源平合戦好きな武将(武将じゃない人もいるが)をつらつらあげてみる。
ここからは有名なんだけど、教科書にはなかなか名前が挙がらない人たち。
比例して私の熱が上がる武将達でもある。
佐々木四兄弟 (太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱)
『平家物語』や『源平盛衰記』では大活躍の兄弟です。
例えば、頼朝挙兵の折、平氏征伐の鏑矢を放ったのが次郎経高。宇治川の先陣争いをしたのは四郎高綱。ちなみに頼朝愛馬「生月(いけづき)」をもらったのもこの人。
また、頼朝討伐を頼朝に知らせたのは太郎定綱。挙兵の計画を頼朝直々に知らされたのが三郎盛綱というように、源平合戦初戦でこの兄弟は活躍します。
これがまた、これぞ侍という格好いいエピソードが一杯の兄弟なのです。
頼朝挙兵時、参戦を約束していながらいざ挙兵の時、到着がかなり遅れたのである。当然、頼朝も北条も佐々木の裏切りを覚悟したのだが、実はひどい雨で洪水に遭い、往生していたのだ。だが二人は馬に伏せ、もう二人は馬から降りて徒歩で頼朝の元へ馳せ参じ、さらには堤信遠や山木兼隆を見事討ち取るのである。
このような武勲を上げているからこそ、頼朝は一番の名馬を梶原景季ではなく佐々木高綱に与えたのである。
ちなみに「ちえっ、なんであいつだけ」と恨み言を言った(『平家物語』では高綱を殺して自殺しようとした)景季に高綱はとっさの機転で、「実は盗んだんだ」と耳打ちする。自分が頼朝にひいきされていることを知って景季の恨みが頼朝へと向かわないためにだ。景季はなんだ俺も盗めば良かったと笑ってこの件は落着した。
もちろん宇治川の先陣争いも『平家物語』一の名シーンです。
ここで景季に馬の腹帯がゆるんでいると騙して先陣を勝ち取るのは有名なエピソードだが、私はそれより鎌倉の武将達の勇壮な戦いを見て欲しい。
雪解け水の冷たいしぶきを上げながら轟々と渦巻く宇治川の流れ、ともすれば尻込みする馬の手綱を引き絞り、ザブンと川へと入っていく板東武者達。
水の冷たさに躍り上がる馬、速い流れに負けまいと手綱をさばく武者。
上空では弓矢が飛び交い、それを刀で打ち落とし打ち落とし進んでいく。
また川中には馬を転ばせるための引き綱があり、それもまた刀で打ち切っていくその躍動感、猛々しさ。
大好きなシーンです。
土肥実平
しぶ~い役どころのおじさま。渋いおじさま好きの私にとってたまらない武将です。
頼朝が石橋山の合戦で負けたとき、頼朝を護って山中へと逃げたのですが、頼朝に付き従ってきた武将達に「自分1人なら頼朝を護れるから、ここは一時ばらばらになって会稽の恥をそそぐ機会を持とう」と言って、見事頼朝を護りきった御人。
そういった功績を評価されてか、平家討伐の際、頼朝の目代として梶原景時と同時に実平も選ばれます。
「目代は頼朝の代わりだと思え」と頼朝が厳重に範頼と義経に言い含めていたらしいから、並々ならぬ信頼だったのだろう。それは頼朝への忠誠心のみならず、戦況を冷静に分析する能力、人を客観的に評価できる力、鎌倉武士をまとめる人望、いざというとき政治交渉、外交交渉の下準備が出来る手腕など総合評価での選出だったと思うからだ。
ところで一ノ谷の合戦や屋島の合戦の折義経の軍監は実平でした。つまり、有名な義経と景時の逆櫓論争は無かったというわけです。それがどこでどうゆがめられて義経と景時の逆櫓論争になったのかちょっと不思議です。
おそらく天才的な武将義経と義経の才能を理解しなかった凡将景時というのを比較したくてありもしなかった逆櫓論争が生まれたのだと思う。
この人は景時のように義経や範頼と対立しなかったから若干マイナーな武将である。だがそれは、武将をまとめる人望が備わり、上手いこと義経と他の武将達との緩衝材になっていたからなのでは。
なんかそういうところも渋すぎて、大好きです。
梶原氏
梶原景時
ご存じ悪軍監、讒言者景時です。
司馬遼太郎の『義経』を読むと、「いる、こんな奴いる。上司のゴマすりだけで世を渡っていくヤナ奴!」と色々自分の身近な人を重ねてしまって、むかむか来るぐらいヤナ奴です。
もう、義経の手柄を上手いこと自分のものにしてしまったり、義経が頼朝の権威を笠に着ていばり散らしていると告げ口したり、はては頼朝何するものぞと言っているとか嘘八百並べたり。
ぐわぁぁぁ、身近な人物思い出して、ホント、腹立つぅぅぅ!!!
