上海ブルース 最終章

吸い寄せられる様に野々村の上体が動いた。
次の瞬間、志乃の細い身体は逞しい野々村の腕の中にあった。

どこをどう歩いたかわからないまま、二人は灯りの揺れる一軒の宿の中に入って行く。

数時間後、黒天鵞絨の様な夜空の下を野々村と肩寄せ合って歩く志乃の姿があった。
二人の頬は薔薇色に染まっていた。

「アパートまで君を送る」
「いけません。あなたはいかにも見た目が日本人だし、二人でいる事を見られたらかえって危ない」
案じる野々村を振り切って志乃は帰途を急いだ。
彼女にはやっと想い果たせたという高揚感だけがあった。

小雨が降り始めていた。
志乃のアパートに近い路地に差し掛かった時に、銃声が鳴り響いた。
背中から胸を撃ち抜かれて、声も上げずに彼女はぬかるみの中に倒れた。

得体の知れない日本娘が戦局悪化する上海の街を彷徨っている噂は抗日運動活動家の耳に入っていた。
怪しげな噂が飛び交い、スパイ容疑を着せられて、田所志乃は彼らに暗殺されたのである。

しかし、殺人者の誰もが、彼女の最期に浮かべた微笑の理由を知らなかった。