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読書の森

谷内英伸『横浜謎とき散歩』

 
港町横浜は何度も住みたい街一位に選ばれています。
歌の舞台になった回数も一位で、エキゾチックで浪漫にあふれて、しかも首都圏内、豊かで住み易い街というイメージも共に持っています。
この横浜の魅力に魅せられた著者が、その歴史研究に没頭して著したのが、本著です。
 
様々な切り口から、横浜の街にまつわる知られざるエピソードを掘り出し紹介しているので、興味深い一冊です。
 
ただこの美しい横浜一帯、江戸時代末期1853年当時は貧しい村に過ぎなかったのです。
大砲を積んだものものしい黒船と共にペリーが浦賀沖に来航した時、幕府は大仰天、上を下への大騒ぎになったのはご存知の通りです。
 
幕府としては少しでも江戸から離れた所で、ペリー一行と話をしたい。
ペリーの方は閉ざされた宝の島と当時目されていた日本を開国して、対アジア貿易のための燃料食料の補給地にしたいので、江戸に近いところで交渉をつけたい訳です。
 
オタオタしている幕府を無視して、江戸湾深く金沢の小柴(現金沢区)に再び黒船が姿を現しました。
幕府もいつまでも、態度を決めかねている場合ではありません。
 
「浦賀は波が荒いので停泊に向かない」とペリー一行は言います。
調査の結果、横浜港は波静かな上に船底が深いので大型船も泊まれることが分かりました。
横浜なら、江戸から離れて(交通の便が悪い当時ですから)大事には至るまいという目論見の下、ようやく日米和親条約はこの地で結ばれたのでした。


これは、現在の横浜の地図ですが、開港資料館の近く横浜村駒形(当時の地名です)で会談は開かれたそうです。
当然、村の住民は不安が一杯、幕府側も戦々恐々、隠された外人暗殺事件が何件か起きたそうです。
 
このような犠牲を出しながらも、お互いに自国の利益第一の為、日本側にとっては国家の安全第一の為に、横浜は開港場として街づくりが急ピッチで進められたのです。
進めたのは江戸幕府ですよ。当時の幕府の財政がひっ迫していたにもかかわらず、近年みなとみらい21にかけたのと同じ程度の費用をかけて、横浜の街造りが始まったのです。
外国人居留地と日本人居留地を中心にして街づくりをしたそうです。
横浜がエキゾチックな雰囲気なのは当たり前であります。
 
この事実は、私にとっても目からうろこの話でした。
江戸から明治にかけて横浜というニュータウン(当時の)が開拓されているのです。
それも、外人が日本に来航した事がこの街の始まりと言えるのです。


見出しの写真は神奈川県立博物館、明治37年建築当時は旧横浜正金銀行です。
上の写真は横浜市開港記念館、大正6年建築です。
横浜には何とも魅力的な建築物が多数あります。
特に桜木町周辺はその宝庫と言っていいでしょう。
 
ちなみに開港資料館と開港記念館は近くにありますが、全く別の建築物です。
 
横浜の歴史を紐解くと、ハプニングの連続です。どこの土地でもそうでしょうが、この街は開けたきっかけがきっかけですので、かなり面白いものを含んでます。
本著が出版されたのは平成10年、かなり自由な打ち明け話満載です。又紹介してみたくなります。
 
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