が、しかし。
永井路子の『炎環』を読むと、これまた渋~いおじさまなのである。
まぁ、私が景時に惚れたのは大河ドラマ『草燃える』で江原真二郎の梶原景時を見たからだ。と言っても『草燃える』放映時は私は生まれていないので総集編でだが。(ウウ、全編みたい。誰か録画していないかな……。あるいはリメイク版を熱烈希望)
景時は頼朝が死んだ後、頼家の代でも側近として活躍した。が、彼が讒言者だとして鎌倉中の武士達に疎まれ、ついには頼家にも見放された。進退窮まった彼は朝廷と結ぼうとして上洛中に討たれるのだが、その時に言ったセリフが渋かったのだ。
「御所様(頼家)に見放されたのではない。私が御所様を見放したのだ」
ううううううう。
景時は頼朝のイエスマンで、讒言者だった。讒言により義経だけでなく上総介広常も殺され、畠山重忠ですら疑われた。
だけどそれは頼朝の意を汲み、わざと讒言をして憎まれ役に徹することで頼朝の意と忠誠のつくし方を他の武将達に知らしめたのだ。
が、それを頼家は理解しなかった。
景時を上手く使うことも出来ず、ましてやかばうこともせず、梶原一族は駿河国清見関で一族もろともに討ち果たされてしまう。
その時の言葉が上記の江原真二郎@梶原景時の言葉なのだ。しかも、この言葉は景時の息子宮崎達也@梶原景季が「父上は鎌倉に尽力した忠臣なのに、御所様はその父上を裏切った」と言った言葉に対する返答なのだ。
ううううううう(号泣)。
ところで、我が故郷播磨の国はこの梶原一族と縁が深い。
源平合戦の功績を認められて、梶原一族は頼朝より播磨の国の荘園をもらい受けた。播磨の国は平氏が拠点にしたほどの豊かな土地。梶原一族への頼朝の並々ならぬ信頼がかいま見える。
この豊かな播磨の国に梶原一族は入植した。讒言者・謀反人として悪評の立っている梶原一族だが、我が故郷では梶原姓を名乗る者が多い。和歌を好み、教養があった「鎌倉ノ本体ノ武士」(武士中の武士という意味)は播磨では人望があったようである。
ちなみに景時の名シーンは、石橋山の敗戦で洞穴に隠れ潜んでいる頼朝を見逃したシーンだ。
洞穴に隠れ潜んでいる所を景時に見つかる頼朝・実平主従。ちょうどその時「そこに誰かいたのか」との声が。もはやこれまで。ここは自分が周囲の武士を滅多切りにして頼朝を逃がそうと実平は刀に手をかける。しかし景時の返答は「誰もおり申さぬ」。この景時の言葉によって頼朝主従は助かったのだ。
このとっさの機転。
「鎌倉ノ本体ノ武士」は渋格好いいおじさまである。
梶原景季
景時の息子で長男。
宇治川の先陣争いや梶原の二度駆けのように軍記物語では華やかに活躍しています。
しかも父親譲りの教養にあふれ、風雅を解する武将です。
奥州討伐の際、白河の関で「秋風に草木の露を払わせて君が越ゆれば関守もなし」と歌った。これは能因法師が同じく白河の関で歌った「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」という歌を受けて歌ったのである。
ここのシーンはまるで一幅の絵のように素晴らしい情景である。
またこの歌を教養深く頼朝の信任厚き景季が歌うから絵になるのである。
彼はこの歌や華やかな武勲のためか景時のように悪者にすることが出来ず、父親と違い純粋な人物として扱われているようだ。
司馬遼太郎の『義経』でも、義経と心を通わせ、義経を讒言する父親に反対していたりしています。老獪な父親と違い清冽な若者といった向きです。
しかし私はそれよりは景時と景季をセットで扱いたい。血気はやる若武者でありながら父の教養と剃刀のように切れる知略を純粋に受け継いでいく長男という感じだ。
景時には源太景季から九郎景連まで7人息子がいた(末っ子が「九郎」と言うから本来は9人兄弟だと思う)。その兄弟それぞれに面白いエピソードがあるから誰か梶原兄弟を書いてくれないかなぁと思う。
三浦氏
三浦義明
永井路子さんの『つわものの賦』で大好きになった一族が三浦氏だ。
三浦一族は勇猛なエピソードがたくさんあるけど、もっとも勇猛なエピソードがあるのがこの三浦氏棟梁の義明。
