アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

カリアゲ パクったかのようなキノコ栽培推進! ※だから模試燃料だってば

2017-04-08 15:58:01 | 時事

北でイノハナ作るのか?? 出来た際はぜひ あたしに食わせてくれ。

下手な連中より、はるかに柔軟ではるかに素直。こーいうのは育つ育つ。

ただ、何かが足りないだけ。

限られた時間に限られたブログ書いてるわけで、いかに貴重か カリアゲはよくわかってる

ようだ。

キノコは水ないとダメだど。土木がいまいちらしいから、淡水確保もしたほうがいい。

自然豊かで水ありますというならば、かなり生産性あがるんだから。

あとな。自然食の材料やりだしたらわかるだろうけど、産廃のゴミ処理うまくやんないと

公害で水やられちゃうから、水の検査はたまにやっておかんと。

ゴミの埋め立て地は水のある場所から離してやらんとダメ。すぐ流入しちゃうから。

ほんで入られてるとなれば、工場排水はフィルターや分離かけて排水しなきゃならなくなる。




【北朝鮮】金正恩氏がキノコ工場視察 「わが国をキノコの国にするのは党の確固たる決心だ」[04/08]©2ch.net

1 : のっぺらー ★@無断転載は禁止 ©2ch.net2017/04/08(土) 12:32:41.03 ID:CAP_USER
朝鮮中央通信は8日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が平壌のキノコ工場を視察したと報じた。
日時は伝えていない。
工場は金氏が建設を提案し、昨年10月に完成したという。

金氏は、工場設備が国産の技術と資材でつくられたと指摘し「党の国産化方針を徹底的に貫徹した」と評価。
「わが国をキノコの国にするのは党の確固たる決心だ」と述べ、
「キノコ栽培でも世界を圧倒するという目標を立てて技術レベルを高める」よう指示した。

朴奉珠首相や趙甬元党副部長らが同行した。

以下ソース:共同通信 2017/4/8 11:32
https://this.kiji.is/223269311572606977?c=39546741839462401

日本原子力開発機構でいつかやってほしいのは山の斜面でキノコ作り試験
2017-04-07 10:30:03 | フクイチ
過去 自生するキノコを採って食ってきてるから 里山で。

除染効果のデータ採りと並行して、いくつかのキノコの菌類を持ってきて自生させ

その実ったキノコの放射性物質の反応率調べてほしいんだな。

あたし個人ではキノコがバロメーターという感じなのさ。

今までは半減期も見ながら まだ早いっていう見込みでいたんだ。

あたし個人は調査の土台にキノコ使ってほしい。



噂話するAさん 「あの人 山の除染もやってるね」

噂話するBさん 「あの人 山の除染になんで関心あるかって たんにイノハナ食うって

執着してるからだそうだ・・・笑」



動機はイノハナ

それがためにとんでもない人たち 動員されてる・・・



「マツタケじゃないの?? はいイノハナです」

イノハナ救済のためにマツタケも救済される構図



将来 どこかの歴史書に書かれる。

天皇がイノハナ食いたいと言ってたくさんの人が山林除染に関わったと・・・

どこの馬鹿天皇だと・・・



そのおかげで全国の山林関係者が活気付きましたと・・・笑

あの人のおかげで、死んだ山いくつか 復活しましたと。言ってください。



えこひいきだよな ひそひそ。。。

となってるでしょうが、実はその吸着プロジェクト 原発分だけで見ていません。

今太陽光パネルあちこちにあると思うけど、太陽光パネル設置エリアで将来起こりうる

公害対策も視野に入れております。



そのためのいい材料つくりとやり方 試行錯誤してる最中です。

金の無駄づかい!とは思っていません。

さらにこういうの 確立すれば林野庁関係にも大きな貢献もたらすはずですんで。





400 : <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@無断転載は禁止2017/04/08(土) 16:04:51.33 ID:VlnT2oQ2
でも なめ茸は大好きです♪^^

なめ茸は まだ瓶で売ってるけど
そのうち、ポン酢みたいな、プラ容器に変わるんだろうか?


