最近、本谷有紀子の"腑抜けども、悲しみの愛を見せろ"を読みました。
本谷有紀子自体が劇作家なので、
ストーリーは面白いんだけど、文章がどうしても脚本っぽい。
なんとなく小説っぽい文章を書いてはいるんだけど、
どこからか借りてきたような表現方法。
魅力的な人物達ではあるものの、文章では引き出せてなかった。
複線はいくつか張ってあったんだけど、
おそらく演劇なら「あぁ!」ってなる部分が、
どうしてもそこまで伝わらない。
ま、表現っていうのは必ず何かに依存をしてるわけです。
おそらく、この人の表現方法っていうのは、
役者にある程度依存してるものづくりをしてる気がする。
逆に言うと、役者の引き出し方を分かってる。
そこが劇作家としての魅力ともなる。
自分に置き換えてみよう。
例えば、曲の構想ができたとする。
で、今自分の手元にあるフォーマットはバンドなんで、
バンドというフォーマットに合わせた表現方法をつかうわけ。
もし、これがオーケストラだったりした場合、
同じ構想だとしても全く違うメロディーで、全く違うコード進行になる。
それは楽器の特性や構成なんかを知ってるからそういうことになるし、
そういうこともできる。
例えば、赤い絵の具のみで花を描きなさいってときと、
青い絵の具のみで花を描きなさいってときに、
そりゃ描く花は変わるわけじゃん。
赤い絵の具でバラを描いた人が、
青い絵の具でもバラを描くかというと、
そんな人はわりと少数派だよね。
別に悪いわけじゃないけどさ。
ま、無意識にでも自分のフォーマットにあわせる手段というのを知ってるのよ。
ま、最近真逆な輩も多いけどね。
思わず「薄っすいな~」って思うこともちらほら。
ある意味、需要と供給が合致してるわけだし、
その時点でなにが正なのかなんてのはわかんないけど、
だからと言って、そっちに歩み寄ろうとも思わないしね。
ただ、そういう輩から「うちらは~」なんて話を聞くと、
ちょっとカチンとくるのも確か。
そんなんで、まだまだだな~って自分のこと思うこともあるし、
逆に達観してるような素振りの視野の狭さもイヤだしね。
ま、ずーっと悩むことになるんでしょうな。
答え出したら終わりな気がするよ。
本谷有紀子自体が劇作家なので、
ストーリーは面白いんだけど、文章がどうしても脚本っぽい。
なんとなく小説っぽい文章を書いてはいるんだけど、
どこからか借りてきたような表現方法。
魅力的な人物達ではあるものの、文章では引き出せてなかった。
複線はいくつか張ってあったんだけど、
おそらく演劇なら「あぁ!」ってなる部分が、
どうしてもそこまで伝わらない。
ま、表現っていうのは必ず何かに依存をしてるわけです。
おそらく、この人の表現方法っていうのは、
役者にある程度依存してるものづくりをしてる気がする。
逆に言うと、役者の引き出し方を分かってる。
そこが劇作家としての魅力ともなる。
自分に置き換えてみよう。
例えば、曲の構想ができたとする。
で、今自分の手元にあるフォーマットはバンドなんで、
バンドというフォーマットに合わせた表現方法をつかうわけ。
もし、これがオーケストラだったりした場合、
同じ構想だとしても全く違うメロディーで、全く違うコード進行になる。
それは楽器の特性や構成なんかを知ってるからそういうことになるし、
そういうこともできる。
例えば、赤い絵の具のみで花を描きなさいってときと、
青い絵の具のみで花を描きなさいってときに、
そりゃ描く花は変わるわけじゃん。
赤い絵の具でバラを描いた人が、
青い絵の具でもバラを描くかというと、
そんな人はわりと少数派だよね。
別に悪いわけじゃないけどさ。
ま、無意識にでも自分のフォーマットにあわせる手段というのを知ってるのよ。
ま、最近真逆な輩も多いけどね。
思わず「薄っすいな~」って思うこともちらほら。
ある意味、需要と供給が合致してるわけだし、
その時点でなにが正なのかなんてのはわかんないけど、
だからと言って、そっちに歩み寄ろうとも思わないしね。
ただ、そういう輩から「うちらは~」なんて話を聞くと、
ちょっとカチンとくるのも確か。
そんなんで、まだまだだな~って自分のこと思うこともあるし、
逆に達観してるような素振りの視野の狭さもイヤだしね。
ま、ずーっと悩むことになるんでしょうな。
答え出したら終わりな気がするよ。