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読書の森

上海ブルース その2



別れも告げられず一人残された志乃は鬱鬱とした日々を過ごした。
どれほど二人の想いが純粋なものであろうと、恋を遂げる事は多くの犠牲を伴う。
野々村の妻の名前も顔も知らないが、この人を一番苦しめているのは自分である。
身を引き裂かれる程辛いが、思い切る事が平穏な幸せに結びつく、と志乃は心を定めたのである。

文筆の道は途絶え、生活の手立てを失った彼女は自宅を売却する事を思い立った。
取引の為に町へ出た志乃は、思いもかけない町行く人の冷たい嘲りの視線に晒された。
婦人雑誌のグラビアに載った事もある彼女の顔は人に知られていた。彼女に目を止めて、ヒソヒソと囁き好奇の目を向ける夫人たちが志乃にとって刃を突きつけるように思えた。

「私たちは何もやましい事をしていない。心で想っていただけだ。それだけで彼は栄達の道を奪われ、私はたつきの道(生活手段)を奪われた。それで充分だと思う。
私は未だ彼を愛してる。二度と会えない辛さで心も体も折れそうだ。それなのに何故これほど酷い仕打ちを受けなければならないのか!」

彼女は、さんざん買い叩かれた家を売却した後、姿を消した。

取った手段は、彼の後を追う事だった。
行先は上海。
昭和18年春浅い頃、全ての財産を整理して、志乃はトランク一つで暗い日本海を渡った。

志乃は庶子である。
芸者の母と著名な政治家の父との間に生まれた。
父の認知は無く、養育費だけが与えられた。
幼い頃から利発な彼女は「芸者の子」という屈辱感に耐えた。
男と女の業を憎む故に、燃え上がる情熱を押さえつけて育ったのである。

野々村を知って初めて覚えた情熱が志乃を駆り立てていた。
その危うさを感じるよりも、ただ熱い血の滾りを身の内に感じるのに任せていた。
美貌の母が素封家に請われて嫁いで他人となった今は、己が行いを止めるものはいない。

旅慣れぬ志乃は漸く上海の日本人租界(租界はその地区を統治する意味を持つ)に辿りついた。
長い船旅に疲れ果て、心細さが募る志乃だが、さすがに野々村を呼び出す勇気は無かった。




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