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中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第306号証甲斐文雄氏

2023年08月16日 | 化学兵器問題

甲第306号証 甲斐文雄氏の陳述書です。

甲斐氏の部隊は旧満州哈爾浜市周家です。(下図を参照)

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甲第306号証 陳 述 書 
2006年8月8日 
(住所) 

1 はじめに 
 私は,昭和20年8月の終戦当時,旧満州で関東軍の兵士をしていましたが, 終戦直前頃,私の所属していた部隊において,組織的に毒ガス弾を遺棄したことがありましたので,そのときの様子を陳述いたします。 
 私は,大正14 年2月22日生まれで,宮崎県延岡市で育ちました。昭和16年3 月, 16歳で私立延岡工業学校を卒業し,同年4月に,当時,旧満州の吉林市郊外にあった日本窒素株式会社の系列会社である吉林人造石油株式会社に入社しました。その後,同会社に2年勤務していましたが,会社の業績が悪く閉鎖することになり,昭和18年に,当時大連にあった三菱関東マグネシウム株式会社に転職しました。 
2 入隊時の状況 
 その後,昭和19年,私は徴兵検査を受け乙種合格となり,召集令状が届いたため,昭和20年3 月に,ハルピン郊外の周家に駐屯していた関東軍独立軽重第57大隊に入隊しました。この部隊は,馬で車を引っ張り,武器や食料の運搬を業務とする部隊で,大隊長は馬場大佐という人物でした。ただ, この時期は, まだ部隊自体が,本格的に始動していない状況であったため,実際には,運搬業務を行うことはほとんどなく,もっぱら初年兵としての訓練期間として,馬の扱い方などの教育や訓練を受けながら過ごしておりました。 
3 毒ガス弾を遺棄した際の状況 
 私たちの部隊が毒ガス弾を遺棄した正確な日付は分かりませんが, ソ連の参戦後でソ連に武装解除する前であることは間違いありません。 
私たちは, 4~50人で,駐屯地から500~1000メートルほど離れた倉庫の前まで連れて行かれました。 
 そこは今まで行ったことのない場所で,倉庫が数棟見え,兵器廠のようでした。 
隊長から,倉庫の中にある木箱に入った砲弾を,古井戸に捨てるよう命令されました。 
 私は,以前にそのような命令を受けたことはなかったですし, また,何故わざわざ砲弾を古井戸に捨てるのか非常に疑間に思いましたが,隊長からは,そのようなことをする理由について説明はありませんでした。ただ, この作業については,「誰にもいうな。外部に漏れたらいけない。」と籍口令が敷かれました。 
 作業中に,部隊の先輩(曹長か軍曹でした。)が「これは特別な砲弾で,中にはイペリット,ルイサイトというびらん性の爆弾が入っているので捨てるのだ。」と言っており,私は毒ガス弾を捨てているということを知りました。 
 私は,工業学校出身ということもあり,毒ガスについての知識は多少有ったのですが,部隊で毒ガス弾を保有していることは聞いていなかったため,大変驚きました。 
 私たちは,木箱から砲弾を取り出して古井戸に捨てていきました。隊長が言うことには,砲弾の信管は抜いてあるので危険はないとのことでした。 
 私が見た砲弾は,直径が15センチほど,長さが50センチほどの榴弾砲でした。この砲弾は,通常の砲弾と違っており,砲弾のお尻のほうに識別の色がついていました。私の記憶では黄色で帯状の着色がされていたと思います。 
 隊長の命令は,「とにかく早く捨てろ」という命令だったので,私たちは,一人で2つほどの砲弾を抱えては,井戸に投げ入れ,朝からタ方まで作業を続けました。 
4 武装解除以後の状況 
 その後, ソ連軍がやってきて武装解除をしました。その武装解除は,広場にもっている兵器を集めるなどして行われましたが,井戸に捨てた毒ガス弾については,当然,見つかっていないと思います。 
 その後,私は, ソ連のモシカの収容所に収容され, さらに2年後にはチョウフロオウゼルスカヤの収容所に収容され昭和24年10月末に, 日本に帰国することができました。 
5 戦後今日に至るまでの経緯 
 帰国時から,今日に至るまで, 日本政府から,毒ガス弾の遺棄について情報提供を求められたことは一度もありません。もし聞かれていたら,勿論知っている情報は提供していました。 
 私が,今回このような話をしたのは,新聞で,毒ガス被害者の裁判を支援している市民団体が,毒ガスの遺棄についての情報を広く求める「毒ガスホットライン」というものを開催していることを知り,そこに電話をかけたのがきっかけです。 
 以上述べたとおり,私は,終戦直前,日本軍が組織的に毒ガス弾を遺棄する作業に行う現場に立ち会い,経験しております。 
 私たちが古井戸に捨てた毒ガスで,悲惨な被害が生じることのないように願い,この度真実を述べることにしました。 

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甲斐氏の陳述書にある「毒ガスホットライン」は「毒ガス被害者をサポートする会」等が開設しました。

記者会見に臨む、弁護士南典男さん、神栖市の被害者青塚美幸さん、矢口仁也さん、大谷猛夫さん

報道陣の質問に回答する矢口仁也さんと南典男弁護士

ホットラインを受ける大谷猛夫さん(化学兵器被害解決ネットワーク事務局長)

「季刊・戦争責任研究」65号「毒ガス裁判と毒ガス被害者を支える人々の系譜」【再掲】秀逸な映像作品。NHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」

中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・東京高裁陳述書」甲第121号証鈴木智博氏

(続く)

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