Strawberry Sunday♪

楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、日々徒然・・・。

変身ごっこ

2005-02-27 02:28:40 | 保育 教育 
三歳児の保育で私たちは「変身ごっこ」というのをやる。
だいたいみんな思い当たるだろーけど、昔だとウルトラマン、仮面ライダーなど普通の人が変身してヒーローになるテレビ、あったし今もある。
変身ごっこしてヒーローになって遊んだ経験のない人を探す方が難しいよね。
そういう遊びが大好きで、一番盛り上がってやるのがこの年齢なのだ。
とくにその気になりやすく、第一反抗期まっただ中で攻撃的な年齢、三歳。だから「変身」っていうのは三歳児の発達に合った遊びとも言える。

んでなんで変身するのかというと・・・当たり前だが強くなるためなのだ。
でも、なんのために強くなるのかっていう動機付けが、単なる変身ごっことはかなり違う。
まさにテレビの中のヒーローばりに、動機があるのだ。
詳しく書いたら長くなりすぎるので(ってかいつも長いけど・・・)割愛するけど、三歳児には大事な架空のお友達の「お星様」がいる。架空っていってもちゃんと存在している。実際に保育士が創った「お星様」が。
子ども達はそのお星様を本当に命あるものとして感じ、ふれあい、親しみを持ち、愛情を持っている。大事な大事なみんなのお友達なのだ。

ところがそのお星様を奪い取りにくる輩がいる。有無を言わさず、理不尽に「もーらったー」と取りに来るのだ。(取りに来る役は保育士)
こどもたちはその輩に立ち向かう。大事なお星様を守るために。そして、もっともっと強くなって敵をやっつけるために変身するのだ。
(そういう設定の保育なんです・・・)
早い話が劇ごっこ。
それをもう真剣に、その気になってやってるだけなのだ。

三歳児って丁度反抗期で、攻撃性というものが出てくる年齢だ。それは子どもヤクザと呼ばれるようにとても激しい。お友達や親、保育士、誰彼構わず反抗する。叩くし蹴るし、暴れる。
それは発達していくなかで必ず通り過ぎる過程でもあるのだが、激しすぎるゆえに押さえ込まれてしまう。それを無理に押さえ込まず、円満に思いっきり外に出させてあげることが今後の自立につながっていくのだ。またそれが出せない弱い子どももいる。そういう子は敢えて攻撃性が出るように促してやらないといけない。それが全ての子どもの発達を押さえるということなのだ。
そのために、大事なお星様を奪う敵、という存在をつくっている。
(私たちはそいつを「かいじゅう」と呼んでいる ハハハ)

かいじゅうに負けないように、もっともっと強くならないといけないという流れで変身ごっこがはじまる。
ここでまた大事なポイント。
話は変わるけどこの年齢、偏食がもっとも多い年齢でもある。
ちょうど味覚が発達して、これ好き、これキライといった感覚がわかるようになってきているのだ。だから偏食が極端に多くなる。
面白いことに、変身の内容、偏食変身なのだ。
「○○を食べて強くなるぞ!」という変身。
基本的には何を食べて強くなっても可。ケーキとかジュースとかいう子もいる。
それでもいいのだ。
だいたい好きな物を食べた方が強くなれそうな気もするというものだろう。
そのうち、いや、キライなものだって食べてやる!といった気持ちになってくるのだ。そして強くなってかいじゅうをやっつけてやる・・・とこうなる。

ホントにその気になって変身してるから、そのあと給食で嫌いなものがでても、なんと食べれてしまうのだ。しかも自信たっぷりにいばって食べている・・・・
いやホントに。
こどもってスゴイと思うときがこの時。
そして、これが変身ごっこという遊びの目的の一つでもあるのだ。

嫌いなものを食べて克服し、今よりもっと強くなる
そのとおりのことが起こってしまうのだ。


・・・長い・・・次にまわします(T.T)。





赤ちゃん返り

2005-02-25 20:11:11 | 保育 教育 
私が受け持っているクラスは、お兄ちゃん、お姉ちゃんになる子が比較的多い。
なーんかこの頃調子悪いなぁ、この子。とか思ってたら後日「二人目ができたんですよ~w」との報告がある・・・なんてことがよくある。
お母さんも気づかないうちに、子どもの方が察知しているってこともよくある。
その辺の子ども独特の感受性っていつも不思議だなって思うのだ。

