さがやってきても、雪に埋もれても、乗り越えて春には芽を出し、花を咲かせる。
落雷で半身を裂かれても、倒れずに立ち生き続ける。
そんな木の姿を子供たちに見せてやりたい。

余計な言葉なんか必要ないかもしれない。
この自然こそが保育現場なんだと心から思う。