




桑折の言い分
真野五郎は俺桑折だ←いいえ
権現おさめたのは俺桑折だ←いいえ違います
これを霊山略記の自分の言い分を掲載させ、その言い分を日吉神社の看板に入れさせた桑折
人殺し行為
真野五郎は則家 桑折の申請してたヤツは桑折なんつったっけ?? 桑折五郎??


そして この内容は別にあった便箋の内容だ
多田野を継いだと洗脳されていたこと
郡は親戚だと嘘をつかれてたこと


郡には恨みがあると言ってる。なんせ 郡は唯野新八 つまり鬼風の関係者だから。

そしてこの火災の時 熊野権現と錦の幟旗を焼失したとさんざん 嘘つかれてきた。
ここの行政 ここのエリアいったいに。
なんもなんも、山王大権現としておかしな物体 文化財として登録してんじゃねーか!
これがこの時の火事に持ち出した熊野権現だろ
郡 桑折 お前らは俺らは親戚だみたいな事を抜かし、火事でにげまどううちの家系を
かばってるフリして火事場で幟旗と熊野権現持ち出したな

持ち出してこれが山王大権現ですと偽りまくって、あたしんちにある本尊は偽物だと
吹聴しまくったのもここら野馬追い関係者
つまり 罪着せをとんでもないほどやってきて、殺害未遂も含め、窃盗強奪 それが素性と
あたしが言ってきた数年は確実な証拠があってのこと。
きっと叔父たちの子孫も腸煮えくりかえってるだろう。
あと顕家信仰者も、これは許しがたい現実に直面してる。数ヵ年あたしの提示してた事
ちゃんとあれこれ証拠があった。
フライングしてただけ。
そしてあたしんちにあった錦の幟 桑折と郡は霊山神社に持ち込んだか??
この前 霊山神社に南朝の錦の旗があったと新聞に出ただろ。
あれ うちのだろ。
隠れて賄賂がわりにして、そんかわり奉戴踊りは俺らだと書いてくれって。
霊山略記は昭和11年あたりに書かれてて、うちの先祖はそれ以前霊山神社をつくるのにも
関わってたはずだ。大正時代には確実に行き来があったんだから。
それ以降だから あの編集。それまでは隠し持っててあの編集するという時に幟旗を
出して奉戴踊りは桑折だと書かせ、あの編集サイドが青森浪岡と鵜飼という宮司だから。
あと関係したのが村上源氏の岩倉具視の子孫。
あの錦旗がうちのでないなら、鹿島大火起こしたその愚民大衆の抹殺行為。
事件。
さらに中舘にいた なのに居たことにされてない 桑折らが俺らの城だと言い張って。
郡 桑折 これだけで、ブチギレ起こさせてんの わかるよな??
それに浜名の屋敷をうちが買う??
これだけで大発狂 鳥肌 身の毛もよだつ。血圧あがる。なんか ぶっ壊したいな。
平常心でぶっ壊しそう。
うちの莫大な金窃盗盗賊人殺ししてた人間たちサイドのご都合論文は結構だ。
徳川幕府を乗っ取りした連中が徳川嫌いと言わせてるのも、ちゃんとわかってる。
自分らの時にとても国内がよろしくなくて、自分らの不始末 出費 たくさん起こしてた
のを徳川幕府と言わせてカモフラしてきたんだ。
地下家
地下家(じげけ)は、昇殿が許されない廷臣の家格。江戸時代には約460余家あった。
目次 [非表示]
1 歴史
2 地下家の世職
3 関連項目
4 脚注
5 参考文献
歴史[編集]
昇殿とは天皇の日常生活の場である清涼殿南廂にある殿上間へ昇ることで、公卿以外に昇殿を許された者を殿上人、許されない者を地下といった。9世紀(平安時代中期)以降、昇殿を許されるかが朝廷の身分制度として重要な意味を持つようになったが、はじめは天皇との私的関係に基づき、個人に許されるものであった。しかし、公家社会において世襲や先例重視の傾向が強まるとともに、昇殿を許されるか、どの段階で許されるかは、出自(家格)によっておおよそ決まるようになっていく。中世以降は、昇殿を許される家(堂上家)と昇殿を許されない家(地下家)という家格が、明確に区分されるようになり、地下家の概念が成立した。後には、地下家の廷臣は三位に昇っても昇殿は許されないようになった。
なお、六位蔵人の最上位である極臈を1代で3度務めるか、3代連続で務めた家は堂上家となる例があったが、実例は少ない。また、堂上家と同様、旧家・新家の区分があったが、桜町天皇(在位1735年 - 1747年)の時代にみだりに新家を立てることが停止された。
