Siamo tutti un po' pazzi.

~我々は皆少しおかしい(イタリアの慣用句)~

普段色々考えていることの日記です。

大河ドラマを歴史順に並べてみた

2009年12月04日 | 雑記
平安時代
「風と雲と虹と」1976年:平将門(884年頃~940年)
「炎立つ」1993年:奥州藤原氏(1087年~1189年)
「新・平家物語」1972年:平清盛(1118年~1181年)
「源義経」1966年:源義経(1159年~1189年)
「義経」2005年:源義経(1159年~1189年)

鎌倉時代
「草燃える」1979年:源頼朝(1147年~1199年)、北条政子(1157年~1225年)
「北条時宗」2001年:北条時宗(1251年~1284年)

南北朝時代
「太平記」1991年:足利尊氏(1305年~1358年)

室町時代
「花の乱」1994年:日野富子(1440年~1496年)

戦国時代
「風林火山」2007年:山本勘助(1493年~1561年)
「毛利元就」1997年:毛利元就(1497年~1571年)
「天と地と」1969年:上杉謙信(1530年~1578年)、武田信玄(1521年~1573年)
「武田信玄」 1988年:武田信玄(1521年~1573年)
「国盗り物語」1973年:斉藤道三(1494年~1556年)、織田信長(1534年~1582年)、明智光秀(1528年~1582年)

安土・桃山時代
「信長 KING OF ZIPANGU」1992年:織田信長(1534年~1582年)
「太閤記」1965年(昭和40年):豊臣秀吉(1537~1598年)
「秀吉」1996年:豊臣秀吉(1537~1598年)
「おんな太閤記」1981年:高台院ねね(1542年~1624年)
「利家とまつ~加賀百万石物語~」2002年:前田利家(1537年~1599年)、芳春院まつ(1547年~1617年)
「徳川家康」1983年:徳川家康(1543年~1616年)
「功名が辻」2006年:山内一豊の妻・見性院千代(1557年~1617年)
「琉球の風」1993年:尚寧王(1564年~1620年)
「黄金の日日」1978年:呂宋助左衛門(1565年~没年不詳)
「独眼竜政宗」1987年:伊達政宗(1567年~1636年)

江戸時代(~元禄)
「葵 徳川三代」2000年:徳川家康(1543年~1616年)、秀忠(1579~1632年)、家光(1604年~1651年)
「春の坂道」1971年:柳生但馬守宗矩(1571年~1646年)
「春日局」1989年(平成元年):春日局(1579年~1643年)
「武蔵 MUSASHI」2003年:宮本武蔵(1584年~1645年)
「樅ノ木は残った」1970年:原田甲斐(1619年~1671年)
「元禄太平記」1975年(昭和50年):柳沢吉保(1658年~1714年(1680年~1709年))
「赤穂浪士」1964年:大石内蔵助(1659年~1703年)
「峠の群像」1982年:大石内蔵助(1659年~1703年)
「元禄繚乱」1999年:大石内蔵助(1659年~1703年)

江戸時代(~文化・文政)
「八代将軍 吉宗」1995年:徳川吉宗(1684年~1751年)

江戸時代(~幕末)
「花の生涯」1963年(昭和38年):井伊直弼(1815年~1860年)
「勝海舟」1974年:勝海舟(1823年~1899年)
「花神」1977年:大村益次郎(1824年~1869年)
「翔ぶが如く」1990年:西郷隆盛(1828年~1877年)、大久保利通(1830年~1878年)
「新選組!」2004年:近藤勇(1834年~1868年)
「竜馬がゆく」1968年:坂本竜馬(1836年~1867年)
「篤姫」2008年(平成20年):天璋院篤姫(1836年~1883年)
「徳川慶喜」1998年(平成10年):徳川慶喜(1837年~1913年)
「三姉妹」1967年:(幕末~明治)

明治時代
「獅子の時代」1980年:(幕末~明治)

大正時代
「春の波濤」1985年(昭和60年):川上貞奴(1871年~1946年)

昭和時代
「山河燃ゆ」1984年:(昭和初期~二次大戦)
「いのち」1986年:(戦後40年史)

未見もあるので、大体の年代です。
特に適当なのが戦国時代~江戸初期までです。
この辺は年代が重なっている登場人物が多くて……。
一応、信長、秀吉、家康は安土桃山で。この3人に深く関わった人間も安土・桃山に分類しました。
家康は単品だと安土・桃山、家康+αだと江戸時代と分類しました。
また江戸幕府に関わった人間は江戸時代と分類しました。

それにしても「赤穂浪士」の人気は半端じゃないですね。
大河ドラマだけで4作品です。
いわゆる「日本三大仇討ち」の中でも別格ですよね。
なんでここまで人気なのでしょうねぇ。
歌舞伎ではあと二つ、「曾我兄弟の仇討ち」、「伊賀越えの仇討ち」も人気なのですが。
やはり、赤穂観光協会の誘致がきいたのでしょうか?

余談
「赤穂浪士」と言えば赤穂となっているが、赤穂にはぶっちゃけ赤穂浪士関係の資料なんて何一つ残っていないのだ
赤穂の浅野家はお家取りつぶしになったし、赤穂浪士は切腹になったしで、赤穂の領民たちは彼らに関わるものをすべて廃棄したからである。
ということで、「赤穂浪士」にはまって赤穂へ行っても、何一つ見るべきものはない。
ちなみに「忠臣蔵」を作った近松門左衛門は尼崎出身なので、人形浄瑠璃・歌舞伎関係は尼崎へ行った方が良い。
赤穂に何があるかと言えば、討ち入りの日である12月14日に「義士祭」があるのみだ。しかもそれは旧暦で行っていて、現在の暦に直すと1月30日になる。
では、なぜ12月14日にするかというと、ぶっちゃけ観光客の足が途絶えてしまう12月に客を寄せようという理由からである。
そもそも討ち入りは江戸だろうが! というツッコミはもはや無しなのである。
だったら、と私は思うのだ。
せめて「忠臣蔵」だけでもガンガンに上演して、「赤穂浪士の里」となったらどうだろう。
歌舞伎も浄瑠璃も実は忠臣蔵の全エピソードを通してやることはない。
一個一個のエピソードを抜き出してやる。
これが、素人にはわけが分からなくなる要因だったりする。
だからこの際、赤穂では12月いっぱい、「忠臣蔵」関係の歌舞伎やら浄瑠璃やら舞台やら映画やらドラマやらを一気に上演してほしいのだ。
そこまでやって初めて「義士祭」になるんじゃないだろうか?
太鼓どんどん叩いてパレードするのが義士祭じゃないと思うのだが。

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