まず、泣く。
しかも、うわぁぁぁぁんとかいうダイナミックな泣き方をしない。
ぐずぐずぐずぐずぐじぐじぐじぐじ・・・と実にじとーーっと泣くのだ。
出来てたことをしない。
この年齢は、おしっこを言うとか、パンツをはくとか、ズボンをはくとかだが。
そして遊びに入らない。
一人で孤独に浸っているかのごとく隅っこにいじいじといるのだ。(でもかまって欲しいビームが体中から出てるけど)
これがすべての状態じゃないけれど、だいたいうちのクラスの子の赤ちゃん返りはこういう感じだ。
中にはまったくそんな素振りを見せない子もいる。
Kちゃんがそうだった。
お母さんが産み月に入ってから、今まで8時半頃の登園だったのが、いきなりの7時半登園になった。お母さんと来れないから、お父さんの出勤に会わせて登園してくるのだ。
そしてお父さんの仕事が終わる6時にお迎え。(トータルで10時間半園にいることになる)
それは赤ちゃんが生まれた後、今でもずーっと続いているのだが。
それでも目立った赤ちゃん返りはみられなかった。
ちょっと気になったので、ノートに「出産おめでとうございます。Kちゃんもお姉ちゃんですね。でも赤ちゃん返りが出てくるかもしれませんので、その時はしっかり受けとめてあげてくださいねw」みたいなことをさりげなく書いておいた。お母さんの返事・・・「幸い、そんな様子は見られず、赤ちゃんをとってもかわいがってくれてます。いいお姉ちゃんです。」
・・・そーかぁ いいお姉ちゃんやってるのかぁ・・・。
一歳です。
んなはずねーだろっ!
と思いつつ様子を見ていた。
そして今日。
朝から始まりました。
泣く泣く泣く泣く・・・。カバンの中に靴下をしまおうとしてファスナーが開かないといって泣く。お友達が近くによってきただけで泣く。私の膝に他の子が座ったのを見て泣く。
「今日はKちゃん変だねぇ・・・」と他の先生とも話していた。
抱っこしてあげたら泣きやむのだが、落ち着いたかなと思って降ろそうとするとまた泣く。
トイレにもいかない。
「(あーぁ)今日はKちゃん赤ちゃん?」って聞いたら「ウン」
「そうかぁ じゃあ今日はオムツかえてあげようね」
そやって寝かせて紙オムツを替えてやる。
Kちゃんね、いつもは何をするにも「自分でぇ~~(やる)」と言って手を出させてくれないのだ。そんなKちゃんが、今日はごろんと寝転がってされるがままになっていた。
これがホントの姿なんだよな・・・
きっとママの前でやりたいことなんだよな・・・。
その後はおんぶ。
おんぶひもを使って本当の赤ちゃんのようにおんぶしてあげた。
Kちゃん、おんぶされたまま眠ってしまった。

赤ちゃん返りの子のフォローの仕方、きっといろんな方法があると思う。
けど私はKちゃんの言葉にならない悲痛な心の叫びを聞いたとき、こうやって赤ちゃんにしてあげることしかできなかった。
甘えたい甘えたい甘えたいと全身で訴えてきているのだ。親に甘えられないから保育士に甘えるのだ。この心を受けとめてあげるのに他にどんな方法があるだろう。
子どもって親が思ってるより、ずーっとガマンしてる。一日10時間以上も保育園にいながら、文句の一つも言わず、お迎えにきたお母さんの顔を見て満面の笑顔で走っていく。
下の子が生まれたっていいお姉ちゃん、お兄ちゃんでいようとする子だっている。
確かに。
お仕事があるから保育園に預けているのはわかる。でも幼い子どもが、従容としてそれを受け入れるには、あまりにも心の負担が大きいということにも気づいてほしい。
子育て中のお母さんに精神的なダメージを与えないように、といま色々なケアの方法が考えられているけれど、その変わりに子どもがダメージを与えられていることもあるのだ。

Kちゃん、目が覚めるとニコニコしながらお布団から出てきた。
ゴハンも沢山食べて、機嫌も良かった。少しは落ち着いたかな?


お母さん、お父さん、そして教育に携わるいろんな方々。

何が一番大事ですか?

私は最近、マジでそう問いたい。

子どもの見方、親の見方

2005-02-22 04:14:19 | 保育 教育 
毎朝お母さんと登園してくるYちゃん。
イトコと二人で入園してきて2ヶ月になる。
ガラッと戸を開けてトコトコ元気に登園。なんと手にはひなあられの袋を持っている。
あぁ・・・節分も終わったし、おひなさまの時期かぁ・・・って違うんだよっ。
思わず絶句。どうするんだそれ。
親は全然悪気はない。朝食べてたからそのまま持たせてるのだろう。部屋に入っても、それを取り上げる気配もなし。そのままノートと、コップとエプロンが入った袋を所定の場所に置くとさっさと帰っていってしまった。

当然お菓子を持ったYちゃんの周りに他の子が群がる。
その場に座るYちゃん。
どうするだろうと見ていたら、周りの子が「ちょうだい」って出した手の上にひなあられをひとつずつ配ってあげたのだ。
ひとつずつだから口に入れたら終わりだ。すぐ食べちゃうので次から次へと「ちょうだい」って手がでる。
けれどYちゃんはそんなお友達の手の上にやっぱり一つずつ置いてあげていた。
合間隙間に自分の口にも入れながら(笑)。
保育園にお菓子を持ってくるってのはやめてほしい事だけど、Yちゃんの別の面が見られたからまぁいいか・・・と内心苦笑しながらみていたのだった。

お友達に分けてあげるっていう行為はなかなか難しい。だって目の前にあるものは全て私物化してしまうのがこの年齢。
人が持ってるものが欲しい。それを根気強く「これは○○ちゃんのだからね」と教えていく。ひたすら言い続けることによって次第に、年齢と共に理解していく。
もちろんそういう子が全てじゃない。Yちゃんのようにすんなりお友達に分けてあげることができる子だっているのだ。それは常日頃、親が「はい、これは○○ちゃんにもあげようね」とか、「ママにもちょうだいね」とかそうやって普段から分けることが当たり前って生活習慣だからなのかもしれない。それは大きい。

とにかく、Yちゃんは普段でも2つ物があれば、必ず1つイトコにあげるという行為を普通にする、やさしい子なのだ。
実はYちゃんとそのイトコは、この園に来る前、別のところに通っていた。
そこの園長先生曰く、すっごく問題のあるお子さんだったらしい。(一歳児で何の問題があるんだ・・・)また親もちょっとした事ですぐに苦情を言いに来るようなやっかいな親。
そういうお墨付きで、いわば熨斗をつけて送り出されたわけだ。
そんな話を聞いてたから、まぁ心配ではあったのだ。「いったいどういう子でどういう親なんだろ」って確かに思ってた。

でも、フタをあけてみると・・・・。
「お友達を叩いたり、噛みついたりします」・・・それって、Yちゃんだけじゃないし。一歳児は日常茶飯事だ。それにそこまで言うほどひどくはない。むしろ明るいし、楽しそうに遊ぶし、活発だ。いいとこばっかじゃないかっ。
「親も文句言ってきます」・・・最初はお友達のタオルが間違えて入ってたりするとノートに「こういうことがないよう気を付けてください。洗濯しようかと思いましたがしないで返します」とか切り口上で書いてあった。けれど新しい所で不安だろうし、ピリピリしてるのかもと思い極力話しかけるようにし、ノートにもYちゃんの良いところばかりを見つけて書いたりしてたら、ある日また間違い事件が起こったとき。
「お友達のタオル、入ってました。洗濯しています」
文句も言わず、洗濯までしてくれてるよっ。ありがとうっw

すべては関わり方なのだと思った。
見方なのだと思った。

前の園の先生、どういう関わり方をしたのかわからないけど、Yちゃんの良いところを見ていたのだろうか。探していたのだろうか。
Yちゃんの、みんなにお菓子を分けてあげるような優しいところに気づいていたのだろうか。
また、若い若いお母さんの不安や心配をわかろうとしていたのだろうか。

今ではお母さんも(タメ口だが・・・汗)どんどん話しかけてくるようになった。
入園当初「ええ~ぬいぐるみとかいるの??」と嫌そうにしていたけれど「キットを買ってぬいぐるみ、頑張ります」とノートに書いてきた。

子どもだけじゃないんだよね。親もどうかしたら子どもみたいに感じることもある。
「我が子だけを見て欲しい、我が子だけに関わってほしい」
世の中の親はまあ、みんなだいたいそうなのだろうけど。私も含めて。
でもその気持ちが強く、思い余って攻撃的になるお母さん。そういう人は自分が注目されたいのだ。自分が関わってもらいたいのだ。
子どもと同化してしまってて自分の子がちょっとでもケガをすると、まるで自分がされたかのように心がキツイのだ。
早い話が愛情不足。
「こどもを愛して」と言いながら「私を愛して」と訴えている。

