Siamo tutti un po' pazzi.

~我々は皆少しおかしい(イタリアの慣用句)~

普段色々考えていることの日記です。

祖父の戦争体験談

2010年05月23日 | 雑記
亡くなった祖父の戦争体験談は面白いものばかり。
本人はもう亡くなっているので、これ以上新しいネタはでてきませんが、
せっかくだから覚えている体験談だけメモっておこうと思って……
ちなみに差別発言もありますが、当時の人の言葉としてご容赦ください。

戦争前は大阪の紳士服の仕立屋で働いていた。
ひいきにしてくれた旦那が「何かしたいことはあるか?」と聞かれて、戦争に兵隊として行きたくないから「学校に行きたい」と言って商業学校に通った。

当時大阪にいた従妹とよく宝塚歌劇に観劇に行った。
(「愛と青春の宝塚」というドラマで「戦争中なので袴ははけない」という発言に対して)「いや、袴は正装やからはいとったぞ」「あと、袴ブルマというもんがあって、それもはいとった」「もんぺなんか、誰もはいてなかった」

徴兵の時、「(商売人は)算盤ができて手先が器用やから海軍の通信兵やらされた。だから鉄砲なんか持ったこともない」
(海軍に回されたのは泳ぎが得意で背が高かったから)
「幼馴染が戦車の部隊に回された。運転手だから上官が戦車の上から右行け、左行けの指示を肩を足で蹴飛ばして指示するから、肩に水が溜まってしまった」

戦争で負傷して病院に入院している時、「隣に寝ている人が特攻やったけど、怖くなって逃げて帰ってきた人だった」
家族は怒ったんじゃないの?という私の質問に対して「いや、泣いて喜んでいた。『よく生きて帰ってきた』と言って。本人もけろっとしていて、『怖くなって逃げてきた』と話してくれた」

大阪で空襲があった時、
「家の庭の池に焼夷弾が落ちてきて、親戚のおじさんが布団に包んで家の外へ放り投げた。だから助かった」

山本五十六に会ったという話
「山本五十六が来ると言うから、朝から甲板をピカピカにして、船の中も宿舎の中も全部掃除して待っていたのに、全然来ない。結局来ないのかと思っていたら、上官にいきなり殴られ、『山本五十六が来ているから敬礼しろ』と言うんだけど、どこにも影も形もない。『どこに来てはるんですか?』と聞くとはるかかなたにある飛行機雲を差して『あれだ』と言った。あんな雲の上の話だったら、船の中掃除せんでも良かったのに。大砲の中までピカピカにしたんやで。そもそもあそこに山本五十六がいるかどうかも分からへんやないか。上官は『あれが敵機やったらどないするんや。俺はお前らの命を助けてやったんや』って得意気やったけどな」

風呂炊きなどの下働きのために中国人を雇っていた。
風呂を入れさせたら風呂釜を洗わずに水を入れた。
ちゃんと洗えって怒ったら、「汚れてない」とかなんやかんや言って洗わなかったから、そいつを風呂の中に放り投げて、「お前が入ったから汚れた」と言ったらしぶしぶ洗うようになった。また、それ以後も祖父が当番なら怖がって洗うようになった。
上官に報告したら、他の日本兵は中国人だから仕方がないと思って自分たちで風呂を洗っていたらしい。だから誰も風呂当番になりたがらなかったらしい。これからはお前に風呂当番をやってもらうと言われて、風呂当番になった。ただ監督するだけだったから、楽な仕事で、本読みながらやっていた。

撤退する時
まず一番偉い大将とか大佐が飛行機で帰ってしもて、その次に中尉とか少尉が船に乗って帰った。祖父たち後方支援は中尉とかと一緒に船に乗せてもらった。
だけど、邪魔になるから船倉に押し込められて甲板に出てくるなと言われた。
祖父は途中で気になって、「なんかいつまでもドンぱちしているけど、どないなっとんや」と甲板に出てきた。
甲板へ頭を出して、飛行機とかが宙返りしているのを「お~やっているやっている」と見ていると突然、「そこ、何をしている! 早く撃たんか!」と怒られたから、機械のこと何も分からないけどとりあえずいじっとったら怒られないだろう、と大砲にとりついて横にいる人に聞こうとしたら、その人は死んでいた。それで、「ああ、だから怒られたんやな」と納得した。

とりあえず、今思い出すのはこんなもん。
また思いだしたら、追加します。

ちなみに祖父の天皇責任論は
「天皇に戦争責任があるにきまっとるやろ。命令文書のすべてに天皇の名前が書いてあるんやから。天皇の名前であれせ―、これせ―言っているんやで。会社で社長のハンコ押していたら社長の責任やろ(だから、天皇にも戦争責任はある)。やけど、政府が天皇を置いておきたかったから、天皇には責任がないということにしたんや。それで岸部さんが死んだんや」

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