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~我々は皆少しおかしい(イタリアの慣用句)~

普段色々考えていることの日記です。

源平合戦好きな武将3

2008年08月16日 | 雑記
源平合戦好きな武将(武将じゃない人もいるが)をつらつらあげてみる。
ここからは、源平合戦を扱った小説では有名だけど、私はあまり詳しく知らない人たち。
でもここは、というところでなかなかな見せ場を魅せてくれるのです。


安達盛長
 伊豆に流された頼朝のそば仕えをしていた側近中の側近。伝説では北条政子を見出したのは彼ということになっているみたいです。
 この人の見せ場はそれこそ星の数ほどもあり、どんな小説でも頼朝にもっとも忠節な武士として登場します。特に忠君がもてはやされた江戸時代、この人は様々な伝説を残していきました。
 その一つが、頼朝が神社に詣でているとき彼は神社の鳥居の外でいつも頼朝の祈りが終わるまで待っていたという話。彼が待っていたところには彼が座っていたという石があるそうなのですが、それがどこの神社だったか忘れました。やじきた学園道中というマンガの中で出て来る話ですので、またいずれ見つけたら書いておきます。
 私は初めこの人が好きではありませんでした。典型的な忠君愛孝の士という感じで、大っ嫌いだったのです。
 ですが吾妻鏡の安達盛長は同じ忠君でも江戸時代にもてはやされた忠君とはどこか毛色が違っていて、「おや」と目をこすったのを覚えています。
 その一つが頼家の時代のこと。頼家が盛長の息子景盛の年若い妻を強奪したとき、ついでだからと盛長・景盛に謀反の罪をかぶせようとしました。結局政子が割って入ることで事なきを得たのですが、この時盛長は粛々と主君(この場合主君の子)の決定に従ったのではなく、鎧具足を付けて徹底抗戦の構えを見せたのです。
 江戸時代なら「君君たらずとも、臣臣たらざるなり」とばかりに、主君の命令どおり謀反の罪を着て切腹することが尊ばれたでしょう。が、盛長は違いました。「君君たらずば、臣臣たらざらんなり」とばかりに合戦を覚悟したのです。
 この人こそと思う人に命を捧げることは、ただ盲目的に従うことではなく、いざというときはその命を賭けて抗議することも辞さないことでもあるのだと、盛長は主張しているようでした。
 実はこの話、北条寄りの吾妻鏡が二代将軍頼家の評判を落とすために書いているという噂もありますが、盛長のこの姿勢は当時の鎌倉武士がもてはやす忠君の姿勢だったのではないかな?

千葉介常胤
 演出力は抜群のおじさまです。私は三浦義明とともに渋格好いいじいちゃんズの1人に数えています。
 まずは頼朝の旗揚げに参戦するときの演出が心憎い。
 安房に渡った頼朝は千葉と上総にそれぞれ協力の使いを出します。常胤の元に来たのは頼朝の腹心安達盛長。しかし常胤はその盛長を3日待たせます。3日間常胤の家の前で辛抱強く待っていた盛長も盛長ですが、待たせた常胤も常胤。やっと息子の六郎胤頼の言葉で盛長に会うことを決心したのですが、常胤は盛長の言を目をつぶって聞き、一言も言葉を発しない。じれた太郎胤正と六郎胤頼が父親に詰め寄ると、
「とうとうこの時が来たかと思うと胸がつかえて言葉が出なかった」
 その後息子を出陣させて目代を追い出し、その勝ち戦を手みやげに頼朝の元へ馳せ参じるのである。
 常胤は参戦がかなり遅くなったにもかかわらず頼朝の喜びようはなかった。
 同族の上総介広常も頼朝に恩を売ろうと思って後から参戦した口だったけど、常胤の演出力には一歩及ばず、「今更来ても遅い! とっとと帰れ!」と怒られ、慌ててわびを入れなければいけなくなったのだった。
 さらには頼朝の嫡男頼家が生まれたとき、みなこぞって馬やら鎧やら剣やらを献上したのだが、常胤の場合ひと味も二味も違った。
 馬、鎧、剣をそれぞれ自分の息子に持たせ、しかも全員白い水干姿でそろえたのである。
 何とも粋な演出ではないですか!?
 他にも頼朝の父、義朝が討たれたとき共に討たれた家臣の息子を預かっていて、頼朝の門出に引き合わせたりとか、ともかくやる演出やる演出全てが心憎い心配りがされているのである。
 う~む、さすが!

畠山重忠
 男が惚れる男という者は古今東西あまたあるけど、畠山重忠もその一人なのではないかな。
 もし知らないという男性がいらっしゃったら、是非この機会に知って下さい。
 彼は惚れ惚れするほどの男っぷりなのである。
 まず奥州討伐戦。
 先陣を狙う三浦義村、葛西清重らは明日決戦という日、その日の夜から出陣しようとした。もちろん大将の畠山重忠には内緒で。まぁ、ぶっちゃけ抜け駆けしようとしたわけですね。しかしそれを聞いた重忠は「自分は頼朝に先陣を任されたから彼らがいくら抜け駆けをしても先陣の功は自分にある。むしろ彼らを止めることによって部下の功を取ってしまうことになるから」と義村たちの行動を見逃したのである。
 またあるとき、和田義盛が敵の大将の肩を見事撃ち抜きますが、そこへ突撃してきた畠山軍が義盛が射抜いた大将の首を横取りしてしまいます。もちろん合戦が終わった後義盛は重忠に抗議します。
「その大将の首は先に俺が射抜いていたから討ち取ることが出来たのだ。畠山は後から横取りしたにすぎない」
 義盛が言うとおり敵の大将の肩には義盛の矢が射込まれています。これはどういうことだ。まさかあの畠山が功の横取りをしたのかとみな色めき立ったのですが、重忠の返答は
「私は矢のことを知りませんでした。家臣が取ってきたのでその首を受け取っただけです」
 つまり、義盛の抗議はそのまま義盛の言うとおりだと証言したのである。
 合戦の功は恩賞をもらえるのでみな血眼になって狙います。そしてこのように合戦の後の論功行賞の時はしばしば様々な武士がその殊勲で争いますが、重忠はそれをそっくりそのまま和田義盛に譲ったというわけである。
 なんて公正な方だとみなが褒めそやしたのは言うまでもない。
 他にもある。
 ある御家人が謀反人を捉えようとしたとき、その謀反人は相撲の名手で簡単に捉えられなかった。するりと逃げ出し重忠の元へとやって来たとき、重忠は座ったままでその謀反人を捉えたのである。
 だが、そもそもその謀反人を捕まえろと言われたのはその御家人である。謀反人はその御家人が捕まえたことになった。
 ところが重忠の家臣が「謀反人を捕まえたのは重忠だ」と訴えたから話がややこしくなる。
 しかし重忠は「私はたまたまその場に居合わせて協力しただけで、謀反人を捕まえたわけではない」と言い、さらにそう訴えた者に「何か訴えたいことがあれば正々堂々と行え。この重忠の名前を出すなどと言う卑怯なマネをするな」と怒ったのであった。
 これだけ公正な人だから執権北条時政が彼の謀反を主張したときは、みなびっくりした。息子である義時ですら、「それはとうてい信じられません」と反論した。だが、執権の命令は絶対。みな渋々畠山をうつ。
 ところで重忠は鎌倉で謀反という報を受け取り、急ぎ手勢をまとめて鎌倉へと急行している最中であった。しかし鎌倉に近づくと、なぜか戦支度の軍勢が待っている。しかもまるで自分たちと一戦するかのような構えだ。
 これはどうしたことだ。
 そこへ重忠の息子重保が謀反人として討ち取られたことが知らされる。
 我々は謀られたのか!?
 急ぎ国元へ帰ろうと主張する家臣に重忠は言う。
 そんなことをすれば謀反人だったことを認めてしまうようなものだ。
 我々はここで正々堂々と討ち果て、潔白であることを証明しよう。
 その言葉どおり、彼は二俣川で壮絶な死を迎える。
 重忠は梶原景時の讒言で謀反の疑いをかけられたとき、憤りのあまり自害しようとしたほど公正な人物だった。その重忠が正々堂々と戦うのだ。立ち向かう御家人たちはみな手が鈍ってしまう。
 それでもなんとか討ち果たしたが、みな苦い思いを胸に抱えて鎌倉に帰ることになった。
 そしてその怒りは、重忠討伐を命令した時政へと向かうことになる。