維新後、地下家の筆頭格であった押小路家・壬生家は堂上家に準じて、また、伊丹家(重賢:青蓮院宮諸大夫)・尾崎家(三良:三条家諸大夫)・富井家(政章:聖護院宮坊官)は勲功により華族(男爵)に列せられた。だが、押小路・壬生の両家に次ぐ蔵人所出納の平田家以下、ほとんどの地下家は原則として士族として扱われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%AE%B6
んじゃな。たとえばこの前の霊山神社から出たとされてる幟旗 あれがうちのだったと
したら、郡・桑折らによる火事場泥棒しか考えられないの。
熊野権現まで持ってたとちゃんと記録あんだから。それ熊野権現はない。
しかし、なぜか山王大権現はあるというこいつらの文化財資料はある。
しかしその大権現はうちにある。
これどういうことか。その行政で載せてきた山王大権現本体にすりかえておいた熊野権現
じゃないかと言ってるんだ。子供だってわかるだろ??
まさか コナン観て育った子供らが、この考えを否定しないと思う。
そして幟旗が村上天皇の子孫たちの手元にあったものだとすれば、うちのではない可能性。
うちのではないと、きっぱり言わない理由は、うちで豪商と呼ばれてたほどの規模
商売やってた。その商売すら、子供らはな 教えられてこなかったのに唯野新八 鬼風
という売名の本にはロウソク屋と書かれてる。さらに呉服も扱ってたフシもあり。
そーなると、あたしが持ってる先祖の遺品に呉服で作ったバックがある。
バックというかポーチというか。
あの生地見ても、呉服もそれなりのものを扱ってた。それは京都で作って取引地域に
船で運んでたということになる。その製作 おろし 流通の過程で村上源氏のとこと
行き来してたフシがあるからだ。
なので村上源氏のとこに幟旗が流れてるとしたら、という考えも捨てられない。
しかし、ほんとに持ってたものがほんとに焼失したのかもしれない。
ただ、この前の幟旗の生地を写真で見ては、あったヤツか??とも思ってる。
この9枚の他にあと何枚か書いてるものがある。
山王大権現は北畠顕家の護神って書いてある。
いや これ騙されてる。当家は平民にてって書かれてるけど、洗脳されてる。
これやってきたの 相馬順胤サイド。
洗脳までしてパシリみたいにしてきたんだな。
金出せだの 系図出せだのと語って。そいつら八つ裂きにしたいんだが。
相馬のクソ愚民をさらに越して、殺人未遂もあるから 国費の強奪も含め。
平民じゃ大きな規模の仕事できませんけど。
あたしは曳垣廻船も 相馬にとんでもない金貸しなんてできやしない。
洗脳し 子供らをオモチャにし、タカリ、ストーカーし戸籍をかつぱらい自分らに背乗り
させてきた。
幕府から大金運んできてたというのは、当時の商売の規模がすごかったからだ。
そんで平民?? その何代以降かの子孫は親を殺されてるな??
そんで親代わりのフリしてまったく違うことを吹き込んだな??
そうでなきゃ、この今までの経緯が辻褄合わなくなる。
殺したんだ 中舘焼き討ちして。
その後だから 浜名から元は川だっていう屋敷跡に移ってるのは。
あそこで神事やってたとあたしは提示してる。なのにある時からそこに建物はなかった。
もちろん建物あればうちでは住み続けてたはずだ。
浜名なんかに土地もらう必要ない。
浜名の先祖たちが作ってきた大罪 子孫の子孫のえんえんと子孫になって
世界にその犯罪 暴露されてんだぞ
おっそろしいな


天皇やえらーい人しか使わん 花押しは。

あたしは世界と取引してる結果だから 今。
叔父の孫しか今思い浮かべてない。それは原町にいた叔父だ。
小さい頃 行くとよく刺身を買って食えと言われて膝の上で食わせられたものだ。
こんな調子だから将来 墓だってどうなるかわからん。
しかし、お墓参りに来てくれんなら ぜひ 線香もあげてやってくれ。
先祖たちに。
身内という身内 みんな金めのものだけ持って逃げたヤツばっかりだ。
和解などない。何千年こんな事になってるのか。
霊山神社に相馬藩関わってくるな 本来はさし殺すレベルだ。当時者だから。