←お前さん知らない?? なめ茸でマヨネーズ容器に入ってるヤツあるんだ。

ビンのほうより、こっちのほうが日持ちする気がする。

なめ茸は幼少からのおかず。





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今ならば言える。兵隊を守るために一時撤収した。

2017-04-08 14:03:44 | 日記

そんだけ カルト神道は大きな人数を扇動すんのが得意ってこと。

これは絶対忘れてはいけない。

当時の戦の兵隊の数 軍力 金 すべてないと大軍を移動させて勝ちにいけない。

勝つためには一時的に風を止める事もわかってる。

この南北朝戦争の後 北朝系列の天皇が行事はじめてからは数代でそのボンクラ公家たちは

飢餓一歩手前までいってる。財政難で。

つまり、この南北朝の戦いの時に、そうとう金を使って勝ってるということ。

今の世界情勢見たらわかること。

そこでわざわざ撤収したのは赤壁の戦いを知ってたな 下手すると。

知らなかったとすれば才能。

そこで撤収してなきゃ赤壁のごとく出先でバタバタ死人が出たかもしれないし、さらに内通者

派閥ができて分裂したかもしれない。

そこで山ほどの兵隊を死ぬまで使って足利つぶしにかかれば有利だったのは間違いない。

どういうわけか あたしに歴史を語ってきた連中は、自分らの勝ちを誇りまくる。

うざいぐらいに。

そういう分子 兵隊山ほど死なせても焼き尽くせば良かったのよな。

それをしない顕家の人柄があんまり良すぎたということか。

やっぱサイコパスぐらいまでいかんと、キチガイ猟奇の群れは・・・

楠木はいまいち あやふやな部分もあるけど、とりあえず那須与一は武芸達者の母南朝

家系。どうも那須はクリアで白河がアウトな感じ・・・

あと伊勢国司だの伊勢神社はやっぱりアウトでも伊賀がクリアという線濃厚。

ちなみに松尾芭蕉は伊賀。その芭蕉庵出資にうち。江戸幕府がうちに国費を納めてきてた

という伝説はガチなのもわかるだろう。



全国の天台宗の総本山 滋賀

鹿島の日吉神社も同じことしてきたんだ。



本体はない。しかしここが神社だと。

本体はいつでもうちだった。



天台宗では阿弥陀と言い 日吉神社では山王権現という。

滋賀はあたしんちの歴史を背乗りしてきたのか。いや滋賀も 他にもあるそういう地域。



あたしが言い出して何度も書いてること。

いいやこれは嘘ですと、さっさと認めてればこんなことになっていない。

いいや、ありますと何十年と言ってきたけど 何百年と言ってきたけど実はないですと

認めてそこで是正してれば、何も知らない人はあーそうなんだで済んでた。

謝られても済む話でもない 規模が日本史つくがえるレベルだから。

それをさんざん 調べてるのに妨害し続け、陥れてはかっぱらい悪態三昧。

それを口が軽いからどこまでも拡散し、あげくチラシ配りまくり

さらには自分らの正当性を本にして売り、さらに映画にしまーた拡散。

つまり 常に罪をこちら側にかぶせようとする責任転嫁。

集団洗脳。




こーいうもの達の先祖もまた同じことをやらかしてるわけだ。

戦になった理由はこーいうことなんだが、大衆ははたして これでもあたしを悪というか。

こっちは直してもらえばよかった。嘘は嘘だとさっさと言わせたかった。

盗んだものは返してほしかった。

集団洗脳カルトを増やして侵食していく連中を蹴散らしたかった。

ブレインというものは、脳でありあらゆる戦略や攻略法を繰り出させる人間でなきゃ

いけない。

それを殺されたとしてその後どーなるのか。

殺されて、負けたとされておきながら、それでもやはり戦は起きたじゃないか。

木曽義仲。

満仲の後継者は頼朝なんかじゃなく源義仲。

八幡義家の義をとって 満仲の仲をとって。

木曽義仲はうちサイドの人間だった。それが頼朝と頼朝の兄弟として手伝いさせられた義経

つまり源平合戦。

義仲は八幡義家と満仲のれっきとした後継者だった。

源平合戦の後 天皇という存在とその周辺は財政難で位を下げ 位を下げ

いかにして金を持ってこさせるか 考えてた連中だ。

その時代から1000年経とうが どーも手口は同じだったらしい。

ならば過去の戦のなんたるかを調べ上げて それに対峙する。



北畠勢は青野原の戦いに勝利したものの、長期の行軍と度重なる戦闘に疲弊したため、新手の足利勢と戦う力はなく、近江から京都への突破をあきらめた。北陸の新田義貞と合流する選択肢もあったが、北畠勢は伊勢国・伊賀国を経て吉野へ向かった。伊勢方面に転進した理由としては、北畠氏が根拠地化しつつあった伊勢で力を立て直すためとも、新田義貞に功を立てさせるのをきらったためとも言われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

