Art&Blue-Liberalism:青き自由主義 復刻版 など 

アダム・スミスとマックス・シュティルナーの思想を参考にして自由に個人が生きる世を目指す!

★ 表紙 ★    国民国家の黄昏にて & Art&Blue-Liberalism:青き自由主義 復刻版 など

2022-09-19 08:28:02 | 国民国家の黄昏にて
著者の自作絵 "Where East meets West at Belgrade." * 自作絵画集リンク *

Art&Blue-Liberalism:青き自由主義 復刻版
 これは筆者が2005年から2006年にかけて執筆した1~9章を再掲載して、そして書きそびれた最終章をあの若き頃に馳せて書き綴ったあの10年以上たった書き足す。
【前書き⇒序章~】(2005年に作成したArt&Blue-Liberalismの原点!ここから歴史は始まった!)
【最終章:マックス・シュティルナー:究極の自由主義者】 (10年以上の時を超えて書き足し!!)

★ 国民国家の黄昏にて ☆
1. グローバル資本主義の潮流
2. 公的部門への影響と進む都市化現象
3. マルクス論の是非とアノミー化社会
4. 最後の国民国家としての日本
5. 時事情勢と諸外国観察





カタカムナ ウタヒ 第5,6,7,8首


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Capitalism(資本主義)とCorporatism(法人支配主義)の違い

2018-01-08 21:34:47 | 国民国家の黄昏にて
* 下記は過去2007年に私が書いた記事の復刻版です。『るいネット』というサイトにも紹介していただきました。

Capitalism(資本主義)とCorporatism(法人支配主義)の違い
ポリティカルコンパス / 2006-08-24 23:25:49
私は表明します、アメリカ社会は既に資本主義じゃありません! 『法人支配主義』です! 英語のサイトですが、この理由について非常に詳細に明記しております。


↓ポリティカルコンパス(Rational Spectrum) ↓
ポリティカルコンパス


*この記事は来訪者の方に送ったコメントをコピーしたものです。 アメリカ式資本主義の変貌および現在の世界を理解する上で非常に重要な内容です。

アメリカは自らを健全な資本主義と名乗っておりますが、資本主義の最大の強みである自由競争および成果主義が『逆説的に』弱まっているのです。 経済社会の機能障害に対し処方箋を施すどころかむしろ意図として形成している背景が彷彿されます。 上で私が紹介した『レショナル・レボリューション・ネット』の理論では今のアメリカ社会は実はイタリアの独裁者ムッソリーニが築こうとした社会像だったのです。 これは小さな政府、個人主義を通り越した先の「一部の個人団体の持ち物になった大きな政府」、つまりは『ムッソリーニ型ファシズム=法人支配主義』なのです! そしてムッソリーニもブッシュ(子)も一部の部類の個人団体が支配する『キリスト教原理主義』に基づいた社会を支持しています。これはスターリン主義とまったく逆の性質ですが、同じ質をもった社会を形成しているのです。 つまり『党と政府によって牛耳られた社会ではなく、宗教と企業によって牛耳られた社会』なのです!

『法人支配主義』を保つためには資本主義的競争は実は邪魔でしかないのです。 ですから起業独占を可能な限り保ち、逆説的に、競争を制限する必要があるからです。 つまり『自称自由資本主義の全体主義者』です!



* 下記(引用)が『るいネット』で記載されていました紹介文です:


アメリカ→官邸→マスコミによる支配
130237 独占企業が支配するアメリカは法人支配主義社会である
 
渡辺卓郎 ( 34 東京 設計士 ) 06/09/07 PM08 【印刷用へ】
Art&Blue-Liberalism
『Capitalism(資本主義)とCorporatism(法人支配主義)の違い』

以下引用
-------------------
私は表明します、アメリカ社会は既に資本主義じゃありません! 『法人支配主義』です!
英語のサイトですが、この理由について非常に詳細に明記しております。
-------------------
ここで紹介されているサイト
Redefining the Political Spectrum
「政治的スペクトラムの再定義」
リンク

ポリティカルコンパスの図
リンク

CapitalismとCommunismという単純な対立軸を超え、ここではアメリカはCorporatism(法人支配主義)である、という定義付けを行っています。

国家統制経済であるところのマルクス主義を経済的極左とすると、ブッシュ・アメリカは、自由主義経済(レーガノミクスが代表)を更に右旋回させた、独占企業が国家を支配する経済的極右集団と定義されます。

そして、社会的には、外国人排斥・民族浄化を行ったヒトラーやムソリーニと同じグループです。(さらにはアーミッシュと同程度の異集団排斥度に分類されている!)

右派・左派という単なる2分法では、アメリカ支配の本質は見えてこないのではないか、と思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビットコインの登場とこれからの金融市場

2017-01-17 19:02:34 | 国民国家の黄昏にて
ビットコインのようなデジタル通貨の導入は、その国の通貨システムが未熟で絶えず混乱している国に住む個人に有益でしょう。多くの新興国(LDCと第3世界は廃止される)は、ビットコインなどの電気通貨に適合します。技術革新の飛躍的発展は、アフリカ、アジア、南米の様々な新興国がビットコインのような国際的な電気通貨システムを導入することを可能にするでしょう。これは、既存の伝統的な金融政策ユニットを改善するよりもはるかにコストがかかりませんでしょう。これは、これらの国が、固定電話会社の独占的企業によって制限されていない、新しい携帯電話デバイスおよびその市場競争を適応させることがはるかに容易である状況に似ている。

比較的安定した通貨制度を備えた先進国でさえも、この種のデジタル通貨の普及によって依然として影響を受けるでしょう。この世界のより多くの個人は、通貨へのアクセス可能性およびワールドワイドウェブを介して世界全体を結ぶ取引場所の規模のために、ビットコインまたは他のデジタル通貨を使用し始めるでしょう。したがって、中央銀行によって発行された伝統的な通貨に基づく市場取引は、デジタル通貨に基づくこの新しい市場の影響を強く受けるでしょう。


ビットコインの最大の利点は、デフォルトプログラムが最大マネーサプライを制限していることです。マネーサプライは、全世界を接続するシステム全体で計算するために、より多くのCPU容量を追加することによって増加させることができます。彼女/彼のPCで容量を追加することに貢献している個人は、余分なBitcoinを獲得します。これはマイニングと呼ばれます。 ビットコインの総供給量がデフォルトプログラムによって設定された供給限度に近づくと、このマイニングプロセスの報酬は小さくなります。したがって、過剰なマネーサプライを増やすか、または個人がその使用にアクセスすることを妨げる権限はありません。

言い換えれば、ビットコインはゴールド(金)のような商品として考えられる可能性が高いです。しかし、ビットコインでは、ゴールド(金)よりもはるかに多くの人がその使用方法にアクセスできます。金よりも市場価値を設定する方が効率的であるため、光の速度で電気的に取引されるからです。このデジタルの価値は、この市場で取引される商品と、このデジタル通貨に基づく取引を通じた取引頻度によって即座に測定されます。したがって、その価値はこのデジタル通貨を使用して世界市場全体の購買力に即座に調整されます。

国家や国家グループの中央銀行の伝統的な通貨は、経済に対する権威を失い、個人はそれぞれ異なる状況に応じて、両方の通貨、伝統的な通貨とデジタル通貨を選択し始めるでしょう。中央銀行は、発行通貨が流通している市場に対して、自らの権限を維持するという安全保障を維持しようと奮闘するでしょう。伝統的な通貨の切り下げや使用制限により、個人がデジタル通貨をより頻繁に使用するように促されるでしょう。したがって、各国の当局や各国の当局は市民のロイヤルティを伝統的な通貨に維持しようとするため、必然的に市場が求める最適なレベルから逸脱したマネーサプライの非対称的な配分を制限する必要があるでしょう。

世界の通貨システムは、金本位制の固定外国為替市場と自由なフレキシブルな外国為替市場の両方の利点を兼ね備えたシステムになるでしょう。伝統的な通貨の価値は、デジタル通貨との競争の影響により購買力平等から逸脱することはありませんでしょう。外国為替レートが変動し続けるにもかかわらず、通貨の価値は市場での最適な安定したレートに収束するはるかに速くなるでしょう。これはまた、外為市場における裁定取引から利益を得ることがより困難になることを意味するでしょう。


総じて、個人は国家通貨当局の支配から解放されるでしょう。さらに、市場裁定取引から利益を得ることによって、誰もが支配力を維持することは困難でしょう。そして、市場に参入する金融機関や個人の数が増えれば、喉の競争が激しくなるでしょう。これらの金融法人は、この新しい市場状況に基づいて投資戦略の代替モデルを作成するように移行し、この新しいモデルを採用していない人々は収益を失うことになるでしょう。したがって、市場競争と富裕層のダイナミックな変革は、前章で説明した現実の市場状況だけでなく、金融市場においても行わるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.1 古い資本主義から国家資本主義へ

2017-01-05 17:08:58 | 国民国家の黄昏にて
市民がそれにメリットを持っている限り、企業の所有者として熟練した専門家になる機会の平等を市民に提供するため、先進国の全員が中産階級の市民であると言いました。しかし、これらの中産階級の人は、仕事量によって疲れてしまい、収入や社会的地位を高める機会に絶望的に暮らしています。彼らは余暇の時間を惜しまないほどの自由を持っていないようです。彼らは市場への貢献のために自分の報酬を決定するのに十分な賃金交渉力を持っていないようです。

カール・マルクスと彼の信者は、過酷な自由市場競争の下で過半数の人を犠牲にして、資本主義を責める。しかし、カール・マルクスが生きていた工業化の初期段階から、資本主義の形は変わってきている。支配階級が変わったときに支配を維持する立場を確保できる人物を決定するための条件全体。マルクスが生きていたとき、資本を所有することは、個人が経済的および社会的地位の両方の特権を維持することを可能にする基本的な要因でした。対照的に、所有資本と自由市場競争は、もはや彼らの支配を保証しない。


医師、弁護士、大企業の経営者、科学者、経営者(主に中小企業の所有者)のような熟練した専門職は、プチ・ブルジョアジー(中産階級を意味する)と呼ばれていた。これらの職業はプロレタリアのような堅い肉体労働を必要としなかった。彼らの専門的スキルは、これらの熟練した専門家が所有する資本とみなされていたため、肉体労働をせずに安定した収入源を提供する独自の生産手段を持っていると考えられていました。

対照的に、今日では、これらの熟練した専門家は、プロレタリアートの伝統的な労働者階級職業と同じくらい彼らの健康状態と時間を犠牲にするほど忙しいです。これらの熟練した専門家や中小企業の所有者は、他の労働者階級の職業よりも比較的多くの収入を得ることができます。しかし、彼らは彼らの高等教育に投資された所得と時間を犠牲にして、彼らの仕事に対して強い責任を負う必要があります。さらに、彼らは、肉体労働から解放された資本を所有しているようには見えず、むしろ伝統的なプロレタリアートの作品ほどの肉体労働を強いる必要があるように見えます。

この現象は、中産階級のプロレタリゼーションと呼ばれています。国民経済の大半が、社会的地位の高い中産階級の仕事を獲得する機会均等を提供するために十分に開発されたとき、中産階級になった人々の供給は劇的に増加した。そして、これらの熟練した専門家の間の競争は、所得水準を低下させ、彼らの生産活動に投資するエネルギーと時間を増加させるのに十分なほど激しくなっている。彼らは伝統的なプロレタリアートと同じように彼らの生活手段を得るために十分な努力をする必要があります。したがって、これらの中流階級の人たちは、伝統的な労働階級と同じように厳しい労働をして余剰価値を生み出し、プチ・ブルジョワジの代わりに新しい労働者階級、あるいはプロレタリア・ヌーボーと呼ぶべきである。


大企業の所有者などの伝統的なブルジョアジーは依然として市場を支配している。それにもかかわらず、彼らが支配力を維持し拡張することを可能にする新しい変数があります。大企業の経営は非常に複雑になっており、国家政府の公共部門管理と同じく膨大な官僚制を必要としています。あまりにも多くの競合他社がそうした巨大な複雑な官僚構造を装備することはできないので、既に十分な規模の企業が市場競争からほとんど怖がらずに成功することができます。

他の変数は課税と古い資本主義よりはるかに複雑になっている超過市場規制である。現代国家の政府は、政府の政策に行動を調整するために、様々な形の課税と起業家に指示する様々な規制を課している。さらに、政府が企業に従わせるこれらの政策を実施するためには、各期間に選出された政府とは無関係に、この複雑なシステムを絶えず監視している膨大な公共部門の官僚制が必要である。この官僚主義は、現代経済と政治の複雑な性質のために現代国家とその経済を統治する避けられない道具になっている。そして、この官僚制におけるこれらの官僚は、自分の利益のために市場状況をコントロールするのに十分強い影響力を持ち、ブルジョアジーヌーボーと呼ばれる新しい支配階級である。


この新しい資本主義は、社会層別化を変え、古い統治階級を新しい選択肢に置き換えました。今日では、新しい資本主義の経済政治モデルを別のものに置き換える社会階層化を変える新しい波があります。情報技術とそれに基づく個人のネットワークの急速な発展により、大企業や公共官僚のような大企業を維持し、資本を保有することは、富と市場と政治の両方の支配力を維持するほど重要ではない。

* この記事は下記英語ブログ記事の一部 2.1 の翻訳です。
Friday, December 30, 2016
2017 New Year Forecast (1 of 2): A Gradually Emerging Complex & Incomprehensive World & Society

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.2 資本主義から新しい社会階層の時代へ

2017-01-05 17:08:53 | 国民国家の黄昏にて
インターネットと人工知能(AI)の両方を含む情報技術の発展により、実質市場(商品とサービスを扱う)と金融市場(金銭その他の資本資産を扱う)の市場参入を拡大している。 以前は十分な資本を所有していた裕福な人たちがより強く有利に働くように、新しいビジネスを開くために多額の設備投資が必要であった。 対照的に、現在の技術は、数十年前よりはるかに大きな情報資源から効率的なツールと投資資源を個人が集めることを可能にする。

これは、個人が新しいビジネスの魅力的なアイデアを持っている限り、新しい事業を立ち上げるために、銀行や個人投資家から多額の設備投資を求めることが、もはや重要ではない状況につながる。言い換えれば、設備投資のコストはかなり低くなっている。これは先進国の中央銀行によって設定された金利がゼロに近いかマイナスに近い理由の1つである。起業家の供給ははるかに豊富になり、事業主間の市場競争は以前よりもはるかに競争力が増するであろう。

大企業の所有者などの伝統的なブルジョアジーは、支配力を維持する上で深刻な困難に直面するだろう。 大量の資本を持つ巨大企業を所有しているブルジョアジーは、少額の資本投資で事業を開始した新興起業家に比べて、ポリシーと組織構造を柔軟に変更することができない。 これらの新しい起業家は、スケールメリットが伝統的な資本主義企業ほど大きくなくても、市場の需要と要件に合わせて事業構造を調整する柔軟性がある。


新しく発明されたAIや3Dプリンタなどの技術開発により、スケールメリットも小さくなると予測される。さらに、このような時代には分業が重視されるため、独占的な独占的大企業を支配する代わりに、様々な独立した小企業が競争し、協力し合うほうが良いと思われるように見える。

クラウド・ベースの管理システムの開発は、企業がビジネス活動とデータ管理を常に管理し、監視する大規模な組織をもはや必要としないため、これらの大企業の重要性は評価されないであろう。これらの管理ツールは、オンラインで接続されたリモートに配置されたハードドライブセンターのセットなど、分散プラットフォームによって構成されます。良質の柔軟なサービスを提供する小規模企業が増えるほど、アウトソーシングが普及するだろう。そのため、会社は社内のさまざまな部署を担当する必要がなくなり、これらの作業を簡単に委託することができるであろう。


この分権化プロセスは、民間企業を所有する前述の伝統的なブルジョアジーだけでなく、公的部門を管理する政府官僚や新ブルジョワジと呼べる市場規制を導くだけでなく、支配力を維持しようとする。前述の技術開発や市場の地方分権だけでなく、グローバリゼーションに起因する国家の衰退は、官僚制の必要性を評価していない。公共部門プロジェクトの一部は委託され、コミュニケーションツールと公共部門の管理ツールは効率が悪く、人力を必要としない。

さらに、既に開発された情報技術と新しく開発されたAIの両方が、これらの官僚の多くの任務に取って代わるであろう。また、この世界全体の多様化は、官僚主義の任務を含む誰もが、スキルセットが常に更新されたり、まったく新しいものに置き換えられることが頻繁に必要となるほど頻繁に変化する必要がある。したがって、官僚主義の静的構造は単純に非効率的であり、これらのエリート官僚の知性、知恵、および勤勉さの価値は評価されなくなるであろう。


同時に、市場構造のこの変革は、民間企業、公共部門、または組織化された組織によって雇用され、伝統的な生活様式にすでに慣れている市民には苦労をもたらす。市場は、情報技術とネットワークのために、技術開発と普及した起業家精神のために、はるかに資本集約的になるであろう。そして、採用された労働者の数はそれまでよりもはるかに少なくなるであろう。したがって、自分のビジネスを始めるなどの新しい生き方や、自分の人生を維持するための代替手段を見つけない限り、生計手段を見つけるのに苦労するであろう。これは、エミール・デュルケムによって予測されるアノミー(ノンレスまたは無意味)の社会問題の増加をもたらす可能性がある。

