「やっぱ、花は未だだな」
「残念よね。開花予報日までたった後三日よ、ねっ、その時一緒に又来ようよ。
それまで出発延ばす訳にいかないの?」
咲良は柔らかな口調で徹にささやいた。
薄曇りの空の下、不愛想に固く閉じた桜の蕾を見ながら二人はため息をついた。
蕾が微笑み婉然と開くとき、この海辺の公園は生まれ変わった様に華やぐことだろう。
「自分が発つには、花の咲かない今日が良いのだ」と徹は思う。
「いいよ。日本の桜があんまり綺麗だと里心がつくから」
「いつか見る桜ね」
「君と一緒には、未だ見ぬ桜だ」
「ミステリアスな桜ね」
咲良が微笑む。
徹にはその笑顔はふわりと匂い立つ桜の様に見えた。
(可愛いよ、咲良。俺は君が世界中で一番好きだ)
口には出せぬ言葉を徹は呑み込む。
咲良には海外出張と言っているが、今夜徹は二度と戻らぬ旅に出る。
人を殺した、なんてこの人に言えるだろうか?
ましてや妻を殺した、と彼を独身と思い込んでいる愛しい女に決して言えない。
咲良を騙すつもりではなかった。
咲良と知り合う前から徹は独り暮らしをしていた。
彼は別居した妻、美奈との別れ話が進んでいるところだった。
しかし、咲良との交際を美奈の友人に知られた時から徹の修羅が始まったのである。
妻の美奈は般若の形相になって徹の許を何度も訪れた。
「騙したのね」と徹をなじった。
徹は何度も咲良と付き合っている事実を否定し、その場を逃れた。
最後に美奈が訪れた日、美奈は徹の苦し紛れの嘘は受け付けなかった。
誰に聞いたのか、咲良の住所まで知っていた。
「あなたは散々勝手な事して、私がどんなに苦労したか分かりもしないで。絶対別れてなんてやるもんか。
あなたなんか一生幸せになる資格ないわよ。
いい子ぶったあんな女も早く死ねばいいんだ」
彼の頭に血が上った。
「お前こそ、俺を苦しめぬいて悪魔のようだ。死ねばいい!」
思わず強い力で突き倒した美奈はもろに後頭部を玄関の叩きに打ち付けた。
ピクピクと痙攣を繰り返した後、美奈は動かなくなった。
土気色の顔をしている。
徹は彼女が息をしていないのを確かめて、耳鳴りがして来た。
世界は真っ白に見えた。
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