頼朝が石橋山の合戦で敗北したあと、大庭景親の要請によって出陣してきた畠山重忠の軍に行き会う。で、なんやかんやで合戦になるが多勢に無勢。居城である衣笠城まで攻め込まれてしまうのだ。
この時義明は一族を集めてこう言う。
「私は齢80の老人。若いそなたらとともに逃げても足手まといになる。だからこの衣笠城に立てこもり、畠山軍と刺し違え、その功を子孫のための武勲としようと思う」
もちろん子供達は父親を見捨てることが出来ない。三浦一族は結束力が固いことで有名なのだ。
だが、義明は言う。
「私は源家再興の時に立ち会えたことにこれ以上にない幸せを感じている。今までは武勲を立ててもなんの見返りもなかった。だが頼朝様は違う。私の働きをそなたらは生きて頼朝様に必ず伝えるのだ」
そして衣笠城で壮烈な死を迎えるのである。
立ち弁慶もなんのそのといわんばかりの名シーンだ。
このシーン、もし歌舞伎になっていたら人気のシーンとなっていただろうなぁ、と思うけど、残念ながら義経人気に推されて若干マイナーである。
ちなみにこの人、九尾の狐である「玉藻前」討伐軍に上総介広常とともに抜擢されている老将中の老将だ。そのような一族の功労者を城に残していかなければいけなかった三浦一族の心中はいかばかりであろう。またこの義明の功績があるから和田義盛は侍所別当となったのだ。
私は渋いじいちゃんの老人パワーもたまらなく好きなので、この義明はじいちゃんズの中で一番好きなじいちゃんである。
そして衣笠城落城は何回読んでも涙がちょちょ切れる名シーンだ。
和田義盛
おっちょこちょい度No.1。だからこそ可愛さ度No.1の和田義盛である。
マイナーに沈んでしまっている三浦氏であるがこの人は初代侍所別当になったために唯一名前が教科書で挙がる。そしてまた、この侍所別当となったエピソードが可愛い。
石橋山で破れたあと頼朝は安房へと渡った。ここでは石橋山とはうってかわって続々と源氏の旧家臣達が集まってくる。頼朝の本当の意味での源家再興は安房へ渡ってから始まるのである。
この時義盛は頼朝に一つお願いをする。頼朝にはいずれ続々と家臣が集まり関東一円を治めるだろうから、今のうちにお願いしておくと前置きして言った言葉は「侍所別当にして欲しい」。
いくら安房の安西景益が迎え入れてくれたとはいえ千葉の常胤や上総の広常はまだ参戦の返事がない。石橋山の敗戦もあってみな意気消沈しているときの義盛の言葉に武将達は「気が早すぎるぞ義盛。それは抜け駆けだ」とどっと笑った。
義盛も「えへへ、ばれたか」と戯れ言であることを明かす(半分本気だったが)。
だが頼朝はこの義盛の言葉を忘れてはおらず、鎌倉に幕府を開くとき、いの一番に義盛を侍所別当に任じたのである。
と、こんないきさつで侍所別当となった義盛だが、実は気性的には侍所別当という器ではなかった。
何せ、ものすごい短気。
先に書いた畠山軍との合戦。実は三浦家と畠山家とは縁戚関係にあり、この時もどちらも手出ししないという約束で戦うふりだけして軍を引き上げる了承がついていた。だが義盛が暴発したせいで合戦となり、三浦家は衣笠城を落とされてしまうのである。
平家追討の折も九州まで範頼とともに攻めていったが九州は平家の勢力範囲。糧食の徴収に民が応じず兵糧切れになってしまう。こんな時侍所別当自らが軍規をただし、兵の士気を上げなければいけないのに、その別当本人が「もう嫌だ~、鎌倉へ帰る~」と我がまま放題言い、範頼と景時を大いに困らせたのだ。
しかも頼朝が義盛は侍所別当にするのはちょっと不安だと梶原景時を別当にすると、「あいつは別当になりたいがために俺を讒訴したんだ」とすねにすね、頼朝を困らせまくった。
和田合戦も北条義時の挑発に見事に引っかかり、鎌倉へ弓を引いてしまう。
「俺は御所様に弓引くつもりはない。幕府を壟断している義時を討つのだ」と主張したが鎌倉武士の支持は得られず、身内の三浦義村にまで裏切られてしまう。
何だか幕末の長州軍、しかも禁門の変時分を彷彿とさせる御人だ。長州はその後薩摩という同盟者を得られたが、義盛は三浦にまで裏切られて鎌倉を血に染めながら死んでいった。
ところで、義盛は木曽義仲の愛妾巴御前を妻に迎えたことでも有名だ。
何でも巴の剛勇ぶりに惚れ込んでの求婚だったらしい。