全体的に、資本はそれほど重要ではなくなり、一方、人々の雇用は減少し、市場競争はより競争的になるであろう。市場競争で成功するためには(物理的資本と金融資本)はるかに重要でなくなるので、資本主義と呼ばれる名前は古くなるだろう。この新興時代は、もはや資本主義と呼ばれるべきではないであろう。市場の競争はますます複雑化し、激しさを増し、社会階層化はまだ残るであろう(すべての個人にとってユートピアとはかけ離れている)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.3 社会主義革命は起きない

2017-01-05 17:08:44 | 国民国家の黄昏にて
マルクスの分析で間違っていたのは、社会主義革命の可能性だった。彼は、過半数の人が自分の人生で十分に得られないことによってより不満を抱くようになるにつれて、彼らは富を経済のプールに再分配するための集団的行動をとると述べた。しかし、ポスト工業化資本主義の人々の大部分は、近代化前資本主義よりも結束力が弱い。

彼の本で説明したような大衆革命は、一緒に固執する個人間の高度な結束を必要とします。工業化の進展がまだ未成熟の伝統的なコミュニティでは、個人の結束は、牧歌的なライフスタイルのため強固です。彼らの生活スタイルがより静的であるため厳格な基準と価値に基づいて常に協力し合う必要があります競争力のある資本主義。対照的に、完全に工業化された資本主義では、個人はいろいろな職種や職場に積極的に移動して、彼らの規範や価値観に縛られなくなる。したがって、開発された資本主義の個人は、伝統的なコミュニティの人々よりもはるかに個人主義的で規範的であり、他者についてはそれほど考慮しない傾向がある。

この図は、エミール・デュルケムが彼の論文である自殺研究で作成したものに基づいています。


縦軸は、他者との個人的な結びつきの強さを示している。個人は、この垂直的なスペクトルの上に行くにつれて、より利他的になります。一方で、個人は、底に行くにつれて、自我主義的になります。横軸は、規範的個人がどのようにしているかを示している。このスペクトルの左側に行くにつれて、個人は個人に与えられ、命じられたもので運命づけられる傾向があります。このスペクトルの右側に行くにつれて、彼らの命を守り従うように指示するか、または従うように指示する権威または道徳的な起業家はもはや存在しない。

工業化の初期段階では、総生産性の水準が非常に低く、大部分の人が労働力としての生産に雇用されることを奨励され、強制されることさえあります。工業化プロセスが成熟すると、製造方法がより効率的になり失業率が上昇し始めるため、設備投資あたりの平均雇用者数は減少する。この進化が進むにつれて、前に述べたように、中産階級(プチ・ブルジョワジ)とみなされる人々でさえ、伝統的なプロレタリアートと同じ剰余の闘争に直面し始める。さらに、労働と資本の移動性がより頻繁でより動的になると、規範と価値はより多元的になる。そして、これらの個人が彼らの人生のためのガイドラインとして従っていた伝統的な文化の規範が消える。

彼らが成長する資本主義のもとで工業化プロセスをまだ逸脱していない理由については、個人は依然として全体の高い物質生産性レベルに引き付けられており、豊富な資源、必要な財貨やサービス、生活様式はそこに住む人々の間で共有されています。雇用者や貿易相手国が提供する自らの義務に焦点を当てるために個人がより個性的になるように、総生産性レベルを最大にするために規模の経済を拡大するためには分業が必要である。言い換えれば、工業化は追求する中毒のようなものです。個人は物質的な満足感をもってアノミー化(無規範化)のリスクを伴います。

社会主義は利他主義的な思想である。なぜなら、革命政府は、強制的または奨励的に、個人を同一の規範と命令で結束させることを目的とし、個人が共同体の利益のために行うべきことを個人に提案するからである。社会主義の特徴は牧歌的なコミュニティのような伝統的なコミュニティとは性格的には異なるが、両方の政治的構造の質は同質である。

対照的に、完全に発達した(先進工業化された)資本主義は、伝統的な社会と社会主義の両方とは反対に分類され、資本主義に住む個人は社会主義を歓迎するのが難しいと考えられる。分裂によって奨励される彼らの個人主義的な生活様式のために共同体の絆が弱まり、生活の価値が社会主義が示唆しているものとは大きく異なるためです。そして、起こることは、資本主義が成長し続け、この世界の人々がより利己的で規範的でなくなるということです。そして、失業者のような生活手段が失われたときには、人生の虚無に苦しむであろう。


一方、それは個人のための異なる社会階級間の社会的移動性の可能性を減少させることを意味しません:この新しい時代に社会的流動性はますます動的になるでしょう。この世界はより曖昧になり、雇用機会が減少するにもかかわらず、発明が提供される機会が増え、新たな起業家精神が創造性と創造性を発揮している限り、貴重です。言い換えれば、アイデアの創造は、社会的モビリティに成功するための究極の鍵となる。

さらに、開発された情報技術のおかげで、この個人がどこにいるかにかかわらず、コミュニティのどの部分からも革新的で才能のある個人を探して募集するのがずっと簡単になりました。この個別の人物が高い期待投資リターンを提供しているように見える限り、投資することは喜ばしいでしょう。したがって、この世界は、競争が厳しいが、動的で成功した社会的モビリティの変化が広く開かれている、よりドライな成果主義になっている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.4 宗教の復活と個人主義啓蒙の開花

2017-01-05 17:08:38 | 国民国家の黄昏にて
この社会移行の問題は、すべての人が幸いにも革新的な心で高い能力と特別な才能を授けられるわけではないということである。 アノミー化(無規範化)する社会で個人等が利己化する中で、お互いを助ける個人間の共同体の絆が弱くなり、生活手段を失った人々には生活の代替目的が与えられない。 故にこれから到来する時代から物質主義的な恩恵が享受されにくい不幸な人たちの援助は以前よりも少なる。そして、より多くの個人が余剰供給とみなされ、それがアノミー化された世界に放棄される。 デュルケムは過剰な社会のアノミー化と個人等の利己化は社会の歪を生み自殺率などの上昇を懸念した。

政治経済の新しい時代には、集団的利益のような利他的で規範的なものが政治的規模で存在しなくなる。故に個人等は団体的関心のために急進的行動を引き起こすことないが、彼らが無規範な情勢下で利己的な理由逸脱した行動を行うリスクは上がる。この資本主義に深刻に苦しんでいる人々は、以下の3つの行動のうちの1つを試みる傾向がある。最初の人は静かに自分の不幸な人生を終わらせるために自殺すること。第二のものは、書かれた法律と書かれていない法律の両方の規則を無視した、犯罪または逸脱する行為を行うこと。 3番目のものは、この物質主義から精神主義への逃避を行うこと。前者の2つの行動は、非合理的かつ非生産的なものであり、無視され当然とられるか、またはいくつかの否定的な制裁によって抑制される。三番目の行為は、地上世界の過酷な状態で生き続けるために有用な方法として成長し、繁栄すると予測されている。宗教を侮辱し、その衰退を予測した無神論者であるマルクスは、「宗教は民衆の阿片である」と言った。 それは皮肉にも正しく、物質的世界から得た喜びの欠如から敏感な痛みを緩和する軽い麻薬のような作用を果たす。

彼らの脱出の典型的な目的地は、マルクスと現代の多くの政治哲学者が最終的に消滅すると予想していた宗教として表現できるスピリチュアリズムな生活である。彼らは、宗教は個人が集まって互いに助け合う規範的なコミュニティの一形態であると予見する傾向がある。しかし、これは偏見であり、宗教の本質を説明することはできない。宗教は物質的科学的測定によって説明されないいくつかの超越的物質の信仰によって形成される。信じるか否かにかかわらず、それは各人の思考と考え方に依存している。この超越的な世界を信じる者は、超越的で非物質的なものを形成し、「スピリチュアリティ」と呼ばれる思考の心を発達させていると信じて考える。

宗教的コミュニティは、霊性を信じているこれらの忠実な個人のフォーラムに過ぎず、信念そのものの信念自体を得ることは各個人の意思決定と信念次第である。たとえば、多くの個人が共同体の研究所に入らずに宗教活動を実践する。伝統的な宗教も様々な宗派や捉え方があり、様々な形の信仰が存在する。今後も増加するであろうと思われる新しい形の宗教は、思考の心が物語の世界から切り離された精神世界に直接結びついていると個人が信じるものであろう。


前章で紹介したジェンレミー・ベンサムは部分的に正解だが、部分的に間違っていた。若干の個人は、喜びと引き換えに痛みを感じている。ベンサムは無神論者であり、霊的な世界を信じていないので、物質的でない物質から得られる功利(必要最大限の快楽と必要最低限の痛み)について考えるのはナンセンスであった。対照的に、霊的な世界を信じる者は、精神的な信念から喜びを得る。個人の快楽や苦痛の程度は、生物学的、物質的、社会的状況だけでなく心理的状況にも依存する。霊的世界の存在に関する論争とは無関係に、宗教と霊性の忠実な信念は、信仰に執着することによって信者の喜びを高める。彼らの霊的信仰による快楽は、地上生活の苦痛を軽減するのに十分に最大化することができる。

