今日CSで久しぶりに映画「エリザベス」を観ました。
確かに、メアリー・オブ・ギーズは「クイーン・メアリー」と呼ばれていましたが、アンジュー公(フランス人)の叔母であることをきちんと明示してありますし、ノーフォーク公が「スコットランド女王メアリーとの結婚」をローマ教皇に命令されるのも彼女が死んだ後です。
つまり、彼女はかの有名なメアリー女王ではないことをきちんと明示してあるのですが、なぜ彼女をメアリー女王と勘違いしてしまったのか……(当時の映画感想で、彼女をメアリー女王と勘違いしている方が多かったのです)
それだけ、スコットランド女王メアリーはエリザベス女王との因縁深い女王として有名なのでしょう。
3人目は、そんな因縁深いメアリー女王の母親。同じ「クイーン・メアリー」ですが、スコットランド「王妃」のメアリーです。
3人目のメアリー:メアリー・オブ・ギーズ
スコットランド王妃ですが、映画でアンジュー公の叔母と紹介されたとおり、れっきとしたフランス人です。フランスの名門貴族ギーズ公の娘でしたので、メアリー・オブ・ギーズと呼ばれました。あるいは、フランス風にマリー・ド・ロレーヌと呼ばれることもあります。以後、娘メアリーとの区別がややこしいので、彼女は「マリー」と呼びます。
彼女とスコットランド王ジェームズ5世とはお互いに再婚同士でした。さらに、ジェームズには数多くの愛人と私生児がおり、マリーにも前夫との間に幼い息子がいました。
そんな中なぜマリーがジェームズと結婚したかと言えば、ひとえにスコットランドとフランスの友好のためでした。と言っても、一人目のメアリー、ヘンリー8世の妹で元フランス王妃のメアリー・テューダーがフランス国王と結婚したのとはちょっと事情が違います。
こちらは仮想敵国同士(ついちょっと前までイングランドとフランスは100年戦争をしていた)が、講和条約を結ぶための結婚でした。つまり、メアリー・テューダーは和平の担保として結婚したのです。国王はすでに老人でしたので、世継ぎすらも望まれていませんでした。
一方、マリーの結婚はスコットランドとフランスの同盟のための結婚でした。お互い仮想敵としてイングランドを持つ両国は、敵の敵は味方とばかりによく同盟を結びました。フランスは何かあった場合、スコットランドがイングランドを攻めてくれることを望みましたし、スコットランドはフランスの援助を求めました。
望まれるのはスコットランドとフランスとの恒久的な友好状態。マリーはジェームズとの間に世継ぎを産むことが期待されました。
ところが、ジェームズ5世とマリーの間は不仲だったのか、一人娘メアリーが産まれるまでかなり時間がかかりました。そして、メアリーが産まれてすぐに夫ジェームズ5世は亡くなってしまいます。
ジェームズの嫡出子はメアリーだけでしたので(前妻との間に子供は無し)、当然メアリーが女王となりました。そして赤ん坊の女王の摂政にマリーが就いたのです。
ところがマリーが治めたスコットランドは、母国フランスとは比べようもないぐらい混沌とした国でした。スコットランド貴族は、貴族というより氏族と称した方がふさわしい有り体で、氏族同士の対決をいまだに繰り返していました。王権はこの氏族にほとんど支配されていました。
これではイングランドにつけ込んでくれと言っているようなものです。
現にヘンリー8世は、産まれたばかりのメアリーを次期国王エドワード6世と結婚するように命令します。
この結婚が成り立っていれば、メアリーとエドワードの子供はイングランドとスコットランドの王冠を抱いたことでしょう。そしてそれは、イングランドによるスコットランドの支配を意味していました。(結局メアリーの息子は別の形でイングランドの王冠を抱きますが)
マリーはスコットランドの立て直しを図ります。女が国を治めるなんてと揶揄されながら、イングランド派だったボスウェル伯やアラン伯を味方につけ、イングランド軍と戦います。
一方的な言いつけで婚約されたメアリーとエドワードの婚約は破棄し、フランス皇太子との婚約を取り付けます。そして幼いメアリーを皇太子の婚約者としてフランスの宮廷へ疎開させました。
スコットランドでは新イングランド派と新フランス派の貴族の争いが激しくなっていきます。そこにカトリックとプロテスタントとの争いも加わりますます混沌としてきました。彼女は愛娘メアリーの結婚に立ち会うことすらできなかったぐらいです。
ちょうど同じ頃、イングランドの女王にエリザベスが就きます。
これが、イングランドとスコットランド、そしてフランス、スペインの関係をややこしくしました。
メアリーの父ジェームズ5世は、エリザベスの父ヘンリー8世の姉を母親に持っていたのです。そしてエリザベスは、カトリックからは私生児と断定されている女王でした(ヘンリー8世は教皇の許可無く前妻と離婚し、エリザベスの母親と結婚した)。
メアリーは、カトリックの規則ではイングランドの正当な王位継承者であり、スコットランドとフランス、そしてイングランドの王冠を抱ける存在となったのです。これに気付いたフランス国王は、わざとメアリーの紋章にイングランド国王の紋章を入れます。
当然ですが、イングランド側は激怒します。撤回するようにフランス側とスコットランド側に申し入れします。
この時、映画ではマリーがイングランドのカトリック派の貴族を扇動してエリザベスを苦況に追いつめるシーンがあります。が、実際には苦境に立たされたのはマリーの方でした。彼女はフランスに援助を求めに行きましたがなしのつぶてで、マリーはイングランド軍とプロテスタント派の貴族に城を包囲されてしまいます。
結局、メアリーがイングランド国王の紋章を使用しないこと(イングランドの王位を要求しない)を条件に、イングランド軍は撤退します。もちろん、スコットランドのプロテスタントは勢いづき、スコットランドにも宗教改革が訪れました。
マリーはさらにデンマークに援助を求めたりしますが、成し遂げる前に亡くなりました。
自分の行為が娘の首に縄を掛けたとも知らずに。
参考文献:森護「英国王室史話」
森護「スコットランド王室史話」
アントニア・フレイザー 『スコットランド女王メアリ』 松本たま訳、1988年、中央公論社
確かに、メアリー・オブ・ギーズは「クイーン・メアリー」と呼ばれていましたが、アンジュー公(フランス人)の叔母であることをきちんと明示してありますし、ノーフォーク公が「スコットランド女王メアリーとの結婚」をローマ教皇に命令されるのも彼女が死んだ後です。
つまり、彼女はかの有名なメアリー女王ではないことをきちんと明示してあるのですが、なぜ彼女をメアリー女王と勘違いしてしまったのか……(当時の映画感想で、彼女をメアリー女王と勘違いしている方が多かったのです)
それだけ、スコットランド女王メアリーはエリザベス女王との因縁深い女王として有名なのでしょう。
3人目は、そんな因縁深いメアリー女王の母親。同じ「クイーン・メアリー」ですが、スコットランド「王妃」のメアリーです。
3人目のメアリー:メアリー・オブ・ギーズ
スコットランド王妃ですが、映画でアンジュー公の叔母と紹介されたとおり、れっきとしたフランス人です。フランスの名門貴族ギーズ公の娘でしたので、メアリー・オブ・ギーズと呼ばれました。あるいは、フランス風にマリー・ド・ロレーヌと呼ばれることもあります。以後、娘メアリーとの区別がややこしいので、彼女は「マリー」と呼びます。
彼女とスコットランド王ジェームズ5世とはお互いに再婚同士でした。さらに、ジェームズには数多くの愛人と私生児がおり、マリーにも前夫との間に幼い息子がいました。
そんな中なぜマリーがジェームズと結婚したかと言えば、ひとえにスコットランドとフランスの友好のためでした。と言っても、一人目のメアリー、ヘンリー8世の妹で元フランス王妃のメアリー・テューダーがフランス国王と結婚したのとはちょっと事情が違います。
こちらは仮想敵国同士(ついちょっと前までイングランドとフランスは100年戦争をしていた)が、講和条約を結ぶための結婚でした。つまり、メアリー・テューダーは和平の担保として結婚したのです。国王はすでに老人でしたので、世継ぎすらも望まれていませんでした。
一方、マリーの結婚はスコットランドとフランスの同盟のための結婚でした。お互い仮想敵としてイングランドを持つ両国は、敵の敵は味方とばかりによく同盟を結びました。フランスは何かあった場合、スコットランドがイングランドを攻めてくれることを望みましたし、スコットランドはフランスの援助を求めました。
望まれるのはスコットランドとフランスとの恒久的な友好状態。マリーはジェームズとの間に世継ぎを産むことが期待されました。
ところが、ジェームズ5世とマリーの間は不仲だったのか、一人娘メアリーが産まれるまでかなり時間がかかりました。そして、メアリーが産まれてすぐに夫ジェームズ5世は亡くなってしまいます。
ジェームズの嫡出子はメアリーだけでしたので(前妻との間に子供は無し)、当然メアリーが女王となりました。そして赤ん坊の女王の摂政にマリーが就いたのです。
ところがマリーが治めたスコットランドは、母国フランスとは比べようもないぐらい混沌とした国でした。スコットランド貴族は、貴族というより氏族と称した方がふさわしい有り体で、氏族同士の対決をいまだに繰り返していました。王権はこの氏族にほとんど支配されていました。
これではイングランドにつけ込んでくれと言っているようなものです。
現にヘンリー8世は、産まれたばかりのメアリーを次期国王エドワード6世と結婚するように命令します。
この結婚が成り立っていれば、メアリーとエドワードの子供はイングランドとスコットランドの王冠を抱いたことでしょう。そしてそれは、イングランドによるスコットランドの支配を意味していました。(結局メアリーの息子は別の形でイングランドの王冠を抱きますが)
マリーはスコットランドの立て直しを図ります。女が国を治めるなんてと揶揄されながら、イングランド派だったボスウェル伯やアラン伯を味方につけ、イングランド軍と戦います。
一方的な言いつけで婚約されたメアリーとエドワードの婚約は破棄し、フランス皇太子との婚約を取り付けます。そして幼いメアリーを皇太子の婚約者としてフランスの宮廷へ疎開させました。
スコットランドでは新イングランド派と新フランス派の貴族の争いが激しくなっていきます。そこにカトリックとプロテスタントとの争いも加わりますます混沌としてきました。彼女は愛娘メアリーの結婚に立ち会うことすらできなかったぐらいです。
ちょうど同じ頃、イングランドの女王にエリザベスが就きます。
これが、イングランドとスコットランド、そしてフランス、スペインの関係をややこしくしました。
メアリーの父ジェームズ5世は、エリザベスの父ヘンリー8世の姉を母親に持っていたのです。そしてエリザベスは、カトリックからは私生児と断定されている女王でした(ヘンリー8世は教皇の許可無く前妻と離婚し、エリザベスの母親と結婚した)。
メアリーは、カトリックの規則ではイングランドの正当な王位継承者であり、スコットランドとフランス、そしてイングランドの王冠を抱ける存在となったのです。これに気付いたフランス国王は、わざとメアリーの紋章にイングランド国王の紋章を入れます。
当然ですが、イングランド側は激怒します。撤回するようにフランス側とスコットランド側に申し入れします。
この時、映画ではマリーがイングランドのカトリック派の貴族を扇動してエリザベスを苦況に追いつめるシーンがあります。が、実際には苦境に立たされたのはマリーの方でした。彼女はフランスに援助を求めに行きましたがなしのつぶてで、マリーはイングランド軍とプロテスタント派の貴族に城を包囲されてしまいます。
結局、メアリーがイングランド国王の紋章を使用しないこと(イングランドの王位を要求しない)を条件に、イングランド軍は撤退します。もちろん、スコットランドのプロテスタントは勢いづき、スコットランドにも宗教改革が訪れました。
マリーはさらにデンマークに援助を求めたりしますが、成し遂げる前に亡くなりました。
自分の行為が娘の首に縄を掛けたとも知らずに。
参考文献:森護「英国王室史話」
森護「スコットランド王室史話」
アントニア・フレイザー 『スコットランド女王メアリ』 松本たま訳、1988年、中央公論社
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