そんなところも義盛の義盛たるゆえんを見るようで、可愛いなと失礼ながら思ってしまう武将である。
三浦義澄
義澄は義明の息子で三浦氏の統領である。三浦家は和田義盛の例を見るとおり勇猛な武将のイメージがあるが、実は知略に長けた武将でもある。
その例がこの義澄。
息子の義村はどちらかというと知略の方が目立つけど、義澄は知略に長けているだけでなく勇猛さもあわせもつ武将だ。
私の中では土肥実平、梶原景時とともに渋格好いいおじさんズとして数えている。(ちなみに渋格好いいじいちゃんズは三浦義明、千葉介常胤、斎藤実盛である)
永井路子さんは頼朝挙兵の中心人物は三浦義澄ではないかと考えている。というのも、安房で頼朝を迎え入れた安西景益は三浦一族の者なのだ。また、侍所別当となった和田義盛は義澄の甥である。
他にも広常と頼朝の寵を競って口論する岡崎義実は義澄の叔父。その口論を止めた佐原義連は義澄の弟と、三浦家は様々なところで名前が挙がる。
もちろん義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老である(ぶっちゃけ北条氏は初戦では力が無かった)。実は千葉と上総と三浦の3人、頼朝挙兵の時から名字に「介」が付く。「介」とは国司のNo.2。当時長官たる「守」は現地に派遣されず、「介」以下の在庁官人が実質的に権力をふるっていた。つまり三浦は千葉、上総とともに大豪族だったというわけである。
プラス三浦氏は海の民。相模湾を縦横無尽に駆け回っていた一族は遠く瀬戸内海でもその名をとどろかせた。
三浦の本拠地横須賀市は平家が福原京を開いた神戸市と同じく良港で有名な町。幕末外国へと開港された町でもあるので、三浦氏には何となく親近感を覚えてしまいます。
おっと義澄の話が出て来ない。
とはいえ、この人は土肥実平や梶原景時以上に渋い役どころでこれはというエピソードは難しいのである。
富士川の戦いの後捕らえられた伊東祐親を助命嘆願したシーンなどが有名であるが、私は壇ノ浦の合戦での「海の武士三浦ここに見参」と言わんばかりの活躍ぶりが大好きです。
流れの速い壇ノ浦の潮流を「相模の海が荒れたときよりは穏やかだ」と豪語して平家の陣深くまで攻め、平家を彦島から赤間関まで追いつめてしまうのだ。
ぐはぁ! 格好いい!!
私は海っ子なので騎馬戦より船の戦いの方が燃え上がるのである。
三浦善村
義澄の子義村は、北条義時と丁々発止の陰謀戦をやり合った希代の名陰謀家にして名政治家。
義村は私が義時と同じぐらい愛している武将なので、エピソードを拾っていくときりがないがたった一つだけ。
実朝暗殺以後(永井路子さんはこの実朝暗殺を義村が画策した陰謀と推理している。実朝を殺した公暁の乳母夫が義村だった)の幕府の動揺を狙って後鳥羽院は「義時追討」の院宣を出す。世に名高い「承久の乱」であるが、この時後鳥羽は義村の弟胤義を通じて義村にも倒幕の密書を送った。
三浦氏は頼朝の挙兵を支えた宿老の一族だが、北条氏の台頭により冷や飯を食っていた。しかも先の和田合戦では義盛を初めとして和田氏が北条氏に滅ぼされている。和田氏は三浦氏の武を司る家だけに、その家を裏切り滅ぼさざるを得なかったことは煮え湯を飲まされた気分だったろう。
だからこそ後鳥羽院の倒幕には絶対参戦すると思ったのだ。
だが義村はその密書と院宣を義時の前に開いてみせる。
ハッと義村を見つめる義時。
頷く義村。
この希代の名陰謀家達は同時に希代の名政治家たちでもあった。
普段は鎌倉の覇権を目指して権謀術策の限りを尽くして争っていても、幕府の命運だけは心得ていた。
義村はこの後鳥羽の院宣が、義時追討を掲げながらも倒幕を目指したものだと言うことを見抜いていたのだ。
承久の乱は政子の名演説で鎌倉武士が動いたと思われているだろうが、北条氏の宿敵たる三浦氏が義時の味方をしたという事実も鎌倉武士の目を覚まさせることに大きく働いたと思う。
いいなぁ。
なんか男同士のこの熱い戦いに私の胸は打ち震えるばかりである。
ここからは有名なんだけど、教科書にはなかなか名前が挙がらない人たち。
比例して私の熱が上がる武将達でもある。
