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中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第252号証戸口好太郎氏

2023年08月19日 | 化学兵器問題

小野寺利孝弁護士(小野寺協同法律事務所)は、戸口好太郎氏の会社の顧問弁護士でした。遺棄毒ガス弁護団の団長だったので、同僚の小林利男氏と中国敦化市沙河沿の毒ガス弾遺棄現場調査に同行しました。

小野寺利幸弁護士(左から三人目)

このイラストは関東軍第16野戦兵器廠の元隊員有志が私費出版した部隊史「追想」にある地図を小林利男氏が補足したものです。

陳 述 書 
          戸 口 好 太 郎 
はじめに 
 私は、昭和20 年8 月の終戦時、関東軍第16野戦兵器廠の陸軍技術軍曹として、現在の中華人民共和国吉林省敦化市郊外にある沙河沿という地区で、弾薬集積業務に従事しておりました。そして、終戦直後、軍の命令により、小林利男曹長らと共に沙河沿地区に集積されていた毒ガス弾の入った木箱を地中に埋めて隠す作業を行いました。 
陸軍兵器学校に入るまでの略歴 
 私は、埼玉県入間郡越生町大字古池190番地に大正12年1月3日に生まれました。そして、昭和4 年には越生町立尋常高等小学校に入学しました。昭和13年3月に卒業する際、先生からは師範学校進学を勧められましたが、家庭の事情で断念し、昭和13年4月からは、越生町の建具店に住み込みで就職しました。その後、仕事をしながら2 年間、週1回夜に青年学校に通い教育を受けました。 
陸軍兵器学校に入学した経緯 
 私は、16歳のときに兵隊を志願しましたが、小柄で体重が足らないということで検査に落ちました。しかし、私はあきらめきれず、違う場所でもう一度受験しました。すると、試験の担当者である曹長が、たまたま私を覚えていてどうして兵隊になりたいのかたずねられました。当時は、職を持っていても徴用で職を離れざるを得ない人が多かったのですが、私は、そのように自分の意思によらない徴用で自分の意思に沿わないところに送られ働かされるのは嫌なので、志願したということをいうと、その曹長は私の相談にのってくれ、そのことがきっかけとなり陸軍兵器学校(私が入学する前は陸軍工科学校といいました。)を受験することにしました。陸軍兵器学校は、本来、中等学校卒業以上でないと入学資格がないのですが、戦時下、青年学校に通っていたことや小学校時代の成績が優秀だったことなどの理由から、例外的に受験資格を認めてもらい、無事に合格することができました。 
 そういうわけで、昭和16 年6 月1日、私は陸軍兵器学校に入学しました。 
陸軍兵器学校 
 陸軍兵器学校は、神奈川県相模原市にありました。卒業後は、陸軍の各部隊に帰属して、兵器管理の仕事をするのが主たる役割でした。科目には、火工(弾薬、化学兵器)、鍛工(重火器及び銃工(小銃・機関銃)を扱う。)、技工(木工(工兵隊の器具や橋梁機材、建築資材を扱う)、鞍工(馬具)、光学からなる。)、機工(自動車、戦車)、電工(有線、無線)等があり、そこで、各兵器や器具の補給、修理の技術を学びました。 
 私は、技工科で木工、鞍工、光学を専攻し、陸軍兵器学校を生徒835人中首席の成績で卒業し、陸軍大臣賞を受賞しました。その後、2年後に母校である陸軍兵器学校に帰って教鞭をとるという条件で、関東軍第16 野戦兵器廠(別名2633部隊)に入隊しました。 
配属 
 昭和18年12月15日、私は、東満総省鶏寧街の関東軍第16 野戦兵器廠(通称2633部隊)に配属になりました。仕事は修理部に所属しました。修理部には修理工場があり、工場長は倉陸軍中尉でした。私は修理工場のうち木工場と鞍工場の作業班長として仕事をしました。木工場は、兵が5人程と満人(中国人)の徴用工が10人前後いました。具体的には、部隊の作業用の棚を作ったり、小屋の資材や土留めの資材等の製材や各種の修繕工事等の業務に従事しており、戦闘に関わったことはありません。赴任時の階級は陸軍技術伍長で、赴任半年後には陸軍技術軍曹となりました。 