さみしい親が多い。
さみしい子どもが多い。

それを「文句をいってくるやっかいな親」「わがままな子ども」と切ってしまうのは簡単だけどそれじゃ永遠に信頼関係は生まれないよね。
視点を変えて考えてみるって大事なことだ。

子どもとともに親も育てる・・・それが保育士の役目の1つなのだろう。
難しいことだけど。
でもともに育っていきたいと思う。保育士も一緒に。












どの子も子どもは星

2005-02-17 18:53:29 | 読書 
どの子も子どもは星
               東井義雄

どの子も子どもは星
みんな
 それぞれが
 それぞれの 
 光をいただいて
 まばたきしている
 ぼくの光を見てくださいと
 まばたきしている
 わたしの光も見てくださいと
 まばたきしている
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
 光を見てもらえないと
 子どもの星は光を消す
 まばたきをやめる
 まばたきを
 やめてしまおうと
 しはじめている星はないか
 光を消してしまおうと
 しはじめている星はないか
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
 そして 
 やんちゃ者からは
 やんちゃ者の光
 おとなしい子からは
 おとなしい子の光
 気のはやい子からは
 気のはやい子の光
 ゆっくりやさんからは
 ゆっくりやさんの光
 男の子からは
 男の子の光
 女の子からは
 女の子の光
天いっぱいに
子どもの星を
かがやかせよう


これは保育事業大会のときにどなたかが紹介してくれた詩。
とてもとても
素晴らしい詩なので
載せます。

子ども、様々。

2005-02-16 20:34:59 | 保育 教育 
いろんな子がいる。
一見寡黙でおとなしそうだがめちゃくちゃ気が強い子。
部屋に入るなりまるでエンジン全開・・・ひたすら走り回る子。
だだだーーーっと走ってきて「オハヨーーー」って飛びつく子。
「コラッ」と怒っても「エヘヘッ」とごまかすことが出来る子。
お友達からちょこっと何かされただけでこの世の終わりのような声で泣きわめく子。
なんでもかんでも口答えする子。

これ、ぜーんぶ一歳児なのだ。

生まれてわずか一年~二年。もうこんな風に一人一人個性が出てくる。
もうすでに性格ができてしまっている。
けれど、これを修正できるのも一歳児。
大人になったとき、こんな性格じゃちょっとかわいそうだなぁって子、やっぱりいるのだ。
そんな子はちゃんとチェックしておいて、徐々に軌道修正していく。
だってさ、何かあったらすぐいじけるとか、自分の思うとおりにならないと泣きわめいて絶対譲らないとか、そういう性格って固定してしまったらかわいそうだ。
まだこの年齢なら修正がきくのだ。
でももちろん強制では治らない。
愛情だ。
愛が全て。
そして年齢に合った遊び。
(難しいんだけどさ、これが)

なんでもかんでも気にいらないとお友達を攻撃したりする子。
発散が足りないのだ。
からだを思い切り使う遊びを考える。そして実践。うまくいけば、すっっと落ち着く。
でも発散だけかというとそうではない。
お友達をつきとばしたり、叩いたりしたとき、叱りたい気持ちをぐっと抑えパッと抱っこする。
ぎゅーっと抱きしめて「○○ちゃん、ホントはやさしいんだよね。おりこうさんだよね。あのね、お友達、痛いって。叩いちゃダメだよ。」と静かに言う。
そしたら今までキーーーッてなってた子が嘘のように穏やかになる。
愛してほしいんだよね。本当は。
何か欲求不満でイライラしてるんだなって気づく。

また妹、弟が出来た子。
この年齢ってお兄ちゃんお姉ちゃんになる子が多い。
まったく赤ちゃんになってしまう子。
今まで自分で履いていたパンツ、ズボンを全く履かない。
みんなと同じ行動を取らない。
すぐ泣き出す。
これは赤ちゃん返りなのだ。今まで自分だけがお母さんにかわいがられてた。それが下ができて今度は下ばっかりに注目が集まる。
これってその子にしてみればマジで死活問題なのだ。
当然まわりの注意を自分にむけようと様々なことをやる。赤ちゃんと同じように振る舞ってみたりもする。そうすればお母さんがお世話をしてくれるから。
いじらしいじゃないかっ(T.T)
そういう子たちには思いっきり赤ちゃん扱いをしてやるのだ。
パンツ履きたくない?いーよいーよw
ズボン履きたくない?いーよいーよw
抱っこでもおんぶでも何でもやってやる。だって心がさみしいんだもんね。
不思議なことにしばらくすれば、スタッとなくなるのだ。
そして、「自分でする」と急にお兄ちゃん、お姉ちゃんになる。
その変化はちょっと驚くばかりだ。
でもそれがそのままずーっといくわけではないけどw