佐々木四兄弟 (太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱)
『平家物語』や『源平盛衰記』では大活躍の兄弟です。
例えば、頼朝挙兵の折、平氏征伐の鏑矢を放ったのが次郎経高。宇治川の先陣争いをしたのは四郎高綱。ちなみに頼朝愛馬「生月(いけづき)」をもらったのもこの人。
また、頼朝討伐を頼朝に知らせたのは太郎定綱。挙兵の計画を頼朝直々に知らされたのが三郎盛綱というように、源平合戦初戦でこの兄弟は活躍します。
これがまた、これぞ侍という格好いいエピソードが一杯の兄弟なのです。
頼朝挙兵時、参戦を約束していながらいざ挙兵の時、到着がかなり遅れたのである。当然、頼朝も北条も佐々木の裏切りを覚悟したのだが、実はひどい雨で洪水に遭い、往生していたのだ。だが二人は馬に伏せ、もう二人は馬から降りて徒歩で頼朝の元へ馳せ参じ、さらには堤信遠や山木兼隆を見事討ち取るのである。
このような武勲を上げているからこそ、頼朝は一番の名馬を梶原景季ではなく佐々木高綱に与えたのである。
ちなみに「ちえっ、なんであいつだけ」と恨み言を言った(『平家物語』では高綱を殺して自殺しようとした)景季に高綱はとっさの機転で、「実は盗んだんだ」と耳打ちする。自分が頼朝にひいきされていることを知って景季の恨みが頼朝へと向かわないためにだ。景季はなんだ俺も盗めば良かったと笑ってこの件は落着した。
もちろん宇治川の先陣争いも『平家物語』一の名シーンです。
ここで景季に馬の腹帯がゆるんでいると騙して先陣を勝ち取るのは有名なエピソードだが、私はそれより鎌倉の武将達の勇壮な戦いを見て欲しい。
雪解け水の冷たいしぶきを上げながら轟々と渦巻く宇治川の流れ、ともすれば尻込みする馬の手綱を引き絞り、ザブンと川へと入っていく板東武者達。
水の冷たさに躍り上がる馬、速い流れに負けまいと手綱をさばく武者。
上空では弓矢が飛び交い、それを刀で打ち落とし打ち落とし進んでいく。
また川中には馬を転ばせるための引き綱があり、それもまた刀で打ち切っていくその躍動感、猛々しさ。
大好きなシーンです。
土肥実平
しぶ~い役どころのおじさま。渋いおじさま好きの私にとってたまらない武将です。
頼朝が石橋山の合戦で負けたとき、頼朝を護って山中へと逃げたのですが、頼朝に付き従ってきた武将達に「自分1人なら頼朝を護れるから、ここは一時ばらばらになって会稽の恥をそそぐ機会を持とう」と言って、見事頼朝を護りきった御人。
そういった功績を評価されてか、平家討伐の際、頼朝の目代として梶原景時と同時に実平も選ばれます。
「目代は頼朝の代わりだと思え」と頼朝が厳重に範頼と義経に言い含めていたらしいから、並々ならぬ信頼だったのだろう。それは頼朝への忠誠心のみならず、戦況を冷静に分析する能力、人を客観的に評価できる力、鎌倉武士をまとめる人望、いざというとき政治交渉、外交交渉の下準備が出来る手腕など総合評価での選出だったと思うからだ。
ところで一ノ谷の合戦や屋島の合戦の折義経の軍監は実平でした。つまり、有名な義経と景時の逆櫓論争は無かったというわけです。それがどこでどうゆがめられて義経と景時の逆櫓論争になったのかちょっと不思議です。
おそらく天才的な武将義経と義経の才能を理解しなかった凡将景時というのを比較したくてありもしなかった逆櫓論争が生まれたのだと思う。
この人は景時のように義経や範頼と対立しなかったから若干マイナーな武将である。だがそれは、武将をまとめる人望が備わり、上手いこと義経と他の武将達との緩衝材になっていたからなのでは。
なんかそういうところも渋すぎて、大好きです。
梶原氏
梶原景時
ご存じ悪軍監、讒言者景時です。
司馬遼太郎の『義経』を読むと、「いる、こんな奴いる。上司のゴマすりだけで世を渡っていくヤナ奴!」と色々自分の身近な人を重ねてしまって、むかむか来るぐらいヤナ奴です。
もう、義経の手柄を上手いこと自分のものにしてしまったり、義経が頼朝の権威を笠に着ていばり散らしていると告げ口したり、はては頼朝何するものぞと言っているとか嘘八百並べたり。
ぐわぁぁぁ、身近な人物思い出して、ホント、腹立つぅぅぅ!!!
