葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「葵から菊へ」江戸城、譜代大名、旗本邸を東京鎮台と明治政府の施設に

2024年08月24日 | 地図と地名

「葵から菊へ」江戸城、譜代大名、旗本邸を東京鎮台と明治政府の施設に

平凡社刊「地図に見る東京の今昔」明治16(1833)年“丸の内”“霞ヶ関”“大手町”“北の丸”から作図しました。

寺田近雄著・立風書房刊「日本軍隊用語集」より

鎮台(ちんだい)
 維新戦争が官軍の大勝利で終わったあと、その主力となった薩長土肥の藩兵部隊は、さっさとそれぞれの国もとに婦ってしまった。 
 新政府がまずやらなけれぱならなかったのが、その治安の空白を埋める軍事力の創設であった。それまでの官軍はいわぱ野戦軍であったから要所に一大根拠地を築き、そこに徴兵された国軍部隊を結集して目を光らせなけれぱならなかった。 
 その恨拠地となったのが新たに創設された鎮台であり、その司令部は維新後もとり壊さずに残した各地の城の中に置いた。
 まず、会津戦争後なお残存する東北諸藩の親幕府勢力ににらみを利かせるために、仙台の青葉城に「東山道鎮台」を置き、ついで新政府の基盤となった薩摩・長州への防衛線と九州小倉城に「西海道鎮台」を置いた。 
 いずれも独立守備隊的な性格をもった小部隊だが、明治の初年にはその程度の兵力しかなかったのである。 
 もっとも、鎮台の名づけ親は明治政府でなく徳川幕府で元治元(一八六四)年には江戸鎮台、大和鎮台、大阪鎮台などがすでにあった。 
 ただ幕府の鎮台は軍隊というよりも治安警察的性格のので、武装代官所か現在の警察機動隊のようなものである。 
 明治五(一八七二)年に全国的に徴兵令が発せられると、政府軍兵士の供給が楽になってきたので、鎮台の数も東京・大阪・鎮西(小倉)・東北(仙台)と増えた。東京鎮台(司令部ー皇居北の丸)の分営は新潟県の新発田に一大隊を置いて、相変わらず会津をにらんでいた。 
 つづいて明治八年から二一年にかけて、しだいに増強整備して七軍管区六鎮台制となった。 これがのちにつづく軍管区と師団となる。 
 第一軍管区ー東京鎮台(千代田城)分営ー佐倉・高崎 
 第二軍管区ー仙台鎮台(青葉城)分営ー青森 
 第三軍管区ー名古屋鎮台(名古屋城)分営ー金沢 
 第四軍管区ー大阪鎮台(大阪城)分営ー大津・姫路 
 第五軍管区ー広島鎮台(鯉城)分営ー丸亀 
 第六軍管区ー熊本鎮台(熊本城)分営ー小倉 
 第七軍管区ー北海道(計画のみ) (屯田兵制度だったが、明治29年に第七師団となった)
 それぞれの鎮台守備兵は五〇〇〇~一万五〇〇〇人、総兵力は歩兵一六連隊、騎兵一大隊、砲兵七大隊、工兵三大隊、合計五万四〇〇〇人が新生日本陸軍の全兵力であった。 
 陸軍のこの鎮台も、海軍の鎮守府も文字どおりその任務は国を鎮める治安軍で、このころには外戦の意志も実力もない。城を根拠地としている点は要塞守備隊でもあった。 
 鎮台兵の唯一の実戦歴は明治一〇(一八七七)年の西郷隆盛との間の戦闘ー西南戦争ーである。西郷軍は維新戦争を戦い抜いたプ口の旧武士集団であったが、鎮台兵は士族出身は幹部将校だけで、下士官・兵は農民・町人出身の実力不明の徴兵であった。 
 熊本鎮台の司令官の谷千城(たにたけき)もその力を疑って徹底的な龍城戦術をとる。結局、圧倒的な兵員・兵器の差で官軍優利となると鎮台兵はがぜん元気となり、各所で目ざましい働きをした。 
〽鎮台兵がさむらいならば、蝶々トンポも鳥のうちーーと馬鹿にされていたが、その声も小さくなり、期待どおり国を鎮め明治陸軍は力に自信をもつようになった。 
 やがて兵力増強とともに戦略単位の師団が生まれて鎮台の名は消減した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(了)

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