再び赤ちゃんになったり、そしてお兄ちゃん、お姉ちゃんになったり、それを繰り返しながら年齢を重ねて行く。
行きつ戻りつしながら真の自立へと向かうのだ。

そうして年長さんになったとき、とても素晴らしい成長を遂げる。
保育園を背負って立つ、見事な子どもになるのだ。

すべては大人側の関わり。
子どもの一生は、すべて大人にかかっている。

もっと真剣に、もっともっと愛を持って、子どもに関わろう。
ほったらかしてたら子どもは育たない。
育たないのだ。
人を信頼すること。大人を信頼すること。
それを学んだ子どもは将来殺人者なんかには絶対ならない。

殺人を犯していく子どもたち。
悲しく、辛い。

でも責任は大人にある。
子どもには無いのだ。

久しぶりに

2005-02-14 19:37:10 | 保育 教育 
やっと出勤。
風邪やら所用やらで先週はずっとお休みしていたのだが、今日からは出勤だっ。
久しぶりに見る子ども達のカワイイことw(いやいつも見ててもカワイイけどさ)
部屋に入ったとたんにダーーーーッと走り寄ってきて「おはよーー」「おはよー」と連発してくる。ちょっとみないうちになんだかお兄ちゃん、お姉ちゃんになったような感じだ。
お友達とのトラブルメーカーのK君も、なんだか少し落ち着いておだやかな顔になっている。走ることが大好きなので早速追いかけっこだ。子どもたちはよく広告の紙で遊ぶ。棒みたいにしてチャンバラごっこ(うわ なつかしw)、一歳児ではビリビリ破ることも発達のうちだし、ぐしゃぐしゃに紙を丸めてボールにし、保育士にぶつける遊びも大好きだ。K君は、その丸めた紙をなんと私のトレーナーをめくって中に入れ、逃げていく。おもしろいよな。私も負けずにそれを取り出して、今度はK君の服の中に入れようと追いかける。たったそれだけの遊びだけどそれがまた楽しいのだ。結構足が速いK君なのでこっちが多少真剣に走ってもついてこれる。
ぎゃーぎゃー笑いながら走り回り、「はぁ~~、ちょっとお休み~」と座り込んだらたちまち子ども達が群がってきて膝の上に乗る乗る乗る・・・・。
ついには押し倒され、上に乗られる・・・(いったい何人がかりだ・・・っ)
どすどすどすと何人かが馬乗りに。
そこで寝返り。ごろり~~ん。
当然子ども達もごろり~~ん。あ、畳の上ですからw
それがまた面白くて再びどすどすと乗ってくる。
・・・やれやれ病み上がりなのにぃ(T.T)

けどこうやって暴れるのって子ども達は大好き。
ただ一歳児だから、ちょっと気を遣いながら暴れている。これが3歳くらいになるとまた思い切り転がしたり、投げたり(笑)できるのだが・・・。

ホントに今の子って骨が弱いというか・・・全体的にもろいというか・・・。
何かの拍子にすぐ脱臼する。
ちょっと転んだら鎖骨を折る。
走って転べば顔を打つ。
いったい・・・。
また子どもがケガをすることを極端に嫌う親も増えているのだ。
ケガするたびに平謝りに謝る。
昔はお互い様と割り切ってこれた事が今では許せない事になってしまっている。

ケガくらいするよ・・・
お友達からやられることもあるさ。
けど同じくらいやり返してるってこともわかってほしいよ。
こどもって、相手に噛みついたり、髪の毛ひっぱったり、たたき合ったり、そりゃすさまじい喧嘩をすること多々ある。
でも次の瞬間もう忘れて仲直り。
お互い笑い合っている。
決して根に持つことがない。
そんな子ども達の愛らしさ、素直さ、爽やかさ、今の大人にこそ見て欲しい。
私も、そんな姿を見ながら反省することばっかりだ。