が、しかし。
永井路子の『炎環』を読むと、これまた渋~いおじさまなのである。
まぁ、私が景時に惚れたのは大河ドラマ『草燃える』で江原真二郎の梶原景時を見たからだ。と言っても『草燃える』放映時は私は生まれていないので総集編でだが。(ウウ、全編みたい。誰か録画していないかな……。あるいはリメイク版を熱烈希望)
景時は頼朝が死んだ後、頼家の代でも側近として活躍した。が、彼が讒言者だとして鎌倉中の武士達に疎まれ、ついには頼家にも見放された。進退窮まった彼は朝廷と結ぼうとして上洛中に討たれるのだが、その時に言ったセリフが渋かったのだ。
「御所様(頼家)に見放されたのではない。私が御所様を見放したのだ」
ううううううう。
景時は頼朝のイエスマンで、讒言者だった。讒言により義経だけでなく上総介広常も殺され、畠山重忠ですら疑われた。
だけどそれは頼朝の意を汲み、わざと讒言をして憎まれ役に徹することで頼朝の意と忠誠のつくし方を他の武将達に知らしめたのだ。
が、それを頼家は理解しなかった。
景時を上手く使うことも出来ず、ましてやかばうこともせず、梶原一族は駿河国清見関で一族もろともに討ち果たされてしまう。
その時の言葉が上記の江原真二郎@梶原景時の言葉なのだ。しかも、この言葉は景時の息子宮崎達也@梶原景季が「父上は鎌倉に尽力した忠臣なのに、御所様はその父上を裏切った」と言った言葉に対する返答なのだ。
ううううううう(号泣)。
ところで、我が故郷播磨の国はこの梶原一族と縁が深い。
源平合戦の功績を認められて、梶原一族は頼朝より播磨の国の荘園をもらい受けた。播磨の国は平氏が拠点にしたほどの豊かな土地。梶原一族への頼朝の並々ならぬ信頼がかいま見える。
この豊かな播磨の国に梶原一族は入植した。讒言者・謀反人として悪評の立っている梶原一族だが、我が故郷では梶原姓を名乗る者が多い。和歌を好み、教養があった「鎌倉ノ本体ノ武士」(武士中の武士という意味)は播磨では人望があったようである。
ちなみに景時の名シーンは、石橋山の敗戦で洞穴に隠れ潜んでいる頼朝を見逃したシーンだ。
洞穴に隠れ潜んでいる所を景時に見つかる頼朝・実平主従。ちょうどその時「そこに誰かいたのか」との声が。もはやこれまで。ここは自分が周囲の武士を滅多切りにして頼朝を逃がそうと実平は刀に手をかける。しかし景時の返答は「誰もおり申さぬ」。この景時の言葉によって頼朝主従は助かったのだ。
このとっさの機転。
「鎌倉ノ本体ノ武士」は渋格好いいおじさまである。
梶原景季
景時の息子で長男。
宇治川の先陣争いや梶原の二度駆けのように軍記物語では華やかに活躍しています。
しかも父親譲りの教養にあふれ、風雅を解する武将です。
奥州討伐の際、白河の関で「秋風に草木の露を払わせて君が越ゆれば関守もなし」と歌った。これは能因法師が同じく白河の関で歌った「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」という歌を受けて歌ったのである。
ここのシーンはまるで一幅の絵のように素晴らしい情景である。
またこの歌を教養深く頼朝の信任厚き景季が歌うから絵になるのである。
彼はこの歌や華やかな武勲のためか景時のように悪者にすることが出来ず、父親と違い純粋な人物として扱われているようだ。
司馬遼太郎の『義経』でも、義経と心を通わせ、義経を讒言する父親に反対していたりしています。老獪な父親と違い清冽な若者といった向きです。
しかし私はそれよりは景時と景季をセットで扱いたい。血気はやる若武者でありながら父の教養と剃刀のように切れる知略を純粋に受け継いでいく長男という感じだ。
景時には源太景季から九郎景連まで7人息子がいた(末っ子が「九郎」と言うから本来は9人兄弟だと思う)。その兄弟それぞれに面白いエピソードがあるから誰か梶原兄弟を書いてくれないかなぁと思う。
三浦氏
三浦義明
永井路子さんの『つわものの賦』で大好きになった一族が三浦氏だ。
三浦一族は勇猛なエピソードがたくさんあるけど、もっとも勇猛なエピソードがあるのがこの三浦氏棟梁の義明。