 昭和20年7月ころ、第2633部隊は鶏寧から大橋に移転しました。駐屯地を閉鎖し、ごく少数を残し、全部隊が移動しました。兵隊もいなくなった後、私は鶏寧に残って、残務処理の任にあたることになりました。残務処理の要員として最初は5・6 人くらいいたのですが、私が実質的に指揮する立場であり、要員は順次減っていき、最後には私1人だけとなりました。そこでは、鶏寧街で入院して病院で亡くなった戦友の遺骨を祖国に送ったりしたこともありました。私は、あらかじめ、中隊長から残務処理が終わったら沙河沿に行くようにとの命令を受けていたので、残務処理が終わった7月半ば過ぎ頃、他の隊員より遅れてひとりで沙河沿にいきました。 
沙河沿での弾薬輸送業務 
 沙河沿での仕事は、毎日、満人を指図して、臨時線路を使って、搬入する弾薬の入っている木箱を貨車から降ろし、その木箱を運んで、野積みにするという作業でした。集積作業は皆一緒に仕事をするのですが、私は特に到着した貨車に入り、弾薬箱を兵隊や満人の徴用工に手渡す作業などをしていました。 
 弾薬箱を野積みにした場所は、原っぱのようなところでした。鉄道の臨時引き込み線が引かれており、弾薬箱は露天積みになっていました。臨時の弾薬集積場であったと思います。朝鮮人部落が近くにありました。 
 弾薬箱は、一山一山、いくつも数え切れないほどおかれていました。見渡す限り弾薬箱でした。種類も多かったのです。このころ、関東軍には、南方支援のために大砲が一門もなくなっており、弾薬の必要がなくなったので集めていたようです。私たちの仕事は、送られてきた弾薬箱をおろす作業です。ここでは徴用した満人は100 人ほどはいたと思います。日本人もいれると150人くらいであったと思います。三つほどの天幕で生活し、業務を行いました。徴用の満人がどういう形で集められたかはよく分かりませんが、彼らは村から集団で来ており、村長も来ていました。 
戦争が終わったときの状況 
 私が、戦争が終わったのではないかと思ったきっかけは、朝鮮人や徴用の満人の行動でした。いつもは、集積地に、昼夜を問わず貨車が来ていたのですが、その日は、夜中から貨車が全然こなかったのです。そこで、今日はどうも休みらしい、ということで、私は部下を何人か連れて、野積みにする弾薬箱の下に敷く枕木を探しに出かけたのです。私たちがちょうど朝鮮人部落を歩いているときに、そこの住民が、日本は負けたんだということを言ってきたのです。私は、びっくりして、部隊に帰りました。 
部隊に帰ると、徴用の満人達は、既に部落に帰る支度をはじめていたのが印象的でした。毒ガス弾の処理についての指令 
 その後、軍から毒ガス弾の遺棄命令がきていることが伝えられました。 
命令の内容は、「毒ガス弾は、国際条約違反であるから、ロシアや中国の部隊に見つかってはいけない、5メートル以上深く土を掘って埋めろ」というものでした。また、今晩中にこの作業を行うということでした。後世に残る恥辱である、という言葉もありました。 私が命令を聞いたのは、部隊の網谷准尉からだったと思います。私は、沙河沿の部隊には後から合流し、そこに1 か月もいなかったので、部隊の指揮命令系統の中枢にいたわけではないのですが、軍の組織的な命令であることは間違いありません。部隊の独断でそのようなことをするはずはありません。兵器廠で扱っている弾薬は全て、当時の言い方で言えば、いやしくも天皇陛下からお預かりしているもの」であり、一部隊の判断でそのようなことをできるはずがないのです。 
私はこの命令を聞いてびっくりしました。この命令を受けるまで、野積みした弾薬の中にまさか毒ガス弾があるなどということは夢にも思わなかったのです。私は、兵器廠の中でも木工・鞍工の修理が専門であったために、毒ガス弾を目にしたこともなく、日本が毒ガス弾を実戦に配備しているなどということも全く知らなかったのですが、兵器学校で毒ガスについての一般的な知識は教育されており、特に毒ガス兵器が国際条約違反であることもよく知っていたので、これは大変なことだと思ったのです。 
毒ガス弾について 
 その夜、部隊は毒ガス弾の遺棄作業に取りかかりました。 
野積みしていた毒ガス弾は木箱に入っており、木箱には、紙がはってありラベルがついていました。 1つの木箱に2 発ずつ毒ガス弾がはいっていたと思います。また、毒ガス弾の入った木箱は、まとめて野積みにしてありました。 
 私たちは、夜中、天幕を出て集積地に行き、毒ガス弾の積んである山を探して、そのすぐ近くにスコップで穴を掘りました。この作業は、既に満人は帰ってしまっていたし、また誰にも見つかってはいけないので、日本人の兵隊だけでこっそりと行ったのです。 