次につなげていきたいものです。


まるっきりの弱音と愚痴

2005-02-11 20:37:47 | Weblog
人の道ってなんだろーか。
人の道に外れたことはやっていない自信はある。

今まで常識的に普通に生きてきた。
常識的に家庭を持って、子どもも育ててきているつもりだ。

人生の師というべき人にも出会えた。
我ながら充実した半生を送ってきていると言える。

私は、そうだ。
また、自分が信じている人、その人に対する信頼はゆるぎない。
誰がどうあれ、この先どうなろうと、私はその人を裏切らない。
それは断固として明言できるくらいだ。


そうやって生きてきたし、これからも生きていく。

でも、清濁併せ呑むって、厳しいことだった。
自分の中の許容範囲と、信頼とのギャップがあまりにも激しいことに気づいてきた。
本当に厳しい。
一人の人を丸ごと信頼するということは、その人のなにもかもを丸ごと受け入れるってことだ。
たとえその人がどんなことをしていようとも。
私はそう思ってこれまで生きてきた。そうできると信じて生きてきたのだが・・・。

現実の厳しさに負けてしまいそうだ。
清も濁も全て受け入れられるものなら受け入れたい。
諦めか?
信じるということは諦めにつながるのでは?という指摘を受けたことがある。
そのときはこれは覚悟だ、諦めではないって言えた。

なんだか最近わからない。

私には許せないことがある。
あることがどうしても許せないのだ。
それを思うとなんだか心配で不安で夜中でも目が覚めて飛び起きてしまう。
それでも受け入れていくしかないのだろうか。
自分が決めたことだから、最後まで貫き通すことが、道なのだろうか。


愚痴です。
何言っても仕方ない。
変えるのが怖い。
変わるのも怖い。
そう動こうとしてどんなことになるのか、想像するのが怖い。

ここにこうやって書くことで、やっと安定を保っている。

私は弱い。

。・°°・(((p(≧□≦)q)))・°°・。ウワーン!!


書いたり消したり書いたり消したり・・・。
公開したくないけど公開してみたり。
自分のブログなんだから別にいいやんって正直に書くこともあれば、これは書いちゃいけないんでは、と消しちゃうこともある。

そのうちばからしくなってほったらかしだ。(T▽T)アハハ

ま、いーか。





研修にて。・2

2005-02-10 09:22:35 | 保育 教育 
子どもの不思議な行動(だってホールに点在したまままったく動かないんだもん)を見た私は、いったいどうなるんだろうとドキドキハラハラしていた。
他の研修生だってできないことはないんだよね。毎日やってることだし、もう何年とこの保育をやってきたベテラン達なんだから。
大勢の人や、講師(厳しいしなぁ・・・)の面前できっと緊張してしまうんだろうな。
それだけこの保育が、保育士自身の感性を多大に問われるってことなんだろうけど。

らちがあかないので講師が出てきた。
子ども達をさっと集める。
「あのね、もぐらのキューちゃんがね・・・」もぐらのキューちゃんとは5歳児お百姓さんたちの架空のお友達。いつもお話の中にでてくる登場人物で、畑や田んぼの下の土の中に住んでて困ったことが起きるとお百姓さんたちに助けを求めてくるカワイイ友人なのだ。
「・・・ミミズさんの田んぼもカラスさんの田んぼもみーんな田植えがすんでるのに、ボクの田んぼだけがまだ終わってないよぅって言いに来たの。早く田植えしないと困っちゃうよぅって。だからね、○○先生(ご自分のことね)がね、今日田植えがとーっても上手な○○保育園のお百姓さんのところに遊びに行くからその時お願いしてくるね。って言ったの。ねえ、ここのお百姓さん達田植え上手なんだってね。」
「うん!」「田植えできるよ」「したよ」と子ども達。
「どうする?キューちゃんの田んぼにも田植えしてくれる?」
「うん!してあげるっ!」
いったい何だってこの話で子どもが動くんだろう。目の当たりにしないと信じられない。マジで。
「ここがね、(とホールの床を指す)キューちゃんの田んぼなの。キューちゃんねここのずーっと下にいるから田植えやってあげるよーって教えてあげてよ」
そのとたん、集まっていた子ども達はサーッと散らばり、思い思いの場所にしゃがみ込んで床に向かって「キューちゃーん、田植えしてあげるよー」と言い出したのだ。
「だめ。他の人に聞こえたらダメ。キューちゃんだけに教えてあげて」
「・・・・・・・・」
床に向かってホントに小声で教える子ども達。