頼朝が石橋山の合戦で敗北したあと、大庭景親の要請によって出陣してきた畠山重忠の軍に行き会う。で、なんやかんやで合戦になるが多勢に無勢。居城である衣笠城まで攻め込まれてしまうのだ。
この時義明は一族を集めてこう言う。
「私は齢80の老人。若いそなたらとともに逃げても足手まといになる。だからこの衣笠城に立てこもり、畠山軍と刺し違え、その功を子孫のための武勲としようと思う」
もちろん子供達は父親を見捨てることが出来ない。三浦一族は結束力が固いことで有名なのだ。
だが、義明は言う。
「私は源家再興の時に立ち会えたことにこれ以上にない幸せを感じている。今までは武勲を立ててもなんの見返りもなかった。だが頼朝様は違う。私の働きをそなたらは生きて頼朝様に必ず伝えるのだ」
そして衣笠城で壮烈な死を迎えるのである。
立ち弁慶もなんのそのといわんばかりの名シーンだ。
このシーン、もし歌舞伎になっていたら人気のシーンとなっていただろうなぁ、と思うけど、残念ながら義経人気に推されて若干マイナーである。
ちなみにこの人、九尾の狐である「玉藻前」討伐軍に上総介広常とともに抜擢されている老将中の老将だ。そのような一族の功労者を城に残していかなければいけなかった三浦一族の心中はいかばかりであろう。またこの義明の功績があるから和田義盛は侍所別当となったのだ。
私は渋いじいちゃんの老人パワーもたまらなく好きなので、この義明はじいちゃんズの中で一番好きなじいちゃんである。
そして衣笠城落城は何回読んでも涙がちょちょ切れる名シーンだ。
和田義盛
おっちょこちょい度No.1。だからこそ可愛さ度No.1の和田義盛である。
マイナーに沈んでしまっている三浦氏であるがこの人は初代侍所別当になったために唯一名前が教科書で挙がる。そしてまた、この侍所別当となったエピソードが可愛い。
石橋山で破れたあと頼朝は安房へと渡った。ここでは石橋山とはうってかわって続々と源氏の旧家臣達が集まってくる。頼朝の本当の意味での源家再興は安房へ渡ってから始まるのである。
この時義盛は頼朝に一つお願いをする。頼朝にはいずれ続々と家臣が集まり関東一円を治めるだろうから、今のうちにお願いしておくと前置きして言った言葉は「侍所別当にして欲しい」。
いくら安房の安西景益が迎え入れてくれたとはいえ千葉の常胤や上総の広常はまだ参戦の返事がない。石橋山の敗戦もあってみな意気消沈しているときの義盛の言葉に武将達は「気が早すぎるぞ義盛。それは抜け駆けだ」とどっと笑った。
義盛も「えへへ、ばれたか」と戯れ言であることを明かす(半分本気だったが)。
だが頼朝はこの義盛の言葉を忘れてはおらず、鎌倉に幕府を開くとき、いの一番に義盛を侍所別当に任じたのである。
と、こんないきさつで侍所別当となった義盛だが、実は気性的には侍所別当という器ではなかった。
何せ、ものすごい短気。
先に書いた畠山軍との合戦。実は三浦家と畠山家とは縁戚関係にあり、この時もどちらも手出ししないという約束で戦うふりだけして軍を引き上げる了承がついていた。だが義盛が暴発したせいで合戦となり、三浦家は衣笠城を落とされてしまうのである。
平家追討の折も九州まで範頼とともに攻めていったが九州は平家の勢力範囲。糧食の徴収に民が応じず兵糧切れになってしまう。こんな時侍所別当自らが軍規をただし、兵の士気を上げなければいけないのに、その別当本人が「もう嫌だ~、鎌倉へ帰る~」と我がまま放題言い、範頼と景時を大いに困らせたのだ。
しかも頼朝が義盛は侍所別当にするのはちょっと不安だと梶原景時を別当にすると、「あいつは別当になりたいがために俺を讒訴したんだ」とすねにすね、頼朝を困らせまくった。
和田合戦も北条義時の挑発に見事に引っかかり、鎌倉へ弓を引いてしまう。
「俺は御所様に弓引くつもりはない。幕府を壟断している義時を討つのだ」と主張したが鎌倉武士の支持は得られず、身内の三浦義村にまで裏切られてしまう。
何だか幕末の長州軍、しかも禁門の変時分を彷彿とさせる御人だ。長州はその後薩摩という同盟者を得られたが、義盛は三浦にまで裏切られて鎌倉を血に染めながら死んでいった。
ところで、義盛は木曽義仲の愛妾巴御前を妻に迎えたことでも有名だ。
何でも巴の剛勇ぶりに惚れ込んでの求婚だったらしい。