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やっぱりな。関の孫六は南朝の刀。これで岐阜 関市まで繋がった。

2017-04-08 13:46:20 | 日記

孫六兼元 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/孫六兼元 - キャッシュ
孫六兼元(まごろくかねもと)は、室町後期に美濃国武儀郡関郷(岐阜県関市)で活動 した刀工である。兼元の名は室町時代から江戸時代を経て現代にまで続いているが、 そのうち2代目を特に「孫六兼元」と呼ぶ。「関の孫六」の名でもよく知られる。尚、孫六は 、兼 ...
概要-作刀期間-作刀の特徴-大衆とともにある名工の代表者

関の孫六(せきのまごろく)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/関の孫六-1351378 - キャッシュ
兼元を名のる刀工は室町中期から江戸時代にかけて数代,数工いるが,最も著名 なのは関の孫六といわれる室町末期の大永・享禄(1521‐32)ころの2代目兼元である。 一般に室町末期の美濃刀を末関物(すえせきもの)と称すが,これは武儀郡関(現,岐阜 県関 ...



関城・大宝城の戦い(せきじょう・だいほうじょうのたたかい)は、南北朝時代に常陸国筑波山西麓にあった関城・大宝城(現在の茨城県筑西市・下妻市)を巡って争われた攻防戦のこと。

常陸国・下総国の諸将は建武政権に従いながらも所領を巡って対立を続け、延元の乱をきっかけに北朝側と南朝側に分かれて争うことになる。結城氏・小山氏・佐竹氏・大掾氏などは北朝側、小田氏や結城氏の庶流である白河結城氏・関氏・下妻氏などは南朝側についた。

延元2年/建武4年(1337年)頃より北朝方の攻勢によって関氏と下妻氏はそれぞれの居城である関城と大宝城での籠城を余儀なくされていたが、翌年9月に東国及び多賀城の掌握を目指した北畠親房の船が常陸国に漂着、11月に北朝側の襲撃を避けるために小田氏の本拠である小田城に入ると、翌年には南朝方として小山氏などと戦っていた春日顕国も合流、南朝側はこうした集結の動きによって勢いづいた。

ところが、興国2年/暦応4年(1341年)に入ると、吉野から浄光が後村上天皇の綸旨を奉じて東国に下って独自の命令を発し、関白近衛経忠が自らを盟主として東国の南朝方勢力を結集する「藤氏一揆」の構想が明らかになると、東国における北畠親房の政治的立場は動揺し、これに乗じた北朝方高師冬の工作も活発化した。同年11月には小田治久が北朝方に離反、これを知った親房は関城へ、春日顕国は大宝城に逃れた。

高師冬はこれを知って関城・大宝城を攻めるが、当時の両城は大宝沼と呼ばれ沼(現存しない)の北畔と南畔の高台に築かれ、三方を水に囲まれた堅城であった。高師冬は周囲の南朝方を攻略を続けながら両城の包囲を続け、北畠親房は白河結城氏の結城親朝に救援を求めた。この時、北畠親房が結城親朝に書いたとされるのが、『関城書』である。

だが、関城・大宝城の水路での連絡を絶つことに成功した北朝方に対し、南朝方が来援を期待していた結城親朝は本領である白河荘が北朝側の攻撃にさらされて孤立し、興国4年/康永2年(1343年)8月に北朝方に離反した。そして、同年11月11日に北朝方による総攻撃が行われて、翌日に関城・大宝城が相次いで陥落[1]、北畠親房・春日顕国は辛うじて脱出したものの、関宗祐・宗政親子[2]及び下妻政泰は討死した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%9F%8E%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

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