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読書の森

新宿らんぶる その2

「確かに横暴とはニュアンスは違うかも知れませんが、信じていた妻がこのような工作をしたのは私にとって横暴な仕打ちと思えるのです」と冴木は返した。
「、、」
「この事は偽恋人を依頼された女性の口から聞いたのです」

狭い事務所で交わされた会話を美波は他人事のように聞いていた。
頼りがいのありそうなその男と離婚したいなんて贅沢な人だと思っただけである。

この事実を調査しようが無いので当時者に証明してもらうしかなかった。
その後妻と偽恋人が事務所に現れて事情を聞かれた。
その時美波は別件で外出しており、この話を聞いていなかった。

冴木は付き合いの良いのと比例してかなり艶聞の多い男である。
それに気を揉んだ妻が知人女性に、愚痴の合間冗談で
「好きな振りして誘惑して。それだと隠しても分かるでしょう。現場を抑えなければ離婚の理由にならないもの」などと言っただけと弁明した。
怜悧なイメージの女性は冗談にしても腹が立って冴木に打ち明けたと言う。

どう判断すべきか迷うところだが、疑われて半ばノイローゼになった妻が折れて協議離婚となった。慰謝料の額は夫の主張よりかなり高いものであった。

その3か月半後、美波は事務所を依願退職したのである。

ひと気の無い夜の路上、微かにクチナシの花の香りがした。
美波と卓は帰り道が同じで、飲み会の後並んで歩いていたのである。並んでみると卓は頭一つ背が高くて、美波は恋人と歩いているような甘い感傷に襲われた。

「どうしたんですか?先輩」
急に泣き出した美波に驚いて、卓が覗き込んだ。
本当に綺麗な目だ。アルコールの匂いと微かなハッカの匂いがする、ハッカ飴を舐めた小さな子供みたいと美波は思う。

「羽田先輩、おかしいですよ。飲み会でも」
「ハイ過ぎる?」
遠慮がちに卓が頷いた。
「呆れたでしょう?」
卓の首が横に振られた。

飲み会の時、美波はこう言って息巻いた。
「法律事務所の裏って汚かった。私、もう一回ジャーナリストの勉強し直す決心して早い方が良いと退職したの」
ビールいっぱい奢ってくれるならそんな理由はどうでもいいと、学生たちはニコニコと彼女の話を肯定したのだった。

しかし、退職にはまるで異なる情け無い事情があった。


例の離婚成立3ヵ月後に、いつものように事務を取る美波に電話がかかってきた。冴木からのデートの誘いである。
疲れを吹き飛ばすような明るい声だった。

「お世話になったお礼にお食事でもいかがと」
「ええ!私何もお役に立ってませんが」
「イヤお礼は口実かな。あなたとご一緒したいんですよ。フレンチいかがです?」

美波はふわふわとした雲の上に乗ってる気がした。
ダンディで魅力的な青年社長とデートだなんて、美波にとって大人のデートなど初めてだった。殆ど夢心地の日々が続いた。

ハナキンと言われるその日、美波はわざといつもと変わらぬ服装と髪型で、六本木のフランス料理店に入った。
清楚な印象のブラウスとタイトスカート、緩くパーマのかかって束髪である。
豪華な店を想像していたが、洒落た小体な店だった。

約束の時間をちょっと遅れた冴木はラフな背広姿で男らしい魅力があった。職場の頭は良いが堅苦しい男性達とは大違いだった。
ワインとコース料理は女性向きに甘く少なめで会話も少なかった。
冴木は穏やか笑顔で美波をリードしてくれた。
「冴木さん、お仕事柄食には詳しいんでしょう?」
「イヤ僕は二代目なんですよ。何でも食うし食事にうるさい事は無い」
「じゃあ奥様は楽ですね」と言いかけて、美波は思わず口をつぐんだ。

食事中、美波はある事を思い出して気が気でなくなった。アパートの窓の鍵をかけていないのではないか、という事である。
ソワソワしてる美波を見て冴木はくだけた調子で「出ようか?」と囁いた。

ポーとするところだが、美波は気が気で無くなった。
(部屋が二階で入ろうとすれば可能である。どうしよう)
「今日は本当にありがとうございました。とっても美味しかったです。用事があるのでこれで帰らせていただきます」
「えええ、それは無いだろう」

冴木の顔が怒りの為か赤黒く変化した。
そして外に出た時、急に美波を抱き締めてきた。
美波は怖くなってきた。
「ごめんなさい!」大声を出すと同時に冴木の手を振り払って駆け出した。
途中転びそうになったが、訳の分からない恐怖に襲われてひたすら駅へと急いだ。

帰宅すると窓の鍵はしっかり施錠されていた。多分無意識の習慣で窓を閉めていたのだろう。
ホッとしたようなガッカリしたような思いで、美波はベッドの上にくたくたと座り込んだ。


翌朝、目の下に隈を作った美波が事務所に入ると、突然中に居た女に横っ面を引っ叩かれた。
それは冴木の元妻、薫だった。

「こんな小娘に騙されて!」
「奥さん!」
「もう奥さんじゃないよ、あんたたちのせいだ」
引き裂くようにヒステリックな声だった。

ようやく事務所の中に入った薫は整った顔をして上質のワンピースを着ているものの、可哀想なほどやつれはてていた。

「あなた方が冴木を焚き付けて私と離婚させたんじゃないの。
それに離婚したばかりなのにこんな小娘が誘惑して、、」

「誤解です。お食事に誘われただけです」
「冴木が、それで済む訳が無いの!」

(確かに)と言いかけて美波は黙りこくった。この妻の興奮ぶりに漸く事務所員全員が冴木に騙されていた事を理解したのである。
可愛い容姿で大人しい妻だが、真面目一方で嫉妬深く、おまけにひどいヒステリーなのに辟易とした冴木は合法的な離婚を企てたのである。そこで人の良さそうな弁護士の揃った小さな法律事務所を訪れた。

相談されたと言う女性を買収して自分に有利な証言をしてもらう。
法律上離婚が成立して3か月過ぎると、もう修復は出来ない事になっていた。
冴木はそれを見越して美波に電話をしてきたのである。

気がつくと、美波と薫はよく似たタイプである。冴木は清純な感じの若い女が好きらしかった。懲りない男である。

しかし、この事件で美波の心はズタボロに傷ついた。
事務所側も事情を知る美波を置いておきたくないのがよく分かった。
上積みされた退職金をもらって美波は退職したのである。



かなり酔っていた美波は、感情の流れるままこの話を卓に打ち明けてしまった。
若者らしい正義感で、卓は冴木に腹を立てていた。

ただしちゃっかり美波は次の話はしてなかった。
(私が冴木を振り切って帰ったのは施錠忘れを心配したからで、冴木さんって男らしくて魅力があった。惜しい事したという気がある)

都合の良い部分だけ告白してひどくホッとした彼女は途中の公園のベンチに座り込んだ。
卓は庇うように横に座った。
見上げると真っ黒な夜空に綺麗な月がかかっていた。

「綺麗ね!」と笑いかけようとした美波の唇が卓のそれによって塞がれた。
二人を月光が煌々と照らしていた。

それが7年前、昭和最後の年の初夏だった。

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