信仰は、個人が抱き続ける無敵の力を持っている個人的な霊的財産である。物質的性質は腐敗するにつれて永続的ではなく、失われたり盗まれたりする一方、宗教に対する信仰である精神的性質は永久に残ることがある。個人と市場がこれらの個人の存在を拒絶しても、個人は自分の存在と心に彼らの信念を保つかもしれない。個人は誰とでも何か他の人に中断されることなく、自分のために生きています。彼らが他の個人や物質的ニーズからより分離され、地上の世界で欲しいときに、彼らがコミュニケーションして生きるように命じるのは、自分の心である。

様々な普遍的な宗教が千年以上存在し、非常に長い生存と巨大な影響の強い知恵があるかもしれない。宗教およびそれに準じるものは物質的な世界に絶望している個人等に快楽をもたらすものを説明する効果的な方法を見つけたかもしれない。彼らの説明の一部はあいまいで科学的ではないが、宗教もしくは新しい個人のための自己啓発などを信じて喜びを得るようにな個人は増えるであろう。だから、合法性と妥当性に関する論争にかかわらず、信じたい人がいる限り、宗教とその信仰は繁栄し続ける。成長し続ける資本主義におけるアノミー化の増加は、マルクスと他の現代政治哲学者による予測にもかかわらず、宗教の需要をさらに増大させる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2.1 中央集権化への抵抗と民主主義の可能性: テクノクラシー対デモクラシー

2016-11-30 22:47:07 | 国民国家の黄昏にて
経済活動圏が拡大するほどそれを監督し制御する装置としての政府が必要になる。 より大きな範囲を管轄する政府はより中央集権的な官僚組織的になる。 そして生産活動を担う組織も、分業と得意分野への特化により巨大化し中央集権的になる。 それは、生産活動のスケールが大きくなればなるほど管轄する役割と生産行動を行う役割の分業が進み、より能力を認められた幸運な少数の個人がその他大多数を監督することになる。 

それを管轄する中央集権的な政府も広い範囲から個人を抜擢し能力が認められた官僚を選び抜き配置するようになるから広範囲における監督能力と事務処理力は向上するであろう。 そしてその効率的な事務処理でその経済圏にて余剰の生産分を再分割する機能も強化できる。 故に、大多数の個人等の必要最低限の生活環境は維持されるし、そもそも経済の活動規模が拡大した恩恵で物質的には豊になった。 


しかし、個人の精神的に感じる幸福度とは物質的な至福のみでは満たされない。 ある程度の物質的な恩恵がもたらされれば、それ以上に物質的な恩恵をもたらすような変革があっても、精神的な恩恵をもたらす効用はたいして上がらないであろう。 それよりか、物質的な恩恵を増やすために政府およびその他組織が巨大化し中央集権化するということはそれだけ少数のエリートが大多数を代表して政策などを執行することになる。 つまりは、大多数の民意が直接反映しづらい制度になっていくということである。 

ジェンレミー・ベンサムという功利主義を提案したイギリス人哲学者が下記方程式を著書「統治論断片」にて掲載していた。

   君主制の効用 =    君主の力x1   ―(マイナス)貴族制と民主制の効用
   貴族制の効用 =  貴族の知恵x貴族の数 ―(マイナス)君主制と民主制の効用
   民主制の効用 = 民衆の誠実さx民衆の数 ―(マイナス)君主制と貴族制の効用

また、この貴族性とは技能主義的に選ばれた政府や組織で活躍する少数エリートとしても取れ、貴族の知恵を少数エリートの技能とも訳せる。 ともかく、いかなる政治体制においてもこの3つの変数(君主制、貴族制、民主制)の度合いから各変数の割合によってそれが行政の効用の度合いが変動するということである。 

君主制はよほどその力、つまりカリスマやその家系から培われた権力など、が必要とされる時代であれば重宝されたであろう。 だが、これだけ世界中の個人等がつながり合い、総合的な生産力が向上した現在においては、部族が一丸となって他部族からの侵略の危機から守ったりまた己が部族が侵略を行う必要もなくなってきた。 故に、一部の未開発地域を除いて、貴族制や民主制から来る効用を犠牲にしてまで、君主制の効用にすがることもなくなってきている。

今現代の世の中において重要なのは貴族制と民主制の度合いの問題である。 これは少数の選ばれたエリート群がその集権化された技能で大きな組織を動かす技能主義(テクノクラシー)と大多数の民意を尊重して各個人が自分の生活する環境にての政治への意見を反映することを可能にする民主主義(デモクラシー)の間で揺れ動くジレンマと言える。

拡大した経済圏を管轄するための政府と多くの人材と機材を抱えて分業と長所への特化を駆使して生産力を上げる大企業群にてマネージメントを執行できる個人は少数先鋭で選ばれるし、その方が意見対立による時間と余力も少なく効率的である。 だが、すべての人間個人にとっては自分の生活環境における政策や労働環境の意志決定に自由に参加していきたいという欲求もあり、一部の少数エリート達だけに自分の未来を託すのも不安である。 


その必然的に中央集権化に向かっていく生産力に注目した経済学とは別に浮上している問題に着目した例として、生産力に依存しない新しい経済社会学の分析に用いられる指数が作られた。 それは地球幸福度指数(Happy Planet Index: HPI) と呼ばれ、世界各国の住民個人の幸福度、健康度、そして環境への負荷を表す指数である。 つまり、個人がその生活している国で幸福感を感じ健康で長生きしてかつ豊な自然環境を保ちつつ生活できる環境を提供できるかどうかを示す。 

このHPIの度合いはGDPなどに代表される生産力とは相関関連が完全にないとはいえないがそこまで強い関連度は無いとみえる感じである。 比較的に工商業的な生産力の低い国家でも非常に経済が発展した国家よりも高いHPIが算出された。

これは伝統的な工商業的な生産力の指数とこの新しい幸せ感を示す指数とどちらが正しく間違っているという問題ではなく、どちらも経済学と政治学を含む社会科学の分野で重要な指数である。 特に、最貧国と言われ生産力が至極低い国家では低いHPIが算出されている国家も多い。 故に、物質的な恩恵と精神的な恩恵の双方のバランスを取っていくにはこの双方の指数を比較検討していくべきであろう。 


また、分権的なデモクラシーの方が集権的なテクノクラシーよりも生産力や物理的な恩恵を上げることが可能であるという理論がある。 テクノクラシーでは淡々と事務処理を続けていく少数のエリート官僚組織は温存の理論に依存しがちである。 それに対して、デモクラシーは、広範囲の管轄と効率的な事務処理に多少劣ることはあるものの、数多の個人から意見を採用することにより置かれている時と場所と状況に応じた政策および温存の理論になかった斬新な政策を提案し執行する可能性を秘めている。

デモクラシーは意見の衝突によって政策執行の効率性は落ちるが、今までの温存の理論が殆どうまくいかない中で数多の可能性のある政策を試し実践することがより可能である。その中で、その数多の意見からの討論と試行錯誤から新たなる政策案や経営案がイノベーションとして生まれる土壌になる。故に、各個人が自ら政治や経営に意見を反映できるということへの精神的な効用を得ると同時に、イノベーションを生み実行しやすい活発な制度の中で起こるイノベーションにより生産力を上げて物理的な恩恵を維持発展することもできるのではないか。


とにかく物理的な恩恵を増加させるためにあえてテクノクラシーを容認してきたが、政治や企業活動が各個人の民意から離れていくと精神的に不満になってくる。 ヨーロッパ連合内で連邦政府の導入による現状の不安定要素の払拭することに抵抗を示している勢力が多いのも、やはり自分たちの民意が政治と経済から遠のいてくるという不満から来ている。 これからこの世界はこのテクノクラシーの必要性とデモクラシーの要求との間で揺れ動いていくであろう。 


* この記事を執筆は私の本家HP英語ブログ記事↓を基にしております。
http://art-blue-liberalism.blogspot.com/2015/09/dilemma-between-democracy-and.html
統計学による分析データも↑に乗せております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2.2 公的部門管理

2016-11-30 22:46:46 | 国民国家の黄昏にて
近代経済の伝統的な価値観においてはそれぞれの国民国家が自国の公的部門を運営しておりその国民国家が全運営責任をおっていた。 しかし、このグローバル化する世界経済の中で個人等も移動、生活環境および製品やサービスの売買など選択肢が国境を越えて広がったため、従来の運営手段と責任制の所在の在り方に問題がでてきた。 

最大の問題は、その国土での公共設備を「使った分だけ支払う」という責任を常にだれが負うべきかということである。 マクロ経済理論においても、大多数の国々では一国家全体のレベルと数多の地方レベルで財政政策が運営されている。 この国家間を跨いだ経済活動が盛んであるグローバル経済において国家の枠を超えたレベルでの財政政策の必要性が世界各所で検討され始めている。 

