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読書の森

新宿らんぶる その3

1994年7月の真昼、新宿東口の中央通りを羽田美波は歩いていた。
街は猛暑に喘いでいた。冷夏で凶作に悩んだ前年のお返しをするかの如く真夏の太陽は容赦なく照りつけている。

今、美波は出版社の編集部で働く。望みを叶えたと言えば言えるが、取材先で名刺を出しても首を傾げられる程名もない会社であった。

「ウチはあからさまなゴシップネタを出す訳でもない、思想的に極端な訳でもない、格調の高い固定客には人気のあるセオリーがあるモノを出す」これが創業者で社長兼編集長、黒木の言だった。
親の遺産で興した出版業は黒木の道楽で社員も好みで採っている、と美波は後から気づいた。
と言っても、下衆な根性が一欠片も感じられない世渡り下手の彼が気に入ったのは、自分と同質の人間だと判断したのだ、と思う。

政治、社会、文化、芸能一般の記事を任された編集部員三人、いずれも変わり者で、掃除婦も兼ねた事務のおばさんとアルバイトと黒木、が代々木にある古い貸ビルを根城にして、日々悪戦苦闘する。給料は低いし、仕事はキツイし、縁はますます遠くなるし、と美波はグチりながらもここ程自由な居場所は他に無いと、今日も働いている。

それにしても暑い!美波が空を見上げた時、前方の若い男と目が合った。
つまりそれ程接近していたのに気付かなかったのである。
「失礼(ね)」と言いかけて、彼女は言葉を呑んだ。

「横山!横山君じゃないの?」
「そうです」
驚いた顔もせず彼は答えた。
「ずっと気がついてました」
「ごめんなさい。忙しいし暑いし、ぼうっとしていて」
「先輩、近眼ですからね」
「そう、コンタクトが合わなくて」

(何を言わせるのだろう、又)と美波は睨んだ。
「お互いにこんな事言ってる場合ではないですね」
(当たり前よ。仕事中です)

「先輩、電話番号教えてください」
「何よ。突然!それに」
と怒りかけた美波の前にメモ用紙とボールペンがヌッと差し出された。

「デタラメ書いたらどうするのよ」
「先輩は絶対ウソをつかない人だから」
又、あの目だ。と美波は思う。
卓の澄んだ綺麗な目で真っ直ぐ見つめられて、プリプリしながら美波はメモ用紙に自宅の電話番号を記した。

「歪んじゃったけど」
「いえ全然。よく分かる字です」
「あのさ、あなた自分のを教えないで何なのよ。それに私んちに電話して(個人の携帯が普及していない時代である)ダンナが居たらどうするの?」
「そうだったら、あなたみたいな人がこんな所仕事で歩いてる訳ないじゃないですか」

美波は人目がなければ大声で怒鳴りつけたくなった。

「すみません、実はぼく今神戸に居るんです。なので先輩から電話して電話代かかるといけないと思って」

卓はニコッと微笑むと「じゃあ」と手を振って雑踏に消えた。
美波は唖然としたままだった。

「何だろう。あの人。あの時のまんま」

再び7年前に遡る。

美波がうっとりと目を閉じた時、卓の唇の感触が消えた。
ビックリして目を開けると、卓は哀しそうな顔をしている。

「すみません、失礼な事してしまって」
(途中で止めてしまう方が失礼なのですよ)

「あの、初めてなので。怖くなって」
「嘘!(実は私も初めてなのに)」

悪事でも働いたかのように恐縮している卓を見ていると美波はやたらと腹がたってきた。

ロマンチックな気分は一変して、しらけた表情で二人はそれぞれの寝ぐらに戻った。
その前聞いたところによると、卓の下宿は美波の住むアパートと目と鼻の先にあって、ベンチのある公園を挟んでいるだけだった。

火がつけられた心が収まらずに美波は休みの日に卓の下宿を訪ねた。
しかしそこに卓は居なかった。早々に別の場所に引っ越したと言う。尋ねた同じ下宿の男が面白そうに美波をじろじろ見るので屈辱感が襲っただけである。

冴木と卓は外見も人柄も全然異なるのに、どうして自分は男とちょっと関わり合いを持っただけでズタズタに心を傷つけられなきゃならぬのだろう?
理不尽だ、と彼女は「以後恋愛厳禁」のレッテルを己の心に張り付けたのだった。







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