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葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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1952年4月28日サ・条約発効。A級戦犯容疑者岸信介は公職追放解除となり政界に復権した

2020年04月28日 | 憲法・平和・人権・防衛

開戦の詔書に見る「商工大臣岸信介」の署名

靖国神社・遊就館図録より 展示室15「終戦 日本再建への道」から

サンフランシスコ講和条約調印 日米安全保障条約調印

昭和26(1951)年9月8日 冷戦の始まりによって、日本の重要性を再認識した米国は、占領政策を段階的に転換した。その後、対日講和の気運が急速に進展し、昭和26年9月、サンフランシスコで、ソ連などを除く連合国48カ国との間で講和条約の調印が行われた。同時に日本防衛のために、日米安全保障条約が締結された。

戦争終結・主権回復

昭和27年(1952)年4月28日講和条約発効、日本は主権を回復した。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』岸信介  には、次のような記述がある。

『東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年(昭和23年)12月24日、不起訴のまま無罪放免された。ただし、多くの戦争指導者同様、公職追放の身のままであり、表立って政治活動をすることは不可能なままであった。』( 注)上皇明仁の誕生日が巣鴨プリズンに於ける処刑日である。

『この間、日本国憲法が発効した1947年には、日本を占領下に置いた連合国の主要国であるアメリカ合衆国の対日政策は、当時はじまっていた東西冷戦の中で日本を「反共の砦」とする方向に大きく舵が切られ始めていた。そこへ日本周辺での冷戦の激化、すなわち、1949年10月1日に蒋介石の国民党政府を台湾島へ逃亡させた、ソ連の後押しを受けた中国共産党による中華人民共和国の成立・台頭、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発と北朝鮮優位の攻勢により、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを含めてアメリカの対日政策が大きく転換されることになる(逆コース)。このため、岸信介はじめ公職追放されていた旧体制側の人物たちが1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除され復権していくことになる。』 

孫である総理大臣安倍晋三は、新型コロナ感染事態を「憲法改正」に悪用し、突き進もうと画策しているのである。

(了)

 

 

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