それから。
稀衣は法律関係の本を読み漁り相続法や土地税法を学んだ。人に尋ねず書物から得る方が彼女にとってやりやすいからだった。
その上で然るべき報酬を払って相続の手続きを済ませた。
田貝は古い道徳感の持ち主である他は極めて実直な司法書士で正確に処理してくれた。
彼女はM町の屋敷に目立たない格好をして二度ほど訪れている。
駅からかなり距離はあるが、近くに店やバス停があって思った以上に開けた場所だった。なるほど、売り払うには難しい山林や田畠であるが、都会人の目で見ると野趣に溢れていた。又、家屋敷をざっと見たところは形は保たれている。もっとも即住める状態ではなかったが。
維持費用の見積もりを田貝に出してもらい、法律書と照らし合わせてから、彼女は取り敢えず気持ち悪い今のアパートを出て小体なワンルームマンションでも購入しようかと考えたのである。
彼女は盛んにスマホで住宅のネット検索をした。
40平米以下の物件だとかなり手頃な値段で入手出来る。検討した結果、彼女好みの乙女チックな外見で閑静な住宅街に立つマンションを見学に行った。
担当営業マンは盛んにチヤホヤ扱ってくれた。それは若い女性が現金払いでマンション購入してくれるのである。悪い気はしないだろう。
そんな事情を稀衣は考えもしない、熱意を込めたイケメン営業マンの眼差しに「ひょっとしてこの人私に気があるのか?」と喜んだだけである。
アパートから逃げ出したい一心で、気前よく購入したマンションである。
高層住宅が許されない高級住宅地の為、3階
建のお菓子の家のような築3年のマンションの一階を稀衣は購入した。
ここは、初めての「私の家だわ」。
稀衣はせっせと家を丁寧に掃除して、ベランダに可愛い花ばかり選んで鉢植えを並べた。リッチなパンを売る店で朝食のパンを買い、コーヒー豆をひいて香り高いコーヒーを飲む。
しかし、以前のように下品な会話が聞こえる恐れはないものの、周りの人が妙に冷たい感じがしてならなかった。
部屋が狭いので住民は単身のサラリーマン、ウーマン、若しくは引退し切った高齢者が殆どで、いわゆるプー太郎の稀衣は違和感を感じる。
親しい人には優しい表情を作っても、よそ者の稀衣を見ると硬い顔つきになる、と稀衣は感じたのである。
働いていた時の充実感は当然無い。又、叔父の死によって稀衣にとっての縁者は遠く離れた鳥取県に住む従姉妹だけである。
学生時代からの友人に全てを話すには稀衣の持っている財産が重すぎた。家の事情、特に両親の離婚や父親の負債について誰にも話していない。
稀衣は止せば良いのに再びネットで家探しを始めたのである。
例の若い担当営業マンは何故か直ぐに異動して、家の売買について相談する相手がいなかったからだった。
ネット上のマイホームを次々と漁る稀衣に又も得体の知れない夢が膨らんできた。
「今持つ土地や家を同時に売り払っても誰も文句を言わない筈、だって正当な手続きをとって手に入れた私の土地だもの」
貧乏人が労ぜずして一気に金持ちになった危険な高揚感が稀衣に満ちていた。
何事も成さぬまま数ヶ月が過ぎた後、又も稀衣が愛用するパソコンやスマホの具合がおかしくなってしまったのである。
例のSNSは退会して、友人とはメールや電話で毒にも薬にもならない会話をするだけの稀衣に発信先が不明のメールや電話が毎日のようにかかってくる。
電話番号を変えても、アドレスを複数持ってもかかる。電話は全て発信元が非通知である。
気味悪い事に、稀衣が相当の遺産を得た事自をよく知っているようである。
稀衣の友人関係まで掴んでいる。
いわゆるフィッシング詐欺に近いと一切触れないで削除してるが、連日続く。
ネット検索をすると、即いかがわしい動画が画面に登場してくる。
「イヤだー。気持ち悪〜」思わず稀衣は叫んで、急いで窓の外を眺めた。誰か私を覗いてるんじゃないか?
パソコンもスマホも壊してしまいたくなる衝動に駆られてきた。
悪夢のような日々が永遠に続く気がしてくる。誰がこの悪戯をしてるのだろう?
怨みを持つ人って。まさか?
ネットで批判したあの教団?
ひょっとして批判した政府?
まさか、彼らがこんな小者を相手にする訳ないじゃない。
幽霊のように見えない敵は何故自分のネットに入ってくるのだろう?アドレスや電話番号、Wifiのパスワードを知らないと入ってこれない筈だ。
まさか(゚∀゚)
この近くに居る人?それもストーカー?そう考えるのが一番妥当だ。
ドッと恐怖感が襲って、あきらかに常軌を逸した彼女はその場にあったバッグを肩にかけ、普段着で、玄関に置いたヒールのついた靴を履き、外に飛び出した。
一階なので外には直ぐ出られる。慌てふためいて公園を通り、国道を横切ろうとしたところが、大型自動車が目の前に迫ってきた。
避けようとした稀衣のヒールの靴が脱げて足がもつれ彼女はもろにアスファルト道路に倒れた。硬い道路にしたたかに身体を打って、キリキリした痛みが体全体に広がった。
そして、可哀想な稀衣はそのまま気を失ってしまった。