上記の他にも、重要なマクロ経済 グローバライゼーションと個人の活動範囲の拡大に関係することだけではない。 財政的な責任制だけでなくその活動範囲内の好景気と不景気というようなマクロ経済の環境や波を制御する役目である。 各ビジネスと各個人のライフスタイルのグローバル規模の活動レベルにおいて、以前よりもより一層それぞれの国家の景気変動はよりお互いに同調するようになる。 

そして、金融政策や財政政策、国際貿易法や労働者個人と資本の動きなど供給側に対する規制などのマクロ経済レベルでの一国民国家政府の一国民国家経済への政策介入の効力が無くなっていく。 つまり一国民国家の経済環境を一国民国家の政策だけでは制御できなくなっている。 これは一国民国家のマクロ経済環境が他国の経済環境により影響を受けるため、景気を喚起または抑制するためには、そのマクロ経済レベルでの介入政策を、国家の集団レベルでの規模もしくは場合によっては全世界規模での大規模で、一斉に行わなければならないであろう。 

責任制と経済環境の双方の問題が心配される。 世界各地において公的設備の費用の支払い責任と資源の配分は公的部門の管理においてもっと中央集権化されより広範囲での管理運営を行うであろう。 この世界中で起こる公的部門管理の中央集権化はそこに住む各個人等がその構造のもたらす費用対効果に対して満足のいくものであれば最適であると考慮されるであろう。

ただ、その公的部門管理の中央集権化という改革を推し進めていく中で、住民等の抵抗の中で妥協した場合の集権化の度合いで調節されるとき問題が生じる。 中途半端に改革が進んだ場合には公的部門の構造がもっとも最適な状態になるどころか不適切な状態になる可能性も高い。 その際により行政を中央集権化して物理的な安定を保つか、なるべく民意を反映させやすい分権的かつ民主的な制度を保ち精神的な至福を重視するか、そこに住む住民個人達の文化的背景も絡みそれぞれの地域で異なる行政構造を築き上げていくであろう。 、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2.3 都市化とマーケットポテンシャル

2016-11-30 22:46:41 | 国民国家の黄昏にて
都市化とマーケットポテンシャル

下記、経済発展を促すのに必要である要素の例として挙げる。

① 地理的障害が少なく地域間の輸送コストが低い。

② 大型コンテナが入稿可能な港や広範囲に展開される道路と鉄道など輸送ネットワークや電力や上下水道の完備および情報技術の発達と普及など交易と生活に必要なインフラ設備。

③ 高い生産力と高い購買力を持った地域との交易へのアクセスとその高い交易頻度、およびその地域内における輸送費用の効率性と交易頻度:これは低い輸送費用と広く良く発達した輸送ネットワークの複合効果によって効果がより高まる。 

これら①、②、③を組み合わせた効果を示す指数をマーケットポテンシャル指数(MPI)と呼ぶ。 

④ 生産的な人口の増加(その土地の資源と投資可能な資本量に対して最適な人口増加率の維持とそれに伴う一般教育の普及。)

⑤ 教育と個人の自由と権利、合理性の発達など人間資本の発達。 これは新しく登場する技術の学習速度とそれを生産活動に適応し革新的な物とサービスを提供すること、そしてその登場した技術を参考にしてもっと更に新しい技術を発明することに貢献する。

⑥ 現在と未来においての政治と社会の安定性。

⑦ 豊富な自然資源の備蓄。これを保持しているだけで経済的収入を確保できるので、新興国や最貧国にとってこれから経済発展のための支出が必要なときに財政支出に充てることができるし、既に経済が発展した先進国でも更なる経済成長を試みるための支出に充てることができるので、恩恵は大きい。 


⑦の豊富な自然資源の備蓄以外の条件を満たすには、より多くの人口を一つの政治と経済の中心地に集めることで効率化され、今後もそれぞれの地域が経済発展を目指していく際に人口の一局集中による都市化は更に進んでいく。

経済活動における輸送費用を下げ、運輸インフラ設備を整えそこから経済活動を展開し、より経済が発展している地域との交易頻度を増やしMPIを増加させるためには、人的資本と資源、物資を一つのコンパクトなエリアに集結させる方が効率が良い。 人的資本と資源、物資を都市部に集中しておくことで、それらの物流の回転と組み合わせて生産力を上げるための情報を整理しやすくなる。 港などの物流における交差地点とされる国際貿易におけるハブは都市化された地域に近く存在した方が効率的に物資を輸送することと人の行き来を活性化させることで有利であろう。 

生産的な人口増加および人間資本の発展は、人間個人達がお互いに近くに住んでいることによって情報交換や諸々のコミュニケーションが発達するので各々が持っている強みを分け合うことで促すことがより容易になる。 人間個人達がそれぞれ広い地域に分散して住んでいる場合、彼らを結ぶための物理的および時間的な交通費の負担が増えその地域内での交易における輸送費用も増え、経済活動および個人間の交流において大変不便である。 

その中でチャレンジングと思われることは、都市の中でお互い近くに住んでいる個人達がお互いに譲り合い平和に暮らしていくことである。それぞれ個性のある個人等が都市の中で生きていく中で、価値観の対立も起こりうるので、数多の個人等を一つのエリアに集中して住まわせる際には、政治的安定と共同体の調和が求められる。そこで、その都市の中で価値観の対立を和らげる政策などを執行し、一部の団体によって決められる人知的な統治ではなくすべての個人に対して平等な条件でその都市の自治が行われていく必要がある。 そうでなければ、お互いが情報交換を行い分業によって経済を発展させることは難儀であるし、その都市との貿易相手もいつでも安心して貿易の行える相手でいてほしいものである。 


情報技術の拡大も手伝ったグローバライゼーションの促進により、経済後進国においても世界の中で開発された新しい知識が技能を安易にコピーすることができ、それをもとに新しい物やサービスを提供しやすくなった。 しかし、そのモデルで経済発展を促すには下記要素が不可欠である。 

- これらの新技術をコピーするだけの知力と能力を養える個人を増やす教育システムの発展。
- 開発した商標を売るために独自の国土もしくは近隣諸国などの購買客の人口が多いこと。
- この上記2つの目標を達成するには、政治と社会の安定は不可欠である。

ともかく、それらの国家群が更なる都市化を実現し、情報交換と物的資源の物流がたやすくなることが経済成長への鍵となる。 故に、既に人口密度が高い都市化した地域を持つ国々は有利である。 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2.4 グローバル化の中での公的部門管理の構造の変化と都市化の進行

2016-11-30 22:46:34 | 国民国家の黄昏にて
この公的部門の公的部門管理の構造の変化と都市化の進行から見て、人間個人達は経済的利便性により更に都心部にて移住し生活するようになる。 その他の地方の人口はより減少傾向をたどり、すべての産業はより分業と専門化が進み一極集中化が進み、地方で根強く残れる産業は自然資源の採取により成り立つ産業ぐらいではないか。 

この現象により、世界中で限られた数の都市部がより拡大していき、地方の市町村などは縮小していく傾向にある。 それゆえに、地方における公的部門や民間の公益事業に対する投資も減少していくであろう。 それは、縮小していく地方に対しての投資費用に対してその見返りが低いためであり、税金を納めている個人達にもより都会に移住するようになるために地方への公共投資はより要求しないようになるであろう。 故に、国民国家によるその国家への税制交付もより現象するために、地方の国民国家への信頼はより減退していく傾向になる。 


行政は、採算が合わない地方への支出を減らし、人的および物的資源の分配が効果的に行われ採算が取れやすい都市部へより支出を重視するようになるであろう。 地方の人口が減少すると、行政に対して支援を要請する交渉力が弱まる。 そして、都心部に住む住人等がより自分たちの生活の快適さと発展の維持を要求するために、そして行政も都心部への公共投資の方が採算が合うために、都心部への投資に重点が置かれる。 都心部の住人もその国家の住人として地方への考慮を行うよりも、より個人の生活が重要になる。 グローバルな交易が活性化し情報技術と情報交換もグローバル化すると個人等も国民国家の住人というアイデンティティから世界に生きる一個人というアイデンティティの方が強くなる。

国民国家への忠誠から成り立っていた公的部門管理の重要性も失われることも必然的な現象である。 グローバルに影響力のある個人や団体がより公的部門管理への発言力が増してくる。 特に多く納税している個人や団体の発言が強くなるために、公的部門管理も彼らの提案によって動くようになる。 そして各国に存在する公的部門管理を担う行政組織も、国民国家のためではなく、グローバル化された世界とそこに生きる個人達のために存続する組織という性格が色濃くなる。

だがその一方で、情報技術のグローバル化の恩恵により、労働組合や学生組合など比較的に納税率の低い大多数の個人が団結して交渉力をつけることもあり得る。 そして、グローバルに拡大し進化した情報技術を素早く自分のものとして吸収できる若い個人達はより一段と国境を越えて団結することが可能になった。 近未来によって国境を越えた学生集団や労働組合的な組織の結成もありうるし、一部ではそれらしきものは密かに誕生していたりする。 とにかくこのように下から沸き起こる運動も国民国家を中心としたものから国境を越えたグローバルなものになっていることも注目できる。 

殆どの国家において、国力の有無はグローバルに影響力がある個人や団体などの支援を受けていることによって影響する。 もはや国家が国益のために国政を誘導するよりも、そのグローバルに影響力がある個人や団体がその国に対して影響力を強めている。 故に、今の世の中は National Interest ではなく Global Interest グローバル利権によって動かされているといってもおかしくない。 


この政治の転換は、国家の存在というものを前提としてきた近代哲学や政治思想の終焉でもある。 マルクス主義のような果敢な革命思想も国家を支配する古体制の打倒を主張しているが、旧体制に支配された国家を新体制が乗っ取るということなので結局は国家という構造に依存している。 またリバタリアン(自由意志論)のような国民国家権力そのものに対して懐疑的な政治思想の存亡もまた危ない。 マルクス主義のような前者の例は国民国家の存在なしには語れない政治構造であるし、リバタリアンのような後者の例は単に個人の民意の反映を強調させるために中央政府の権力を比較的に減少させる政治構造なので結局は国民国家の範疇である。 

この世界を覆うグローバル化現象は徐々に数々の党の対立によって形成させる政治体制をも覆すであろう。 近未来において、各地域の行政運用は、各党が掲げる政治思想によって導かれるのではなく、より実利的な各個人等の要求と世界全土の経済情勢が求めている政策運用によって成り立っていくであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1.4 国家からグローバルに拡大する制御装置としての政府

2016-11-27 17:20:47 | 国民国家の黄昏にて
近代において国民国家が国民国家としてあるためにも、国民個人同市が自由な市場で活躍することを許し勧めると同時に、市場循環の波を和らげる装置としての政府機関の存在を保っていた。 まず、自由な市場取引の際に、個人同市がお互いにフェアに取引が行われるための法律や規制を敷く役目がある。 それと同時に景気、つまり大きなお金と生産物の流れの波、が荒れないように制御するための装置の役目がある。 それがマクロ経済(大きな流れの部分をいうからマクロつまりは大経済学と呼ばれる)政策を執行する機関がその装置にあたる。 

まず、個人の労働力への対価と投資の運用手段として機能するお金(貨幣)の大本の供給先である中央銀行が金融政策を執行している。 この金融政策において市場に流れる貨幣の総供給を直接調節したり、その貨幣に金利という名の値段をつけて市場にながれる貨幣の流動性と需要を調節することによって間接的に貨幣の総供給を調節したりしている。 

そして、その経済圏の各銀行が貨幣の分配の下請けとなってそれら銀行が中央銀行のつけた金利(貨幣を調達するときの費用)の上にそれら銀行の利潤として金利を上乗せする。 それらの銀行の金利は個人所得の貯蓄を促すための金利と各個人に貸すための金利がある。 前者はそのときの市場においてどれだけ可処分所得の消費と投資の割合を減らせるかの度合いと市場全体の価格の高騰具合(貨幣の価値が生産物より下がっている状態)によって決まる。 後者はその貨幣を貸す個人やその市場のリスクによってきまる、つまり貸したときに返済できる確率およびその貸すという投資としての見返りが金利に反映される。 

一方、金融政策ではおおざっぱなお金(貨幣)の流れを調節できるが、その貨幣がいきわたる異なる地域や異なる個人への調節は金融政策だけではできない。 その貨幣を使用している経済圏では、貨幣が流れる場所はその時々の欲求と必要性に沿って自由に自然に流れて行ってしまうし、貨幣の貸し借りを行う銀行も自由市場に沿った個人ビジネスであるため景気が過熱すれば更なる利潤を求めて流動させる貨幣量も過熱するが、景気が後退すればリスクが高まるために流動させる貨幣量を抑えてしまう。 それに各銀行が経済全体とその市場にいる個人たちの生活保護を背負える責任は負えないし、貨幣を貸す条件もその個人の必要性よりも銀行の欲求によって決まらざるを得ない。 

この場合に、その個人等が国民として依存している国民国家の機関である行政が個人の必要性と景気の波に応じて貨幣を再分割する役目を果たしている。 その行政が各個人や各地域において格差が生じた際にその格差に応じて課税率と交付金率を調節する。 市場景気が過熱している地域には比較的高い課税を行い市場景気が減退している地域には税率を低くするか交付金を支給する。 

また、税金からの収入が低く、中央銀行の金融政策だけでは喚起できない場合は、その国民国家そのものが担保となって借金、つまり国債を発行、して財政の資金とする。 そしてその財政政策により市場の景気が回復して過熱する可能性も見えてきた際に、全体的な税率を上げて過熱を抑えると同時に国家の借金を返済する。 


そして資本主義が国民国家に利用される規模から飲み込む規模に拡大しグローバライゼーションが加速すると、上記の伝統的なマクロ経済政策にも変化が求められた。 まず、国家間を跨いだ貿易が活性化すると市場の景気変動の波が国家間で同調してくる。 するとその国家が担保している中央銀行の貨幣の価値の変動もおおよそ同調する傾向にある。 

そして、国家を跨いでの貿易をする個人および国家間を絶え間なく移動するが増えると、その貿易の度に貨幣の両替をしなければならなくなる手間が増える。 しかも景気の波が同調しているとはいえ、それぞれの国の貨幣の変動の波長にもある程度の差がでるために貨幣の両替の相場は常に変動するために、貿易および移動の際に金勘定をするときに利潤と費用の予測が難しくなる。 故に、生産物の貿易や個人の行き来が盛んな国家間において完全に独立した金融政策を維持すること自体が費用がかさむという意見がでてきた。

そのグローバライゼーションの中で数多の金融政策の改革が行われた。 アメリカ合衆国との貿易頻度が高い新興国群はアメリカ合衆国の貨幣であるUSドルの価値変動と合わせて自国の貨幣供給量や金利を調節してUSドルの価値変動の波長から自国の貨幣の価値の波長がずれないように調節した。 それにより国家間の貿易および人の行き来にての金勘定の際に生じる予測費用(利潤や費用の予測が難しいことによる弊害)を減らした。 

ヨーロッパにおいては更に急進的な金融政策の改革が行われ、ヨーロッパ諸国の一部で国家同市が同じ一つの中央銀行を中心とした金融政策を共有することになった。 その一国家経済ではなく数多の国家経済がまとまって貨幣の信用への担保をもつことでユーロという共通通貨が誕生し、そのユーロを使用する国家群の群れをヨーロッパ経済通貨同盟(EMU)と呼び、そのユーロという貨幣を供給する機関がヨーロッパ中央銀行(ECB)と呼ばれる。 共通通貨の場合は貿易および人の行き来にての金勘定においての予測費用だけでなく貨幣の交換に際しての費用も無くすことができた。 その際に、このEMUに参加している国家間の間での分業が加速し、行き詰っていたヨーロッパ経済を成長に転ずることができた。 

ただ、ヨーロッパ連合(EU)の一部の国家群(EMU)で導入された共通通貨ユーロの制度の欠点は、最初の方で述べた金融政策の弱点を補う財政政策の欠如である。 つまり、そのEMU内の経済圏で起きた地域ごとの景気変動の波長を財政で介入して調和することである。 そして、ヨーロッパ中央政府が自由な市場取引の際に、個人同市がお互いにフェアに取引が行われるための法律や規制を敷く役目を担っているものの、EMU内で完全に共通の法規制を敷く段階には至っていないし、まだまだ各国家ひとつひとつに対して権力を執行するだけの権限は無い。 

そこで、EU内での提案の中で、アメリカ合衆国が各州のマクロ経済面での統括を行っているように、特に金融政策を共有しているEMU内では連邦政府の存在が必要であるという意見が出てきている。 経済活動が活発化し範囲が拡大すると同時に政府形態の中央集権化は不可欠なのであろう。 

また、これだけお互いの経済連携が強くなれば一国家の責任というわけにもいかず、一国家の危機が経済共栄圏全体に悪影響を及ぼす。 その際に、国家を超えて交付税制度を整え、国家が発行する債券に代わる経済共栄圏が担保する債権(ユーロ債と呼ばれている)を発行して経済共栄圏がともになって確保できる財源を確保する手段を安定させる。 共通な金融政策を導入して財政政策が分離している状況では、自転車をこいでいるときに左右の脚力が異なっている状況のようなものであり、至極不安定なのである。 





