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普段色々考えていることの日記です。

源平合戦好きな武将

2008年08月08日 | 雑記
源平合戦好きな武将(武将じゃない人もいるが)をつらつらあげてみる

源頼朝
 ご存知、鎌倉幕府を開いた知らぬ者とていないお人。
 「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」の人だから「鳴くよ(794)鶯平安京で」の桓武天皇並みに有名人。
 本当は源平合戦の中での英雄中の英雄なのだけど、義経とのことがあってどうしても悪者になってしまう(某ゲームではラスボス)。『東鏡』を読めば頼朝は普通に英雄です。
 頼朝は浮気性のところとか深謀遠慮のところとかが大好きです。愛情深く火のように熱い政子とはまったく正反対で、その割には割れ鍋に綴じ蓋というお似合い夫婦のところとか、たまりません。
 好きなところをあげればきりがないですが、石橋山の合戦までの心配性で弱気な頼朝が一番好きかな。

北条家
 
北条時政
 頼朝の妻政子の父親。かなりやり手だったらしく、京都の公家の日記に北条丸がああ言えばこう言うという感じで粘りに粘って院宣をもぎ取った的なことが書いてあります。
 最初は頼朝と政子の結婚に大反対だったのに、腹が据わってからは頼朝の右腕として活躍する老獪さがたまりません。
 政子が頼朝の浮気に怒って大夫婦げんかしたとき、自分の手勢をまとめて領地に帰ってしまうというジェスチャーを行い、頼朝を大いに慌てさせたところなんか大好きです。まぁ、政治的な思惑が色々あったのだろうけど、父親にとって娘はやっぱり可愛いのかなぁ、と親ばかな想像なんかをして、ついニマリとしてしまいます。

北条宗時
 時政の長男。石橋山の合戦で戦死。武芸は義時よりもこちらの方が秀でていたらしいです。

北条政子
 大好きな女性。頼朝の愛人宅を打ち壊したり、息子頼家の妻の実家を滅ぼして、頼家を将軍職から下ろしたりしたため「猛女」とか「鬼女」とか言われているけど、私は日本史史上最も愛情深い女性だと思います。
 頼朝との仲を引き裂かれそうになって雨の中頼朝の元へ駆けていったエピソードは名場面中の名場面。
 それに付随して吉夢を妹から買う話はやりすぎだと思う。そういう話し抜きにして政子と頼朝のロマンスを語ってほしいと思うのは無理なのだろうか。(このエピソード、妹を出し抜いたような感じがして好きじゃない。それと、政子は十分に魅力的な女性なので、夢を買わなくても頼朝の妻になれたと思う)

北条義時
 永井路子さんの『はじめは駄馬のごとく』で大好きになった武将。武芸はまったくできないくせに政治手腕は一流という一癖もふた癖もある人。この人がどれほどすごいかと言うと、日本史でこの人の名前を忘れてはこの時代の話が立ち行かないというぐらいである。(テストでもほぼ必ず出てくる人)
 鎌倉幕府の基礎も北条執権政治の基礎もこの人が作ったのだけど、あまりにも陰謀家だったため悪の権化のように書かれてしまうのが何とも……(実朝暗殺の首謀犯に仕立てられてしまっているのも身から出たさび?)。
 意外にも北畠親房の『神皇正統記』では褒められているのだけど……あまり知られていない事実でしょうね。(北畠親房は後醍醐天皇の側近、『神皇正統記』は南朝の正統性(天皇親政の正当性)を唱った書物)
 彼はそんなに無茶な陰謀は立てず、必ず鎌倉武士達の賛同が得られる形をとっていて、その隙に北条が有利になるよう陰謀を組んだだけ。だから彼が陰謀家だとは現代の私達が北条家の独裁政治を知っているから言えることで、当時の人は彼こそ光明盛大で公平な人物だと考えていたと思う。
 義時が無茶をしたのは和田合戦の時ぐらいだけど、それでも和田義盛と従兄弟同士だった三浦義村が北条側についているぐらいだから、挑発されたとはいえ無茶をしたのは和田義盛側だったのだと思う。
 日本の歴史でも太宰治が『右大臣実朝』を書くまでは北条義時は正義の士だったらしいので((現在では)北条視点で書かれていると批判されている『東鏡』を、(源氏の流れを汲む)徳川家康が指南書として愛用していた)、日本で指折りの名陰謀家、名政治家だと思います。

北条時房
 時政の息子で義時の弟だけど、日本史を高校時代選択した人にとってはむしろ泰時の叔父で覚えていると思う。
 そう、承久の乱後、六波羅探題を治め、泰時の連署となった人である。その縁で、泰時が御成敗式目を出したとき、「これは武家の道理と慣例をまとめたもので、朝廷の法律とは違うんだよ、ということを天皇と公家さんたちに説明してくれない?」という手紙を彼に出した。この手紙はテストでよ~く使われるネタなので、原文を読んでおいたほうが良い。
 彼は若い頃は二代将軍頼家の遊び友達で、かなりやんちゃをしていたらしい(政子がそのたびにキリキリ怒っていた)。だけど大人になると、政治の勘所をつかまえた良い武将になったらしく、イギリスのヘンリー5世の逸話を思い出させる人で、大好きです。

北条泰時
 義時の息子。日本史を選択した人は御成敗式目を作った人で覚えていると思う。
 かなり真面目なたちの青年だったらしく、頼家が将軍の仕事をほっぽりだして遊び倒しているとき、「それはどうかと思うんですが」と言って、鎌倉を追い出されそうになった。でもその時、「自分は後ろ暗い所がない」と言って鎌倉を出なかったという、さすが御成敗式目を作っただけの御人である。
 承久の乱のとき、政子の演説に皆が感動している頃合いを狙って、「亡き頼朝様の為に、俺は相手が上皇でも、たった一人ででも断固戦うぜ!」と叫び、馬に乗って京へと駆けて行くというものすごくかっこいいシーンを演出したくせに、その言葉に鎌倉中の武将が我も我もとついって行った後こっそり鎌倉へ帰って、義時に「でも上皇がホンマに出陣したらどうしよう?」と泣き言を言ったのが可愛くて好きです。

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