アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

だいぶ前 ペルシャにそこを明け渡して一部が付いてきたと書いた アレクサンダー大王はそっから後

2019-12-06 23:31:15 | 神仏
字体的にはペルシャ系のカクカクした感じ 出てる
ハラッパ文字は絵的で丸みを使ってるし

根本的に難しい字 字数が多いほど集中力あって神経細かくないと使えない

ハラッパ文字はアフリカ系でマヤ系混ざってると思うね
アフリカの像とか見ると人の描き方も模写というよりイラストに近い

模写で言えば中世絵画はよく出来てるよ。
あの繊細さと集中力は美術では人柄も表すと思う。

絵と字だな 文明で追う前提。それと並行するか建築、土木。
全部 技術職のレベルを表す。

大王だの何だのは そういうものをどうまとめたか侵略的軍事的ならば
評価の対象になるかどーかというところ。

だいぶ前 ペルシャは付いてきたんだと書いてる
バビロンが軍部まとめて、据えてたと思うか?

逃げて歩いてたって書いた事あっただろ
追われて逃げてたって。

聖書だって 見た人の意見だったり体験した人の意見が本体だ。
それが神本だっていうのは 見た側がそれだけ知ってるという立ち位置での
理論なのよな。

イスラムもヒンズーも 見た側の伝記であって、全部預言書という位置づけで
神座に君臨してたようなもんだ。

アレクサンダー大王のウィキをさっき見たけど、優秀なのって
庶子から出てくるんだぞ?

王家だなんだ言ったって。

それ考えたら イギリスあたりでは、王家ってなんだろうねってなるだろう。

いつだったか バビロンはギリシャとマヤとペルシャの優秀技術者の集まり
と記してる。ちゃんと繋がってるじゃねーか。






アレクサンダー大王は君子で統一に動いた人だな
そん時 バビロンあったんだから すでに。
軍隊のほうか
かなりの金掴まないと、それだけの遠征も出来んし軍隊を動かせない。
それが出来たっていうのは この人ギリシャ人か?

バビロンでスポンサー的に金を工面したか?
軍隊は金ないと基本的に運営出来ない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B93%E4%B8%96


 
紀元前334年、アケメネス朝(ペルシャ帝国)に侵攻し、10年に及ぶ大遠征を開始した。アナトリアの征服後、イッソスの戦いやガウガメラの戦いといった決定的な戦いによって強大なペルシャを打ち破った。そして、ペルシャ帝国の王であるダレイオス3世を破りペルシャ帝国全土を制圧した。その時点で彼の帝国はアドリア海からインダス川にまで及ぶものであった。
紀元前326年、「世界の果て」に到達するべくインドに侵攻し、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族に勝利する。しかし、多くの部下の要求により結局引き返すこととなった。紀元前323年、アラビアへの侵攻を始めとする新たな遠征を果たせないまま、首都にする計画だったバビロンで熱病にかかり32歳で死んだ。その死後、彼の帝国は内戦(ディアドコイ戦争)によって分裂し、マケドニア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。

1926年からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。 



気持ち悪いだろ?


アレクサンドロス3世はピリッポス2世とエペイロス王女オリュンピアスの間に生まれた。ピリッポス2世はヘーラクレースを祖とする家系で、オリュンピアスはアキレウスを祖とする家系であったから、ギリシア世界で最大の栄光を持つ両英雄の血筋を引くと考えられ、家系的栄誉はギリシア随一であった。 
エジプトは11年前の紀元前343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。アメンはギリシア神話のゼウスと同一視されており、これはアレクサンドロス大王はゼウスの子であるという神託に等しかった。また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。
エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開する。
ペルシア王国を征服したアレクサンドロスは次にインドへの遠征を開始した。 
インドにおいて最も勇猛なカタイオイ人も制圧
バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、蜂に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日、32歳の若さで死去 

ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化はアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、ラオコオン、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された。エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリスタルコスらの学者も輩出、その後古代ローマに強い影響を及ぼし、サーサーン朝などにも影響を与えた。 

ヘーラクレースへの挑戦アレクサンドロスは、自らがギリシア神話最大の英雄ヘーラクレースの子孫だと信じて疑わなかった。インド北部に侵攻した際には、ヘーラクレースですら落とせなかったとされる難攻不落のアオルノスという岩山を陥落させた。しかし、これはアレクサンドロス大王のご機嫌を取るための浮説であり、現地にそういう伝承は存在しなかったとされる[注釈 5]。 

☆インド北部って通ったルートのようなラインだな

アレクサンドロスがペルシア領であるリュディアの州都ゴルディオンを占領した時(紀元前333年)、町の中心にあるゼウス神殿に一台の古い戦車が祀られていた。その戦車は“ゴルディオスの結び目”と言われる複雑に絡み合った縄で結わえられており、「この結び目を解いたものがアジアの支配者になる」という伝説が伝えられていた。その伝説を耳にしたアレクサンドロスは腰の剣を振り上げ、一刀のもとに結び目を切断し、「運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と兵たちに宣言した。 

一次史料[編集]
  • カリステネスの従軍記
  • ネアルコスの従軍記
  • ネオシクリトスの従軍記
  • アリストブロスの従軍記
  • プトレマイオスの従軍記
  • クレイタルコスの大王伝
  • バビロン王宮日誌(実在を疑う研究者も多い)
  • バビロン天文日誌
これらの同時代史料は全て散逸している(バビロン天文日誌は、サマリー版の粘土板が発掘されており、アレクサンドロスと思われる王の記録の記載が若干残っている)。


☆多分 一部は合ってる。あとはフカシや誇張、脚色などで狂ってると思われれる。

昔のギリシャ人の建造物見ても装飾の美しさと繊細さは建築物に残ってる
あれが建築得意なんだろうと昔書いたきっかけ。

ペルシャは土木が得意だったと昔書いてるのは治水や地盤関係
あと水路とか

んでマヤ系は理数 んで医学 天体 化学とか
こう書いてる。

バビロンが世界の言語をバラバラにした伝説考えてみろ
城を据え構えて長らくいたと思うか?
下手したら追われる 探される 憎まれてる側だぞ?
聖書とやらでも長らくバビロン大淫婦と書かれるほどだったんだから
ユダヤ人ユダヤ教エリアにいると思うか?

あたしは預言者でもなきゃユダヤでもない ユダヤ人バビロン捕囚ってもんが
何千年と残された あれが一体何?っていう そのバビロンでしょう

あたしは軍人より職人技術者のほうが好きだ
寝る

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする