
故郷の駅に降りたった時、悦子は風の匂いをかぐ。
懐かしい芳ばしい匂いを思い切り吸った時、蘇った気がする。
明に会ったら何と挨拶しよう。
まだ病の窶れは目立たないけど、昔の面影は残っていないだろう。
駅のトイレの鏡で顔を直す、心なし若く見える自分の顔に、悦子は胸がドキドキした。
タクシーは川沿いの道を走る。
明の居るという家まで近い。
思い出を忘れないでいてくれたんだろうか。
不意に、その道を歩きたくなった。

歩き出した悦子は、初老の夫婦が向こうから近づいて来るのを見た。
地味で目立たないが、いかにも仲良さそうな夫婦である。
多少の嫉妬を込めて注意して見守った。
「ほら、鯉が泳いでるよ」
「へえー、どれ?」
男の声に愕然とした。
明だ。
夢にまで見た明は、老けて柔和な顔をしていた。
悦子は黙って待たせていたタクシーに引き返した。
苦い笑いが浮かぶ。
自分が独り者だから、相手がそうだなんて限らない。
この世の名残りに明に会おうなんてまだ早いと思った。
健康になろう。癌と共存してもいい。
生きていれば、きっと何かに会えるさ。
川沿いの道は遠く去り、駅に続く街に入った。