葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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ポツダム宣言受諾の送信所が法政大学キャンパスにあった

2017年03月06日 | 海底電線・領土問題
ブログ記事「中国から北朝鮮までの光ケーブルは、東京↔満州の無装荷ケーブル敷設跡だった」をエントリーしましたが、(何時の間にか何者かによって削除されていた。)戦争遺跡勉強会の都井正博さんが、その後「町田市自由民権資料館」の所蔵資料「堺村誌」から「相原電話中継所」部分をコピーし送って頂きました。
早速アップいたします。




 五 相原電話中継所

 昭和十二年現在地相原二九二一番地に敷地一〇九一坪を
以って着工された電話中継所の目的は、通話放送送信等が
遠距離になるに従いその音量が減退し、不明確となるのを
防ぎ且の電流増強により通信の明確を期する機能装置をす
るところであると同時に、別に一つ莫大な線路め建設費を
節約する為に搬送回線と称して一組の線で同時に何組もの
通話が出来る装置である。現在では一組の線で十組同時に
通話が出来るという極めて経済且便利な装置を所有してい
る。
 各中継所を結ぶ線路は地下に埋められ、当村内を通過す
るケーブルは二条で坂下附近より村内に入り、現中継所を
経て大戸より山中に入って浅川町より梅木平で甲州街道に
出ている。戦前の重要さは勿論であった。戦後ほ東海道各
所に最新式の施設が多数建設されたので創立当時と大分情
態は違ってきたが、然し依然として関西以後の長距離回
線、甲府近在の中距離回線が収容されているので当中継所
は重要通信施設として果す役割には変りはない。当中継所
ほ、現在日本電信電話公社に所属し、関東電気通信東京搬
送通信部の管理下にある。
 相原電話中継所変遷表
 昭和十三年十二月、日満連絡ケーブルの一環として中野
を起点として上名古屋にある重要幹線の中間中継所として
開局(逓信省所属)これに採用された通信方式は昭和七年
松前重義博士等により提案された当時の世界最新式のもの
であった。
 昭和十五年七月、国際電信電話株式会社に移管、中野住
吉(大阪)間の回線開通し、東京-大阪間の最重要幹線を
経て元満州国安東に至る回線と連絡開通
 昭和十九年 東京-奉天間(二七〇〇粁)の回線開通
 昭和二十二年五月 逓信省へ業務引継
 昭和二十四年六月 電気通信省へ移管(機構改正)
 昭和二十七年八月 日本電信電話株式会社所属(機構改
          正)

 六 国際電気通信(株)多摩送信所

事務所(当時)東京都南多摩郡堺村相原土ケ谷
一、建 設
太平洋戦争益々煽烈を極め、本土空襲愈々必至となって
来た昭和十九年五月頃、大本営では陸海軍の通信を安全な
らしむる為防空送信所の建設を計画した。その後同年七月
頃陸軍築城本部では其の建設地を足利等数ケ所に隠蔽(洞
窟)式送信所建設候補地を選定したが、地形共の他大本営
よりの陸上通信或は電力事情等の関係で此の堺村相原宇土
ケ谷、湯之入、武蔵岡、鍛治谷、滝之谷及び横山村寺田の
一部にまたがり建設する事に決定した。事実上土地を買収
選定できたのは昭和十九年七月二十三日で工事に着手した
のは同年八月二十三日(修抜式)であった。建設事務所長
は棚谷新一郎氏之に当り 勤労報国隊、労務報国隊、共和
会、土建組合、大塚組等を使いその延人員は約七千人であ
った。
 二、設 備
 (一)電 力 神奈川県津久井発電所(谷ケ原)より専用線
      として総受電量七百キロワットである。
 (二)通信機 イ、対独向通信用 二十キロワット単波電信
       機一台
        ロ、陸海軍通信用(大本営発着の戦略用)
          右に同じ
        ハ、日本放送協会の対外国宣伝用 五十キロ
          ワット単波電信機一台
 (三)連絡線 東京-名古屋間地下ケーブル百八十対の中十
        五対を送信所へ引き、相原電話中継所を経て
        大本営と連絡
 (四)空中線(送信用アソテナ)
        イ、対独用として指向性空中線 二基
        ロ、陸海軍の戦略用として無指向性空中線
          二基
        ハ、海外宣伝用として回転式アンテナ 二基
 (五)支 柱 高さ六十メートルの組立式支柱にして一柱合
        計十七本よりなる
 (六)土 地
        イ、アソテナ敷地 七万四千坪
        ロ、局舎の敷地  一千七百坪
        ハ、社宅の敷地  一千八百坪

 (七)建 物 イ、機械室(平屋) 百五〇坪
        ロ、機械室兼一部事務所 百坪
        ハ、受電室     二十八坪
        ニ、ポンプ室(冷却式機関室) 二十四坪
        ホ、独身寮       百坪
 三、完 成
 昭和二十年四月社宅を除き竣工した。
 四、送信事業内容
 対独向は昭和二十年ドイツが連合軍側に降服したので使
用せず、陸海軍用は竣エと同時に南方総軍ジャカルタ等と
通信を開始した。対外宣伝用ほ昭和二十年五月より使用を
開始した。それから三カ月昭和二十年八月十五日終戦とな
りこれら一切の海外放送は終了。
 終戦後は進駐軍用として五十キロワット単波電信機を使
用ラジオ第二放送として専らその慰安に使い、好評を博し
たが昭和二十一年十月三十日茨城県名崎送信所と交替、中
止となった。二十キロワット単波電信機の一台は中華民国
の中央社等の新聞電報に他の一台は対仏印の新聞電報の放
送に夫々使用していたが昭和二十一年八月三十日茨城県八
俣送信所と交替したため中止となった。
 五、放送活躍 イ、陸海軍用 その成果不明
        ロ、海外放送は終戦直前が一番活躍し、
          中でも終戦時のポツダム宣言受諾の意
          志を表明したのは昭和二十年八月十日
          で実に此の送信所からであった。
 六、歴代所長 棚谷新一郎 工事建設より昭和二十年七
              月まで
        田口  稔 昭和二十年七月より昭和二
            十一年八月まで
        真清 隆次 昭和二十一年八月より昭和
            二十一年十一月十日まで
 七、職 員  数は最高時に五十名 内訳は技術者三十五
        名事務職員十五名であった。独身者以外は附近の家へ間借
        していた。
 八、閉 鎖  会社の経済方針と防空送信所としての使命
を終了したので昭和二十一年十一月十日閉鎖した。

傍線部分は原文のママですが、ポツダム宣言受諾の歴史的な戦争遺構が法政大学多摩キャンパスにあることも都井正博さんが調査されていました。
町田市青少年センターから法政大学多摩キャンパスまでの広大な敷地に「相原電話中継所」があったことが明らかになりました。
この戦跡遺構調査によって、中国遼寧省瀋陽市から北朝鮮平壌市へのインターネット回線の「沿革」も明らかになったのです。















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