そんなところも義盛の義盛たるゆえんを見るようで、可愛いなと失礼ながら思ってしまう武将である。
三浦義澄
義澄は義明の息子で三浦氏の統領である。三浦家は和田義盛の例を見るとおり勇猛な武将のイメージがあるが、実は知略に長けた武将でもある。
その例がこの義澄。
息子の義村はどちらかというと知略の方が目立つけど、義澄は知略に長けているだけでなく勇猛さもあわせもつ武将だ。
私の中では土肥実平、梶原景時とともに渋格好いいおじさんズとして数えている。(ちなみに渋格好いいじいちゃんズは三浦義明、千葉介常胤、斎藤実盛である)
永井路子さんは頼朝挙兵の中心人物は三浦義澄ではないかと考えている。というのも、安房で頼朝を迎え入れた安西景益は三浦一族の者なのだ。また、侍所別当となった和田義盛は義澄の甥である。
他にも広常と頼朝の寵を競って口論する岡崎義実は義澄の叔父。その口論を止めた佐原義連は義澄の弟と、三浦家は様々なところで名前が挙がる。
もちろん義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老である(ぶっちゃけ北条氏は初戦では力が無かった)。実は千葉と上総と三浦の3人、頼朝挙兵の時から名字に「介」が付く。「介」とは国司のNo.2。当時長官たる「守」は現地に派遣されず、「介」以下の在庁官人が実質的に権力をふるっていた。つまり三浦は千葉、上総とともに大豪族だったというわけである。
プラス三浦氏は海の民。相模湾を縦横無尽に駆け回っていた一族は遠く瀬戸内海でもその名をとどろかせた。
三浦の本拠地横須賀市は平家が福原京を開いた神戸市と同じく良港で有名な町。幕末外国へと開港された町でもあるので、三浦氏には何となく親近感を覚えてしまいます。
おっと義澄の話が出て来ない。
とはいえ、この人は土肥実平や梶原景時以上に渋い役どころでこれはというエピソードは難しいのである。
富士川の戦いの後捕らえられた伊東祐親を助命嘆願したシーンなどが有名であるが、私は壇ノ浦の合戦での「海の武士三浦ここに見参」と言わんばかりの活躍ぶりが大好きです。
流れの速い壇ノ浦の潮流を「相模の海が荒れたときよりは穏やかだ」と豪語して平家の陣深くまで攻め、平家を彦島から赤間関まで追いつめてしまうのだ。
ぐはぁ! 格好いい!!
私は海っ子なので騎馬戦より船の戦いの方が燃え上がるのである。
三浦善村
義澄の子義村は、北条義時と丁々発止の陰謀戦をやり合った希代の名陰謀家にして名政治家。
義村は私が義時と同じぐらい愛している武将なので、エピソードを拾っていくときりがないがたった一つだけ。
実朝暗殺以後(永井路子さんはこの実朝暗殺を義村が画策した陰謀と推理している。実朝を殺した公暁の乳母夫が義村だった)の幕府の動揺を狙って後鳥羽院は「義時追討」の院宣を出す。世に名高い「承久の乱」であるが、この時後鳥羽は義村の弟胤義を通じて義村にも倒幕の密書を送った。
三浦氏は頼朝の挙兵を支えた宿老の一族だが、北条氏の台頭により冷や飯を食っていた。しかも先の和田合戦では義盛を初めとして和田氏が北条氏に滅ぼされている。和田氏は三浦氏の武を司る家だけに、その家を裏切り滅ぼさざるを得なかったことは煮え湯を飲まされた気分だったろう。
だからこそ後鳥羽院の倒幕には絶対参戦すると思ったのだ。
だが義村はその密書と院宣を義時の前に開いてみせる。
ハッと義村を見つめる義時。
頷く義村。
この希代の名陰謀家達は同時に希代の名政治家たちでもあった。
普段は鎌倉の覇権を目指して権謀術策の限りを尽くして争っていても、幕府の命運だけは心得ていた。
義村はこの後鳥羽の院宣が、義時追討を掲げながらも倒幕を目指したものだと言うことを見抜いていたのだ。
承久の乱は政子の名演説で鎌倉武士が動いたと思われているだろうが、北条氏の宿敵たる三浦氏が義時の味方をしたという事実も鎌倉武士の目を覚まさせることに大きく働いたと思う。
いいなぁ。
なんか男同士のこの熱い戦いに私の胸は打ち震えるばかりである。
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