葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

森繁久彌邸と東京映画撮影所(世田谷区船橋3-4)

2023年12月20日 | 世田谷日誌

12月16日に開催された<世田谷区「ミニコミ紙 ちとせ」40周年記念座談会>のレジュメより

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔の船橋・千歳台に関係する事項の説明 
 森繁久彌昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人。映画、TV、舞台、ラジオ、歌唱、エッセイなど幅広い分野で活躍した。(1913年生-2009年没)。 
 NHK アナウンサーとして満洲国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組への出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。舞台ではミュージ力ル『屋根の上のヴァイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてた。『オホーツクの舟歌』『知床旅情』の作詞・作曲者であり、歌手としても紅白歌合戦に7年連続で出場している。1960年に映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床に長期滞在した際に『知床旅情(原題:さらば羅臼よ)』を作詞・作曲し、それを自ら歌うとともに、加藤登紀子によって力バーされた。 
 2010年11月の一周忌に当たり、世田谷区が千歳船橋駅から旧森繁邸へ抜ける世田谷区道を『森繁通り』と命名することを決定した。 
 2014年千歳船橋駅前に、森繁氏が『屋根の上のヴァイオリン弾き』で演じたテヴィェ役姿の胸像が設置された。 
自宅が船橋3丁目、通称「弁天山」のあたりにあった。鳥山川が大きく蛇行する場所にあり、洪水の時に船を出したと言われている。 
 【東京映画撮影所】森繁邸に隣接した場所にあった。1962年東京映画が品川区上大崎から移転してきた。 
同社の代表作で東宝の看板番組となった「駅前シリーズ」や「社長シリーズ」のセット撮影が行われた。レンタルスタジオとしても使われ、円谷プロダクションのテレビ映画『帰ってきたウルトラマン』(1971年一1972年)、『ウルトラマンA』(1972年-1973年)、『ウルトラマンタロウ』(1973年-1974年)の常設セットが建てられた。1980年以降は活動を停止しており、その前後に撮影所は更地になり、現在はマンションが建っている。 
 【千歳旅館】現在の千歳船橋駅前郵便局の辺りにあった旅館。撮影所があったころは、俳優や映画関係者がよく泊まっていた。 
 【砧映画村】1930年代から70年代にかけて、成城から祖師谷、船橋にわたって撮影所が多数設立されたことから砧映画村と呼ばれた。いまでも成城・砧にTOHOスタジオが残っている。(以下略) 

東京映画スタジオ>(光跡)

 古い住宅地図より

建設中の「テナス千歳船橋」には下記の宣伝文がある。

>数多くの作品を世に送り出してきた 東京映画撮影所跡地。「テナス千歳船橋」の計画地は、かつて東京映画撮影所があり、多くの名作と感動を生み出してきた場所。一方、千歳船橋は、国民栄誉賞も受賞した名優が生前愛した街としても知られ、約660mにわたって森繁通りが存在。多くの物語を紡いできたこの地に自分ならではの物語を刻む──。それもまた、この地に住まう醍醐味といえるでしょう。<

Googleマップから作図(世田谷区船橋3-4)

森繁久彌さんの次男森繁建さんと長女和久昭子さんが執筆された「人生はピンとキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌」の表紙

東宝映画DVD「サラリーマン清水港」

東京映画撮影所は1962年から船橋で撮影を始めたようだ。1962年の作品なのでAmazonから購入した。(船橋まちづくりセンターで上映すれば、当時の民家や畑でロケをしている証言が聞けるかも・・・。東宝に上映許諾を問い合わせ中。)

(了)

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 戦争はいやだ調布市民の会「... | トップ | 秘蔵写真<vol 8 新宿のう... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

世田谷日誌」カテゴリの最新記事