それから音楽が鳴りだした。
すると。
田植え、始めたのだ。子ども達。今まで棒立ちだったのに。信じられない。

木の床が、もぐらのキューちゃんの田んぼになった瞬間だった。
子ども達が、「その気」になった瞬間だった。


これを、「子ども達をだましてさせている」と取るか「ファンタジーの世界でその気になって遊んでいる」と取るかでこの保育に対する目がかなり変わってくる。
「虚構の中の真実」
この言葉は私たちの保育でよく使われる言葉だ。
確かに、もぐらのキューちゃん、キューちゃんの田んぼ、実際にあるわけがない。これは間違いなく虚構=嘘だ。
でもその中で、「キューちゃんが困っている、何とかしてあげよう」「キューちゃんのために田植えやってあげよう」「キューちゃん喜ぶかな」といった子ども達のやさしさや思いやりは真実なのだ。
私たちは虚構の中にあるその真実の心を育てている。
一番大事なのはその「真実」

私がこの保育に惹かれてやまないのは、そこなのだ。
「心」を育てる保育だからなのだ。

実は今回の研修での出来事は決して稀なことではない。講師の実践で子ども達が生き生きと変わっていくのはもう日常的なことなのだ。
それだけ素晴らしい実践を、現場が本当は身につけなくてはいけないんだけど・・・。
難しすぎるからなのか。
難しく考えすぎるからなのか。
素晴らしい研修とは裏腹に、今全体的に行き詰まっているのが現状だったりする。

頭悪すぎなのかな 私。






研修にて。

2005-02-10 00:59:41 | 保育 教育 
5歳児の研修で。

その日は発表会の全通しが研修内容だったが、時間がなかなかとれず部分的な遊びを講師に見て頂くことになった。
5歳児は一年間お百姓さんになって遊ぶ。本当のお百姓さんがするように、田んぼを作り、畑で野菜を作り、それらを収穫する。そして本当のお百姓さんがするように、収穫のお祝いや、お祭りもするのだ。一年を通してお百姓さんとして生活し、(もちろんすべてごっこ遊びとして展開されるが)作物を育てることによって命の尊さ、小さな生物への愛情などを学んでいくのだ。

発表会は、そうやって一年間やってきたお百姓さんの仕事をごっこ遊びで再現するというものなのだ。体験の再現。これは実際やってきたことだから当然できるはず、と思うのは大間違いで、そこが子どもの面白くて凄いところなのだが、実際畑を目の前にし、田んぼを目の前にしたら何度でも繰り返してできるだろう。だけどいざやるのは舞台。木の床の上なのだ。
その場合、しっかりイメージを呼び起こし、かつ子ども達は「その気」にならないと動かない。
実際研修の場でもそうだった。
担任が前やったはずの田植えの話をする。「どこそこの田んぼで稲植えたねー。稲の赤ちゃんなんだっけ」「なえー」「そう苗を植えたよね、何本ずつ植えたっけ」「3本!」
子ども達はよく覚えている。実際田植えをやったから。
一通り話をし、「じゃあここの田んぼ(ホールの床ね)にも苗を植えてみようか。できる?」「うん。できる」
音楽が鳴る。
ところがっ、こどもが全然動かない。
手には自分たちがいろんな材料を使って作った「苗」を持っているのだが誰一人棒立ちで動こうとしないのだ。
焦る担任。「苗、このまえ植えたよね。覚えてるよね」「うん」
しかし、動かないのだ。いや、動けないのだ。
持った苗を3本に分けようとして手を動かしている子ども達。分けられるわけない、作り物なんだから。
子ども達の中で、田植えがリアルになってしまっていたのだった。
だから「木の床」には苗を植えることができないのだ。
ここが大人と子どもとの違い。子どもは演技をすることができないのだ。(芝居とはまた別の意味で使ってます。念のため)

この場合、何がまずかったかというと最初の担任の話。(私たちは導入と呼んでいるが)
一番最初に遊びを子どもに降ろすときのお話がその日の遊びの命運を分けるのだ。最初の話でいかに子ども達を「その気」にさせるか。一番力量が問われるのが、実は最初のお話なのだ。
誘いかけでも創作童話でもなんでもいいのだ。子どもがイメージを起こし、その気になりさえすれば。
研修生が入れ替わり立ち替わりお話をし直す。しかーし動かない。
子どもには申し訳ないのだが、研修生にとってはすごい勉強の場だったと思う。
(あ、その日は私は特別に見学させてもらってたのだ←ホントは一歳児担任だから)