小山(結城)朝光
 頼朝の烏帽子子で親衛隊。
 男が惚れる男が畠山重忠なら女性が惚れる男性はこの結城朝光だと思う。
 同性愛的な意味ではなく主君愛的な意味で「頼朝様LOVE」な感じが可愛いのだ。
 例えば頼朝が必勝祈願をしていたとき、朝光はつい「絶対勝ちますよ」と口を出してしまう。
 もちろん即座に頼朝は叱る。
「私が神に語りかけたのであって、お前に語ったのではない」
 ここで普通なら「ちぇ、ちょっと言っただけじゃん」となるところが、朝光は「さすが頼朝様」となるのである。
 それぐらい頼朝を敬愛している朝光だから、頼朝が亡くなったときは後追い出家をしたがるほど嘆き悲しんだ。だが後追い出家は頼朝の遺言で禁止されていた。だから渋々出家しなかったのだが、余程それが心名残だったのだろう。頼朝の法要でついぽろっと口に出してしまった。
「忠臣は二君に仕えないという。私もその言葉どおり、頼朝様が亡くなった後出家すれば良かった」
 ところがこれが、聞く人が聞けば逆心と思われてしまうのだから、世の中は恐い。
 しかし朝光はよほど他の武将から愛されていたのだろう。
「朝光を罷免するな! 罷免すべきは朝光を讒訴した梶原景時だ!」
 と66人もの武将が署名して直訴します。
 さすがに頼家も抑えきれず景時の方を罷免し、これが景時の謀反へとつながっていくのである。
 こんな感じの朝光だが、弓の達人でもあり、また和歌にも通じており、文武両刀の武将である。
 同じく文武両刀の梶原景季とは頼朝親衛隊同士の間柄。景季と共に武将の説得に当たったり頼朝の言を伝えたりしている場面がたくさんある。そして景季と違い、同僚武将の危急を助ける場面での活躍が多い。例えば頼朝に裁かれショックで絶食した畠山重忠のために、頼朝に処分を軽くするように進言したりとか。
 こういう性格が多くの武将から愛され、その危急時に66人もの署名が集まったのだと思う。梶原景季と同じく曾我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経も頼朝親衛隊のメンバーだが、二人ともその危急時に他の武将にかばってもらった描写がない。だから余計に朝光の愛され度が際だっている感じがするのである(まぁ、景季と祐経は半分とばっちりという感じがしないでもないが)。
 ちなみに東下した義経に「鎌倉入り不可」の口上を伝えたのも朝光である。畠山重忠を救った朝光であるが、義経は頼朝にとって不要の者と見たのか、かばうことはなかった。それとも朝光が述べれば少しは角が立たないと頼朝が判断したのか。
 

熊谷直実
 歌舞伎や能、謡曲を好きな人ならこの人を知らない人はいないでしょう。
 一ノ谷の合戦で熊谷直実と平敦盛が戦うシーンは名シーン中の名シーンです。
 波打ち際に逃げようとしていた平家の貴公子を呼び止め、一騎打ちを申し込む直実。ここで逃げれば武士の名が泣くと一騎打ちに応える敦盛。
 だが初陣の敦盛は歴戦の強者直実にはかないません。あっけなく直実に組み敷かれてしまいます。
 敦盛の首を取ろうと兜をはぐ直実。ところがその兜の下から出た敦盛の若い顔に直実は動揺します。つい先だって自分の息子が怪我をしただけで心配した直実である。この若武者も親はどれだけ嘆き悲しむだろう。
 しかし自分が取らなければ他の誰かが取るため泣く泣くその首級を上げる。
 そして直実はこれがきっかけで出家すると『平家物語』は語ります。
 ただし『吾妻鏡』にはこのようなことをまったく記述されておらず、直実は訴訟問題で逆切れして出家するのである。
 『平家物語』の方の描写はこれ以上にないぐらい美しくて私は大好きだけど、やはり直実は『吾妻鏡』の方でなくちゃと私は思うのである。
 というのも、直実は同僚の平山季重とかなりしょっちゅう先陣争いをするのだ。しかもその争い方が子供じみていてとてもおかしい(いや、やってる本人たちにとっては命を賭けた真剣勝負なんだけどね)。
 例えば鵯越の逆落としで一番乗りしたけど早く駆け下りすぎて敵に囲まれ危うく命を落としかけたり。同僚の平山季重を出し抜こうと前日の夜中から敵陣前に陣取って一番乗りの名乗りを上げたのだけど、さすがに早すぎて誰もいなかったり。仕方がないから「俺こそ一番乗り」とやって来た平山季重を待って、彼の前でもう一度名乗りを上げる。
「さっき名乗った熊谷直実ちゅうもんやけど、もう一回名乗るからな! よく聞けよ! 俺が熊谷直実や! 夜露死苦!」
 こんなに功に逸っている直実が敦盛の首を取ったぐらいで出家する方が考えられない。
 それよりは、訴訟が上手くいかなくって逆切れ出家の方が、らしくて私は好きである。

大江広元

三善康信

工藤祐経

平重衡
平知盛
平教経

斎藤実盛

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