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.5 シンガポールという特殊な国

2016-11-26 13:58:07 | 国民国家の黄昏にて
著者はシンガポールにて現地の企業からの採用で就労していた経験がある。 そもそもスコットランドにての留学生活を終えてシンガポールでの就職を決意した経緯は2つある。 まず、大学院時代の宿題でシンガポール経済政策のレポート作成の時に興味をもったことと。 もう一つは、留学中に日本へ一時帰国する際にシンガポールにストップオーバーしてスコットランド留学時代にシンガポール在住の友人と出会いに行った時の印象である。 すでに一人頭の国民総生産(GDP)が日本より高いアジアの先進国として存在しているシンガポールという国の状況と観察内容を述べていきたい。


まず、シンガポールの政治経済は特殊な経緯によって成り立っている。 そもそもイギリスの植民地として開発される前は、東南アジア一帯を支配していたイスラム教のスルタンの一領土であり、熱帯雨林と沼地が占める島に小さな漁村があるほどであった。 イギリスの植民地時代を得て開発され、やがてマレー連邦がイギリスから独立した時はマレー連邦の一部であった。 その際に、マレー連邦のブミプトラ政策というマレー国民ではなくマレー人のみの優遇政策として非難され、それに反発した華僑系が多数を占める独立派勢力がシンガポールという小さな島を国家として独立させた。 最初は、それこそ第三世界とか発展途上国といわれていたほど貧しい国であったが、初代首相のリー・クアン・ユー率いる人民行動党の特殊で革新的な政策により、目にもとまらぬ速さで貧困国家から先進国家(俗に「第三世界から第一世界へ!」と言われる)へと大変貌を遂げた。 

そもそも、この独立シンガポールを統治した与党の人民行動党という存在そのものが特殊であった。 シンガポールを独立に導くという立場に共感した政治家が政治思想を越えて集結した政党である。 強制的にたとえるならば自民党の田中派と日本共産党とその他少数派政党を一つの政党にまとめ上げたものとも表現できる。 ただ、人民行動党が実利的に物事を考え行動しそれぞれ異なる政治思想から独立を保ちながら経済繁栄を遂げる政策を構築した。 そして、その結成当時の不安定な政党と不安定なシンガポールを一つにまとめ上げられたのもリー・クアン・ユー首相の独裁的ともいえる強靭なリーダーシップのもとに統括運営されていたことも重要である。 ただ、彼の独裁的ともいえる数々の強硬策は賛否両論を生んだが。

シンガポール人民行動党の政治は、英米の自由民主主義的な自由競争と選択の自由によって成り立っている自由市場とそのれから生まれる成果主義の恩恵、そしてマルクス・レーニン主義的共産主義の大きな国家の管理による監督と計画性を同時に遂行したことである。 

まずこの図を見ていただけるとお分かりのように、シンガポールの経済モデル大きな政府の存在と自由市場競争の2つの性格を結合させたものである。 英米型市場原理主義モデルであれば政府の政治だけでなく経済への干渉は控え各々の個人が自由競争と表現の自由によって切磋琢磨し成長するというモデルである。 ヨーロッパ(特に北欧)福祉国家型モデルであれば、国家政府が経済活動の基盤と一部の産業の運営を担い各国民個人の国民の生活環境の充実を保証するモデルである。 また、小さな政府であり平等を保つ古典的理想主義というものは数多のロマン主義的なヨーロッパ思想家が考察した人間性前節に基づいたユートピア国家であるが未だ具現化されたケースは皆無。 

シンガポールの強みは、ヨーロッパ福祉国家モデルのように生活に不可欠で経済活動の基盤を支える公益事業は政府が率先して運営し、英米型市場原理主義の自国民と移民も含めて自由競争で切磋させることにより生産力が発達することである。 シンガポールの弱みは、英米市場原理主義と同じく競争社会の中で淘汰されてしまう個人も多く貧富差が過度に拡大し、ヨーロッパ福祉国家モデルと同じくすべてが政府の監視下にあるという閉塞感はぬぐい切れない。 一人頭のGDPが日本より多いといってもその所得の貧富差は日本より断然高い。 また政府の官僚へ支払われる給料が多国籍企業の役員クラスであり、首相の給料もアメリカ大統領をはるかにしのぐ値である。 運よく成功した大金持ちとギリギリのところで生活している低所得層がともに多い。 

他には、未開発な経済を迅速かつ安定的に成長させるために経済の自由と多民族多宗教の平和的共存を認め守る中でも治安と政策決議の安定を保つために政治の自由は制限したため、開発独裁国家という異名も持つ。 実際に生活していても、物流がすごく発達していて痒い所に手が届くといえるほど便利ではあるが、公共衛星を保つ上での厳しい罰則やスキのない警察の監視などもあり、一言でいえば「自由があって自由がない国」といえる。 



シンガポールは物価が高い国として有名であり、ここ数年の間に何回か世界一物価の高い国にランキングされた。 たが、実際に生活してみれば、日本と比べて高いものと安いものがある。 この図に記されているように、シンガポールの物価の高低は市場による影響と行政による影響がある。 

まず、狭い国土の中で急激に経済が発展したこととそれに魅せられて流入してきた移民によって不動産の値段は高くなった。 この影響で中心街およびその周辺では良物件の値段はものすごく高い。 ただ、その市場影響を受けて公営住宅やコンドミニアムの建設および商業地の再開発も行われているため、リーズナブルな値段で提供されている場所もある。 それに、狭い国土であるため移動にも困ることは少ない。

その狭い国土のなかで行政が公共交通機関を積極的に使用させるように誘導しているため、電車とバスだけでなくタクシーの値段は安い。 基本的に狭い国土の中での自動車の使用を制限するために、自動車購入および自動車免許の更新には莫大な課税がなされている。 それに伴い、公共交通機関は整備されているだけでなく値段も安いため、手軽に使用できる。 しかも、狭い国土でいろいろなところへいろいろな目的で赴ける。 

また、行政介入で課税により値段が高く設定されているのは自動車だけでなく、生活習慣と公共衛星に悪影響を及ぼしがちなアルコール飲料とタバコは高い。 その代わり、庶民が気軽に飲食できて憩いの場としても機能している屋台が多く並ぶホーカーセンターで売られている食べ物は安い。 また、外国から多くの投資家を呼び込むため、そして庶民の努力と成果を認めるためその見返りとして得れる可処分所得を減らさないためにも所得税はかなり低く抑えられている。 

あと、シンガポールはかなり自由競争を重んじているためか最低賃金は存在しない。 それゆえに労働者を雇う側にとっては有利なためビジネスチャンスは多い。 また、賃金の高低差がある割に、安い賃金でも労働を希望する移民労働者が多いのも、自国で失業するよりかは雇用先が確保できるシンガポールを選ぶからであろう。 とにかく、単純労働への人件費は安い。 あとは、厳しい印象が強いシンガポールであるが面白いことに「世界最古の職業」のサービス利用料も、その提供者の供給量と競争原理が影響なのか、他先進国と比べると比較的に安価ではある。

この「世界最古の職業」であるが、実は、政府の監視下により衛生管理を徹底させると同時に犯罪との連携を防ぎ所得税を支払わせることを条件に、シンガポールでは合法なのである。 ただ、旅行者として入ってきて違法に行っているものも存在するが、それは警察に見つかれば提供者も利用者も犯罪で逮捕である。 その「世界最古の職業」においても、その店の外に派手に宣伝広告を掲示したり宣伝活動をすることは禁止している。 しかし、これが世界最古といわれるほどどうしてもなくならない場合は、公共衛生を保つための管理を施し、他の職業と同じく所得税を支払わせるようにするしかないという合理的な解決策にもっていった。 

シンガポールはこの「世界最古の職業」や賭博(ギャンブル)など道徳的に賛否両論があるがどうしてもなくならない産業においては特殊な形で制限を加えている。 まず、ギャンブルはシンガポール国民が使用するには比較的に高い賭博場への入場料を払う必要があるが、外国人は入場料は無料である。 つまり、シンガポール国民にはなるべく控えるような誘導を施すと同時に、外国人からはより多くのお金を落とさせ国家経済に還元させる実利的な仕組みになっている。 


最近は世界全体の不況の波の影響を受けてシンガポール経済も停滞気味である。 やはり、世界経済全体が過渡期であり、新しい技術運営と新しい経済モデルが必要になってきている証拠であるのかもしれない。 シンガポールは、その世界貿易の中間地点という地の利を生かしつつ、今までの世界経済の中で奇抜な政策を執行することによって急速に発展し安定した統治を実現した。 それに経済成長が停滞した現在でも、東南アジアの中では随一の技術と資本をもつ国家なので、東南アジア全体の首都という扱いと表現してもおかしくない。 高技術の医療が必要な患者は東南アジア諸外国からシンガポールに運ばれてくるし、東南アジアの優秀な学生やビジネスパースンはシンガポールに移住し活躍する傾向がある。 故に、その成功から学ぶ部分は未だ多く存在しているであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1.1 社会主義の失敗と資本主義の拡大 前