 毒ガス弾の入った弾薬箱の山は、一山がほぼ貨車1台分で、3メートルくらいの高さがあり、掘った穴は、その一山を隠せるぐらい、すなわち3メートルくらいは掘ったと思います。遺棄作業は、穴を掘り、そこに、毒ガス弾の入った木箱を重ねていきました。大変な作業でしたが、土は岩石などは含まれておらず、柔らかでした。私たちは、これからどういうことがおきるのか、恐怖感で一杯でした。しかし、ほったらかして逃げるわけには行きませんでした。土をかぶせて、見えなくなる程度の土をかぶせたに過ぎません。とにかく見えなくなればいいという気持ちでした。 
 私たちは、夜明けまで寝ずに穴を掘って毒ガス弾の入った木箱を土中に埋め ていき、へとへとになりました。 
 私たちは、翌朝には沙河沿を撤収しました。私たちは朝までに大変な量の毒ガス弾を埋めましたが、それでも集積地にあった毒ガス弾を全て埋めたかどうかは定かではありません。
シベリア抑留までの経過 
 その後、私たちは、2晩歩きつづけ、着いた場所で、弾薬拳銃はすべて捨てろという指示を受けて捨てました。捨てないとロシア軍から刑罰を受けるということでした。さらに飛行場のような開発地の農場でもあるようなところに行きました。たくさんの日本の兵隊があつまっていました。中隊の元の偉い人達もいました。 
 その後、貨車に乗せられて幾日も移動し、停止したところはすでにロシア領でした。そして今度は、 トラックに箱詰めされて、川に沿って走りました。その川はアムール川でした。 トラックは北へ北へと行き、昭和20年年9月10月頃、捕虜収容所に連れて行かれました。その後、4年にわたる収容生活の末、昭和24年9月に日本に帰国しました。 
帰国後の経過 
 私が日本に帰国した以後も、政府から毒ガス弾について聞かれたことは今日まで一切ありません。もし、日本政府から、復員の際などに毒ガス弾の遺棄隠匿のことについて尋ねられていれば、もちろん説明していました。 
 私は、帰国してからも、埋めてきた毒ガス弾で事故が発生していないかということが常に気かがりでした。他の隊員も、みなそういう気持ちであったと思います。毒ガス弾を埋めて隠してきたことを忘れた日はありませんでしたが、このことを公に話す機会は与えられませんでした。現在では当時の仲間も大分亡くなっておりますが、もっと早い段階で政府が聞き取り調査などを行っていればと思います。
毒ガス弾について話すことにしたきっかけ
 私は、今から12年程前に、15名程で戸田市日中友好旅行団を組織して元満州経由の友好旅行に参加したことがあるのですが、その折りに藩陽市での晩餐会の席で通訳の男性から、敦化に埋めた日本軍の砲弾が腐敗し、中から猛毒が流れ出して住民が亡くなられたと聞きました。私は、衝撃を受けました。もしかしたら、私たちが埋めた毒ガス弾ではないかと思いました。
 衝撃的な話で、その夜、もう一度通訳に会って詳細を確かめようとも思いましたが、確認するのが恐ろしく、会いに行けませんでした。 
 それ以来、そのことが心に残り、どうしても見舞いに行き謝罪をさせて頂かねばならないと思い続けていました。 
 その後、たまたま、戦後補償弁護団の小野寺利孝弁護士と出会う機会があり、小野寺弁護士から協力を求められ、これに応じることとしました。 
 私は、同窓会名簿を見て、当時、沙河沿の私たちの部隊で弾薬集積業務の責任者的立場にあった小林利男氏(当時陸軍技術曹長)に、戦後初めて連絡を取ってみました。 
 すると、小林氏も毒ガスを遺棄・隠匿してきたことをよく記憶しており、今回の裁判に自分も協力したいと快くお話くださったのです。そこで、今回の裁判で私たち二人が証人として申請されることとなったわけです。
平成16年10月18日   

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戸口好太郎氏と敦化市沙河沿の遺棄毒ガス現場へ同行しましたので、後日同行記をエントリーします。

「季刊・戦争責任研究」65号「毒ガス裁判と毒ガス被害者を支える人々の系譜」【再掲】秀逸な映像作品。NHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」

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(続く)

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