普段日々ではこんなことはない。きっとあの手この手を使って「やらせ」ているのだろう。
当然「やらせ」の意識は担任にはない。子ども達が自主的に、その気になって遊んでいる、と思ってやっているのだと思う。しかし、こういう場で子ども達が動けないということは、普段の遊びがあきらかに担任の「やらせ保育」になっているということなのだ。だから、指示がないと子ども達は動けないのだ。
厳しい。「やらせ」ているのか「その気」になって遊んでいるのかの見極めも。
それに自分の毎日の保育のあり方が、研修という場であからさまに出る。隠しようがないのだ。

長いので続く(T.T)



思い出いろいろ・・・

2005-02-08 20:28:00 | 保育 教育 
2月から新しくうちのクラスに男の子が入園してきた。
言っちゃいけないことではあるが、言わせてもらうと、発表会まであと一ヶ月っっ。

大丈夫なんだろか・・・。

うちの発表会ってのはちょっと違っていて、一年間の遊びを確実にこなし、発達をおさえてきてから初めて演目としてお披露目できる、そういうものなのだ。
ななななのに一歳児で今月からっ?
いやでも、それでもうけなければならない。
そりゃ足並みはそろわないだろう、それを望むのは無理だ。
だけど、他のお友達と一緒に舞台で楽しく遊ぶことならできると思う、との信念を持ち、私たちはそういう子を受け入れているのだ。

思えば、我が子もそうだった。
転勤が決まり、いきなり発表会の一ヶ月前に私が今勤務する園と同じ系列の園に入園。
その年はイベントを計画していて、発表会会場が某多目的ホールの大ホール。
私たちが学んでいる保育の研究会の加盟園全部が参加する大規模な保育発表会の年だったのだ。
当然年度初めから緻密に保育計画が練り上げられ、全員参加がモットーだから、誰一人、どこの園も落ちこぼれがないように本当に丹念に丹念に保育が行われてきた年だったはずなのだ。

その本番もあと一ヶ月にせまった時に、突然の入園・・・。
あの、私が今もし同じ立場だったらマジで思うよ・・・「来年入園して」って・・・。

なのにその園は、つゆほども、そうホントにつゆほどもそんな素振りはみせず、大変そうな顔もせず、うちの子を受け入れてくれました。
保育園に行き始めてから、2週間泣き続けたうちの子を、イヤな顔ひとつせずうけいれてくれました。
どれほど心痛だったことだろう。
どれほど心配だったことだろう。イベントを控えて。
我が子に関しては心配はしてなかった。だって絶対慣れて遊べるようになるってわかってたから。
そんなものだから。子どもって。
ただそのために当時の担任の保育士さんがどれほどの心を、うちの子にかけてくれたことか。
最後、こどもたちを上げていかないといけない時期に新しい子。
その子を慣れさせながら、大きな舞台で遊べるまでに成長させながら、かつ他の子たちの気持ちを盛り上げていく。
これがどれほど大変なことかわかるだろうか。
実際、私が同業だからこそ、当時の担任の保育士さんの大変さがわかるのだ。
そして、どれだけうちの子に愛情を注いでくれたのかも。

うちの子。
散々親に心配かけながら、なんとイベント当日は舞台の上でかくれんぼの鬼になり、舞台中所狭しと走り回っては、隠れたお友達を嬉々として捜し、しっかり主役になって遊んでいた・・・。

何か問題にぶちあたったとき、私はその当時を思い出す。
我が子をギリギリのところで受け入れてくださった先生方。
しっかり育ててくださった担任の先生方。
それを思うと泣き言は言えないって思う。
私だってやらなきゃって。
自分の子がうけた恩を、今目の前にいる子ども達に返さなきゃって思うのだ。

面白いことに、感謝してもし足りない当時の我が子の担任。
なんという縁だろう、今私が一緒に組んでいる保育士さんの一人なのだ。
その人と私が今度は一緒に、また別の子ども達を育てるために力を合わせている。

不平不満を言わず、前向きに、すべての子どもをうけいれていきたい。
結局はそこに戻るんだよね。
戻るところは同じなんだ。
あとはもう少し、道が曲がりくねることなく、まっすぐにいけばいいんだけどなぁ・・・。