2016-11-25 23:17:57 | 国民国家の黄昏にて
インターナショナルな社会主義の政治的試みは、各々の国において特権を持った優福層と多数派の庶民層など2分化した社会階層の解体し無条件に資源や財産を共有しあう万人の融和を目指し、国境を越えて世界の人々が博愛の精神をもって助け合い平和に生きることであった。 

しかし、社会主義の欠点は、個人がそれぞれ自発的にそれぞれの適性と労力を高める手段と環境を整えられなかったことと、一人の自己中心的で強欲な個人がその政治制度を動かす権力者となった場合についての考慮について怠っていたことだ。 社会主義制度は、人ひとりひとりが常に他人のためにつくすだけ貢献しあうことの力量を過大視するとともに、その財産共有し中央統制によって制御する計画経済が博愛の精神の無い人間に乗っ取られた時に社会主義の理想とは全く違う結果を生み出してしまう可能性を過小評価していた。


その一方で、経済における生産手段の分業と私生活における個人的快楽の追求を原動とする資本主義の拡張は止まらなかった。 殆どの近代化された国民国家は国民の福祉と国家防衛力、外交における影響力を確保するだけの国力を得るための手段として資本主義を導入した。 

資本主義が有するマーケットメカニズムが個人間において必要なもの欲しいものを交換条件をもとに取引させた。 この制度が人間個人の欲求を満たしていくと同時に、その交換条件に応じるための適格を鍛え努力するようになり、その人間個人の性ともいえよう果てしない欲求が資本主義をさらに拡張させた。 そして、そのマーケットにおける個人間の取引が小さな共同体規模から国家規模へ、そして国家の枠を超えた世界規模へと発展していった。 

更に、資本主義の政治経済制度は一人個人や一組織によって権力が統一されておらず、それぞれ分裂した組織によって構成され、権力は分散されている。 かつ数多の大小の取引が複雑に絡み合っているマーケットメカニズムによってなりたっているため権力の所在は常に変動している。 故に、この政治経済制度は、激しく変動しつつ混沌としていながらも、保たれ成長し続けてきた。

すると、資本主義は成長し拡張し続け、国家間どうしの貿易頻度が増してくると、国家が資本主義を利用していた立場から、国家の政策が国家間を跨いで拡張した資本主義制度に合わせなけばいけない立場に逆転するほどとなった。



なぜ社会主義が期待する博愛に満ちた人間同士の自主的な利他的奉仕活動を中心に世の中を動かしていくことが難しい。その原因は人間の心理とそれに基づいた行動にある。 苦痛な思い出は楽しい思い出よりも強く残る。 そして、その苦痛からくる人の物事そして他人に対する憎しみは人の心を支配しやすく、相互不信の種はいとも簡単に育ち広まる。 より憎しみが強大な個人は他人よりも強い動機を持つ傾向にある。 故に、人間すべてが善なる存在であることは難しく残念なことに、より寛容で幸福かつ思いやりのある他人よりも、より憎しみを抱いた相互不信的な個人がいっそう活動的に行動する傾向にある。 
もちろん、人間個人は他人を思いやることは可能であり、自分の時間と余力をある程度そそぎ万人にとって住み良い世界を作るための貢献を行えるぐらい博愛的になれる。 しかし、一個人には他人のために貢献する限度があるし、時に堕落行為への誘惑も同時に強く、常に利己的かつ短期的な欲求を抑えられるほど人間は強くはない。 もっと他人を思いやり助け善徳に生きるだけの余裕を確保するには、人間個人は自分だけでなく他人へ施しができるだけの物理的にも精神的にも裕福である必要がある。 物理的にいえばある程度自分の富を犠牲にしてまで他人を助けられるだけの資源が必要であり、精神的にいえば自分自身がすでに俗世で自分自身が堪能できるだけの至福を満足しきっただけの人生の余裕が必要である。 そして、それだけ人生に余裕がある個人はこの世の中では少数派であろう。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1.2 社会主義の失敗と資本主義の拡大 後

2016-11-25 23:16:29 | 国民国家の黄昏にて
人間個人を含む自然界の生物にとって、あらゆる欲求の中での優先順位は第一次的欲求を満たすことであり、名誉を得る欲求や他人や世の中への配慮をしたいという利他的欲求よりも、食欲、睡眠欲、性欲など第一次的欲求が満たされない限りそれら第一次的欲求へのあくなき追求が彼らの精神を占めるであろう。 大多数の大知事的欲求を満たすだけでもかなりの資源が必要とされる。 故に、その資源のパイを巡っての争いは絶え間なく続けられてきた。 

悪徳とは人間の欲求不満や必要資源の枯渇もしくは過剰欲求により突き動かされるものであろう。 多くの人間が他人と世の中への施し己が生活を律する善徳が悪徳や堕落に打ち勝つためには、まず彼らが自分たちの生活に十分に満足しきっている必要がある。 人間個人が先天的に第一次的欲求を満たすことを優先順位するなれば、限られた資源の中で、彼らの善意よりも悪意がより強くなりやすい傾向を止めることは大変難儀である。 

文明が未成熟な段階において、略奪や戦争はこの第一次的欲求が不満であることによって引き起こされた悪徳によって引き起こされたといっても過言ではない。 しかし、人間個人等は徐々に市場経済という契約と交換条件に基づいた平和的(と呼ぶにも賛否両論ではあるが)な政治メカニズムを構築し、資本主義が誕生した。 

道徳的判断は主観的価値観によって偏りがちであり、常に現在存在している道徳的判断が正しいか否かは不明である。 それゆえに、人間個人等は、その状況と時代において彼らの必要性と欲求に応じてその道徳的判断を再評価し修正し続けてきた。資本主義は限られた資源の中で必要と欲求に応じて、その道徳的価値基準を最適化する役割も果たした。 それゆえに、一つの主観的な道徳的価値基準からの束縛から解放させ、価値観の相違による戦争から、比較的平和な市場による取引と契約の見直しにより柔軟に再評価および修正するようになった。

資本主義が、その資源の配当における契約と交換条件においての個人の優劣の差により持つ者と持たざる者との不平等を生むと非難される。 だが、それと同時に第一次的欲求という強い原動力が必要と欲求に応じて資源とそれを加工した産物を取引させすることにより資源分配がある程度最適化され、市場における取引を通じて各個人へ配当可能となる資源の総合量は増大した。 

資本主義こそより総合的に物質面で豊になり総合的に分配される資源が増える傾向にある分、余剰に資源が分配されるからこそ、その余剰な資源を分け与える余裕ができるともとらえられる。 だからこそより物質面に恵まれ第一次的欲求が既に満たされより名誉や利他のために余力をさける個人が現れやすいのも資本主義であるともいえる。 最初から限られた資源が平等に分配されているが、分配される資源の総合量が低い場合には、すべての人間個人が平等に貧しく万人が常に欲求不満に悩まされる。 だが、市場における交換条件においての優位性による差によって不平等が生じても、その制度に生きる人間個人へ配当される総合的な資源量が増えれば、なんらかの余った資源を再分配することによって不平等による不満を和らげることができる。



資本主義は生産活動を各個人間で分業させ、各々の個人のもつ得意分野に特化し生産活動を行うことで発展してきた。 それにより一人の釘職人によって釘が生産されていた環境から、同じ時間で10人の釘工場の作業員が数十個の釘を生産するようになった。 故に、この生産規模の拡大が総合的な生産力をたかめていき、その生産されたものの市場での取引に基づいた経済活動は増大した。 更に、近頃の顕著な情報技術の発達が、その分業と生産力の拡大に必要な物質資源と人材資源の発掘をさらに広い範囲で発掘できる情報を提供することを可能としたために、資本主義は更に拡大し続け、やがては国境を越えた規模にて分業と生産力の増大が拡大した。 国境を越えた経済活動の拡大、つまり資本主義経済のグローバルである。 

これは誰かによって計画されたのではない。 これは人間の自然的な欲求に突き動かされた資本主義そのものが分業と生産活動を自然に増大させていく性質を持っているためである。 それが東西冷戦の終焉により、政治的な関係による国家間における経済活動の障害が薄れてきたために、国境をまたいだ経済活動が更に活発化し発展していった。 その上に、より安価で世界中の個人たちがを情報国間ネットワークでつなぐ情報技術が発達したことにより、自然な欲求に突き動かされた個人たちの取引が地球規模に拡大した。 

国家間における経済活動の政治的な障害の軽減、その情報ネットワークの拡大、そして人間個人の欲求を求める行動により資本主義の経済活動は国家規模を超え地球規模(グローバル)に発展した。 その中で、国民国家の政治的圧力が資本主義経済を制御することが難しくなり、資本主義経済への干渉する国民国家の力への疑いも日々強まってきている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする