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Art&Blue-Liberalism:青き自由主義 復刻版 など 

アダム・スミスとマックス・シュティルナーの思想を参考にして自由に個人が生きる世を目指す!

1.3 生産への過剰需要、資源枯渇、不況の負のスパイラル

2016-11-25 23:16:17 | 国民国家の黄昏にて
しかし資本主義の自由市場に基づいた自由貿易が拡大していくと同時にその経済の景気循環は激しくなる。 拡大すればするほど景気循環は激しくなり、過剰拡大とその後に副作用として現れる不況へのスパイラルが起こる。 人間個人の果てしない利己的な欲求を原動力とした市場経済は、生産力と個人の選択の幅と自由を設けるという恩恵だけでなくその果てしない欲求による副作用もある。保持資源量と各個人の生産力に見合わない資源と加工品、サービスなどの生産物への過剰需要起こる。

そして、限られた自然資源の量は一定だがそれを加工し作られる生産物への需要は高まり続ける。人間個人も市場からつぎつぎに生産物が生み出されるし、個人に支払われるその生産行動に対して支払われる労働対価や投資の見返りは増え続ける。生産物と労働対価や投資の見返りから得れる可処分所得が増える。

その可処分所得をもって購入できる生産物とその選択肢も増えているので、安心して快適な生活ができることを当たり前として安心するため、人間の人口が増加の傾向にあっても過剰になっても気に留めない。その生活の安堵感からくる人口増加が、やがてその人間の群れの加速する生産活動が原因となり、資源の枯渇が生じる。

資源の枯渇についての情報が伝わると各生産物の価格および人件費の高騰が起こる。 経済活動範囲が広まるとその情報の伝達がいきわたるまでの間隔があるので、いかに情報技術が発達しても遅延が生じるし、人間はなかなか急に慣れした生活を改めることを行えない。 それゆえに、過剰需要な状況は情報がいきわたり大多数が危機を知らされるまで続く。

過剰需要による生産物の価格高騰が続き、やがて個人が労働対価もしくは投資への見返りから得ている可処分所得では購入しづらい程に価格が高騰してきた際に、やがて需要が過剰であると気が付き需要が停滞する。 そこで、今度は可処分所得を生産した対価として支払う個人が減る故に、安い値段で、つまり消費する可処分所得に対して比較的より多くの生産物を提供できる生産者を選ぶ。 故にこの状態では比較的安い値段に落とすことで可処分所得を持った消費者をよりひきつけることができるので、結果より見返りを得ることができる。 

それに続いて他の生産者も値段を安く落としていくため、市場にある生産物を手に入れるために必要な価格は下落いく傾向にある。 ただ、生産物の価格が下がるということは、それを生産している個人が労働対価もしくは投資への見返りも下落することになる。 過剰需要により生産に必要な自然資源が減少した場合、いくら急に採取量を減らしたとしてもその採取可能な自然資源の量が増えることはないため、自然資源の値段は下がりづらい。 故に、優先的に個人の労働対価および投資への見返りが減らされることになる。 すなわち個人に分配される可処分所得が更に低下する。 

そこで人間個人同市のその可処分所得の分配を得るための争奪戦が行われ、立場的に幸運である個人は自分の可処分所得の下落率をある程度抑えることができるが、不運に見舞われた個人はより可処分所得を得られる機会を奪われる傾向にある。 しかし、その不運な立場の個人が増えると同時に、生産行動に対するあらゆる対価も減少することになるから、比較的幸運な立場にあった個人も得られる対価もやがては減少していく。 

そこで、各々の個人等が市場における売買の取引のなかでの争奪戦が行われ、比較的に強いもしくは幸運な個人は可処分所得を守り、比較的に弱く不幸な個人は可処分所得を得られる機会を無くし生活に苦しむことになり、最悪の場合は生活に必要な生産物が手に入らない状況になりその個体の存亡の危機、すなわち病や死を襲う。 その負のスパイラル循環が続く場合には、不幸になる可能性も高くなるために、最初に個人の力量もしくは幸運で勝ち抜き生き残った個人にも不幸による力の減退が訪れ、不幸な弱者となりうる。 

この悪循環を断ち切るには、もとから採取可能な資源に対しての過剰な人間個人の人口増加を抑制しておくこと、資源とそれを加工して造られる生産物への過剰需要を抑制するための市場への介入、そして上記に述べた負のスパイラルが起きた際に起こる立場上の運の格差拡大を埋めるための市場への介入が必要となる。 自由な市場は生産力を上げるためのモチベーションとして不可欠だが、その循環の波を抑えるための装置が必要になる。 その市場の規模が大きくなればなるほどその装置の規模も大きくなる。

5.4 北半球の北側に位置しているだけで経済は安泰なので、日本経済も大丈夫!?

2016-11-22 22:56:42 | 国民国家の黄昏にて
経済予測なんて単純なもんで、基本的に世界の中で経済が活性化している地域もしくはその近辺にいるだけでかなりの恩恵がもらえる。つまり、経済的に裕福な地域が集まっている北半球の北側に位置しているというだけで経済展望は良い。実はGreat Circle Distance(大圏距離)においては日本と北欧諸国の距離は日本とインドの距離と同じぐらい。それに、大検距離が歪められて記載されているメルカトル図法の地図では分かりづらいが、これからまだまだ元気な経済圏である、北欧諸国、ドイツ、カナダ、アメリカ合衆国でもニューヨークとワシントンはそれぞれお互いにかなり近 い距離にある。日本もアジアの中では北半球のかなり北側なので、大圏距離はそれらの経済活発なリージョンに近い、つまりマーケットポテンシャルが高い。 

多数派の経済学者は、経済は政策や金融市場など内因的なものに左右されると信じているが、実は(長期的な展望においては)経済は馬鹿らしいほどに外因的な要素に左右されている。だから、経済政策学者や金融スペシャリストの言う経済予測なんてものは、短期的なスパンでのみの予測で、中期~長期的な予測においては殆ど頼りない(というよりかは経済地理学や哲学を勉強していないから長期予測が難しいのだが)。

ゆえに、薄っぺらい職人経済学者達がのいかにもどこかの宣伝業者であることがバレバレな姿勢でどこそこの経済をヨイショする姿勢にはホトホト呆れかえっている。どうせ、そのようなホラ吹きで食っているような詐欺師みたいなもので、偏った論理(例:短期的な金融データと過去の政策実績などの知識の組み合わせによる純粋論理推量)でしか物事語れないような詐欺師といっても過言ではないだろう。 とにかく、人間の理論推量と行動原理は、論理に基づいた理論による推量よりも、自分が主観的に望んでいる結果およびなんとなく期待される結果を求める衝動から来るものであるということが多い。


ひとつの地域に集まる人間の質もかなりその気候と文化に影響を受ける。 まず気候だが、物流可能な食料などの自然資源が限られている北側ほど自立した個人、つまり人間資本の発展が促されるが、南に行くほど単純労働主体となった忠誠心を重んじ権威に甘んじ守られたいと切望する個人が多くなる傾向があるといえる。 

たとえば、極端な話ではあるけれど、北半球において、北に行くほど気候も厳しくなり採取可能な資源も限られてくる、故に、人間個人一人一人のの不屈の勤勉さ無しでは生活もままならず、自己主張が強い勤勉な個人とその個人等のお互いの平等な信頼関係が強くなり、自治の精神が培われる。

一方、(これもまた極端な話ではあるが)南に行くほど、採取可能な自然資源が豊富である分人間個人もそれに依存しがちになる。 その為、土地の所有権およびその気候文化において尊ばれる先天的な素質がより人間個人が鍛え上げられた練達よりも尊ばれれる傾向にある。 故に、より集権的な政治体制に依存し、個人よりも家族や民族などの集合体による保護への依存が強くなる。 

あとは、気候にかかわらず都会化されている地域は(北半球の)北国と同じぐらい人間個人の不屈の勤勉さと自治の精神が培われる。 その資源と個人の成果を一か所に集中させ取引を成立させやすい都会ほど、更なる人間個人の練達を高め経済力を高める。 人口密度が高く都市化されるほど、物流と情報流通が効率化され物質と精神+知識が相互発展しやすくなる為、個人の自立趣向が高くなり一人ひとりの自由意志が強くなり知力もあがる(人間資本力向上)。

一方、人口密度が低く、土地が広大で、個人と個人、地域と地域との間の交通費用がかさむと物流と情報流通がどどこおる。 故に、過去からの伝統がよりその地域の政治を強くし、外敵から身を守るためにも大衆はより強大な権力にすがる傾向にある。 故に、己が個人の成果よりも、より専制主義者の主導力に依存する形になる為、一人頭の知力は下がり気味(人間資本力減退)。

極論ではあるけれども、人間は気候が厳しい北に行くほど、そして人口密度が高く都市化されるほど、より大衆の自立心が強くなるといえる。一方、気候が温暖かつ人口密度が薄い地域にほど、Despotism(専制主義)に依存した怠惰な大衆になりがちである。


まだ、技術力の発達していない過去においては北側は人が住める状況では無いし、航海技術も内海や穏やかな海洋でしか航海が可能でなかったから、 Occident(ヨーロッパとアフリカを含む西洋)では地中海やOrient(トルコ以東の世界)では海南あたりが、地球上の経済が活発なリージョンとして誇っていた。しかし、時を経て高熱技術と航海技術が発達すると、より個人の独立趣向が強い北側にチャンスが回ってきた。

だから、経済イニシアティブもギリシア・ローマからオランダ、UKとフランス(それらの植民地である北アメリカも含む)、ドイツ、そして現在においてはフィンランドやカナダが元気である。 そして、これらの文明は高熱技術と航海技術が進化すると同時に都市化を成し遂げ、新しく発展した経済圏より以南はより非都市化し衆愚化していきた傾向にあった。


これにおいて、時と場所が物事を左右する根本であることがかいまみれる。 時間軸に逆らってこの現象が逆に動くことはないと思われるし、経済の主人公が北に行くほど、それら主人公経済圏同士のGreat Circle Distance(大圏距離)が縮まっていくから、地理的な背景からもこれからは北半球の北側が経済の主人公となり続けるであろうし、地理学的(縦横高)にも歴史学的(時間軸)の視点からみても経済の主人公が南に移ることは考えにくい。

よって、簡潔な結論だが、北半球でもより北側に位置している日本は経済地理学的にまだまだ有利であると言える。
最近は飛行機の時代でもあり、その点で日本はGreat Circle Distance(大圏距離)においては北ヨーロッパとカナダ、そしてアメリカ第一都市のニューヨークとも近い。


ロシアはちょっと領土が広すぎて人口密度が薄い(都市化=個人啓蒙=人間資本力向上が進んでいない)ので独自の経済発展は現時点ではまだまだ難しいようにみえる。しかし、北半球の北側ということで北ヨーロッパとカナダ、ニューヨークそして日本と近いので、地下資源発掘などの開拓などを宣伝して北半球の活発な経済圏から、Great Circle Distance(大圏距離)の短さを利用して、投資を呼び込めば経済発展する可能性は有る。

昔は、ロシアが都市化=個人啓蒙=人間資本力 向上することはこれからもありえない思われてきた。しかし、より経済圏の主人公が北へシフトしている故に、その恩恵をロシアが被り、啓蒙主義的な皇帝とその臣下等の尽力をもってしても成し遂げられなかった、ロシアの広域における都市化=個人啓蒙=人間資本力向上が可能になる可能性が出てきたのではないであろうか。

更に、地球温暖化の影響を受けて北極海の氷が溶けているため、ベーリング海峡とバレント海を結ぶ北極海にてより船舶の航海が容易になってきているといわれている。 これで、ヨーロッパとアジアを結ぶ航海路も、航海距離がものすごく長くまた海賊が出没するマラッカやソマリアを経由するスエズもしくは南アフリカ経由に代わるルートがより開拓される可能性は有る。 そこで、北極海航路の殆どがロシアを通るため、ロシアにとって都市化による経済発展の可能性は十分に出てきた。 また、このルートにての航海が盛んになればアジア諸国からの船舶は日本を通過することになるので、日本の更なる経済成長および世の中の活気が高まるのではないであろうか。 


マレーシアやシンガポールなど人口密度が高く都市化している東南アジアの経済はこれからも元気であろう。 しかし、航空技術および電子情報技術の発達により航海への依存性が薄まってきたために、昔ほどの地理的イニシアティブは保ちづらいであろう。 シンガポールの発展は、国際貿易拠点にて大型港を建設して地理的に国際貿易市場において利益を独占できたことにある。 だが、航空技術および電子情報技術の発達だけではなく、マレーシアやインドネシアの大型港の設立によりそこの市場が寡占状態になったためにシンガポールの利益が減退した。マレーシアもまたシンガポールと競争しなければならないので利益率が上がりにくい。

更に、マレーシアの経済成長も不動産バブルに依存するところが大きかった。 そして、その不動産バブルを引き起こす要因は、シンガポールの独占利益から長年恩恵をうけていたシンガポール人のマレーシア不動産への投機でもあった。そこで、マレーシアがシンガポールの利益率を減らし、こ れ以上のシンガポール人のマレーシア不動産への投機が亡くなればマレーシアの経済成長も停滞する傾向にある。 

なお、マレーシアは、ブミプトラ政策にもみられるとおり恩恵に守られたいと切望する個人が多い集権政治への依存と忠誠心が強い。また今後の経済発展に必要な都市化に必要な人口密度も低い。 マレーシアの体制では、これから長期的な経済発展に繋がる人間資本の開拓は難しいであろう。よって、クアラルンプールなど都心部はまだ可能性があるがマレーシア全体の爆発的な経済発展は無いとみている。


とにかく最近は日本はもう終わった、経済発展は終わり衰退していく、というような話が巷に流れ、人々も希望を失っているように見える。 しかし、経済とはここで述べた外因的な要素だけでなく、人々の心持もそれなりに影響する。 無論、経済がよろしくないから心持も悪くなるのであるが、心持がないと経済も更に悪くなる。 だからこそ、ここで少しは日本にとっても見通しがあるという話を提供した。 


5.1 ヨーロッパ通貨統合はなぜ成功しないのか

2016-11-22 17:27:15 | 国民国家の黄昏にて
なかなか収まらないヨーロッパ経済危機…。 そのそもそもの原因は、バラバラでそれぞれの国のアイデンティティを大切にするが故に、統合を拒もうとする姿 勢がある中で、ヨーロッパ諸国を一つの共同体に統合しようと試みるという難儀である。 その独自のナショナリズムを保とうとする姿勢と平和なヨーロッパ統 一を成し遂げようとしようとする中でのダイレマ(ジレンマ)である。

ヨーロッパ連合(以下、EU)を帝国主義だと主張する論客も一部いるが、それは勉強不足としか言い用がないであろう。 実は、EU体勢 の背後にはマルクス主義的な反帝国主義が働いているのだ。 元来の国家を基にした自由市場主義(一般的に資本主義と呼ばれるが、著者はこの単語の使用を拒 む)において、ヨーロッパはお互いにしのぎを削っていた。 資本を蓄積し、他国に負けんとばかりに産業の近代化を推し進め、金融を発達させ、そして新たな る資本開拓、つまりは植民地拡大、に精を出していった。 その結果が、ヨーロッパ大陸の中で勝ち組と負け組を産み、負け組は大きな負債を抱えた。 大きな 負債を抱えた国は、国家の担保としての信頼度も低いため、あえなく負債を自国通貨発行して返すという始末になり多大なるハイパーインフレ(物価高騰)を引き起こした。 歴史を振り返って解るように、ハイパーインフレが起こる頃には常に反乱が渦巻く。旧体制が保証した権威の結晶である貨幣が暴落することは旧体制の信頼度が下がるということである。 故に、その負け組国家では新たなる勢力が生まれ台頭し、旧体制を凌駕した。 そして、その台頭した勢力が、他の国でも広がることをおそれた他国軍は新勢力に乗っ取られた国を警戒し牽制する。  その軋轢に対抗すべく、その新勢力が台頭した国も其等の国と戦う。 そして、また国家勢力のリシャッフルが行われ、勝ち組と負け組が振り分けられる。

この旧来の国家を中心とした自由市場主義において、競争によりお互い歪め合うのではなく、国家群同士で新たなる統一した秩序概念を築き、調和しあおうでは ないかという国家主義(ナショナリズム)から国際主義(インターナショナリズム)へとコンセンサスが向き合った。 これは、ソビエト共産主義が数多の東 ヨーロッパ諸国および世界の発展途上国らの国々にお互いの国の市民たちが手をとりあって団結し、彼等を支配する国々の旧体制の支配者を打破し、国家という 枠を取り除き、共産主義という新秩序のもとに統治された例をも参考にしている。 その例がEU体勢の結成に大きく影響を及ぼしている。 そして、ソビエト 共産主義のような計画経済という市場原理という名の幾何学を無視した横暴な経済体制を抜きにした競争よりも調和を重視した経済体制を樹立しようとした。 EU体勢はソビエト共産主義の世界普及と同じように国家同士の啀み合いを解消するため国家の枠を取り払い、ヨーロッパ人がひとつにまとまることを目標にした。 つまり、横暴な計画経済の無い市場原理という幾何学を理解を示した反帝国主義である。マルクスの言ったように、国家もしくは資本家たちの一般大衆 に吹き込んだナショナリズムという誤った良識から抜け出し、それぞれの国の一般大衆がまとまり合おうという思惑がヨーロッパ統合に根ざしていることはいう までもない。

特に、西欧の各帝国が崩壊し、それぞれの国が他の国と競争し勝ち残っていくだけの資本だけでなく自国民を救済していくだけの余裕がある資本がそれぞれの帝 国には残されていなかった。 唯一報われたのは、帝国主義の時代に過度な金融市場の活性化と植民地拡大競争を避け、安い労働力のみに依存せず大衆教育を発 展させ人間資本の開拓に貢献していたドイツや北欧諸国である。そして、金融政策(金利や貨幣供給など貨幣や債権、有価証券などを扱う政策)においてドイ ツを手本にするという指針は、もともとドイツは歴史上の経験からインフレへの懸念警戒が敏感であり、大きなスケールにおいて金融政策を執行するだけの実績 と能力、責任性があるとみなされているからであり、決してドイツがEUを掌握するだけの権力を持っているわけではない。 むしろ、独自の核開発技術をもっ ていざとなったら武力で脅しをかけられ、国際連合でも拒否権をもっているフランスだって権力はある。 つまり、ドイツは金融などのロー・ポリティクスでは 成果があるからこそ認められ力を掌握しているが、軍事外交などハイ・ポリティクスではフランスが権力を掌握している。 故に、EUを新たなるドイツ帝国と いうのは全くもって見当はずれの見解である。


ヨーロッパ経済は瀕死の状態に見えるが、下記に記す改革を行った際にはヨーロッパ経済は復活する可能性は十分あるという予測もできると主張する。 今ユーロを手放している投資家も時期がくればまたユーロ買いにはしるであろう。 ではそのタイミングとはいつか?

それは、まだユーロ圏経済が行なっていない切り札を使うときである。それは、国家ごとの国債発行権を廃止し、それに変わるユーロ圏共通の債権である Eurobond(ユーロ債)の発行である。その元締めとしてそれぞれの国家の政府の上に立ち、ユーロ圏経済をまとめるヨーロッパ連邦政府の樹立である。 つまり、ヨーロッパ連邦政府である。 ヨーロッパを統一するには、それぞれの国が平等に権利を主張しながら行うのではなく、それぞれの国家を統一支 配するだけの権力を掌握する超国家的な連邦政府である。 これは、ユーロ加盟圏をアメリカ合衆国のそれぞれの州とすれば、ヨーロッパにもアメリカ連邦政府 に値するものが必要であるということである。 今現在のユーロ圏経済は、連邦政府の無いアメリカ経済であり、ワシントン=ベルギー&フランスとニューヨー ク=ドイツがバラバラに動いている状況である。 

1997年当時にヨーロッパ経済統合のためにつくられたマーストリヒト条約は非常に妥協されたものである。 つまり、本来ならばヨーロッパを統合するには それぞれの国家の上に立つ統一国家ヨーロッパ連邦政府が必要であったが、それぞれの国家がそれぞれのナショナリズムや国家利権にこだわっていたため、それ ぞれの国家の反発を避けるため、あえなく妥協した不安定な条約となったのがマーストリヒト条約である。 最も、ヨーロッパ経済を安定されるには、一つの国 家経済としての力は減退するが比較的に安定が約束される、国家ごとの通貨発行権を戻しユーロ圏を解体しマーストリヒト条約からの脱退のためにEUを離脱する(ユーロ圏に加盟していない国家でもEUに加盟している限りマーストリヒト条約の経済的制約を受ける)を分離されることである。 だが、ヨーロッパ諸国 はひとつの小さな国として独立すれば、やがて世界の外国および経済において確実に繁栄を失うことになるから、やはりヨーロッパ諸国と団結してアメリカの経 済的繁栄とマルクス主義の国家間協調を得たいという気持ちもある。 故に、最初は、国家のアイデンティティを保証すると同時に経済的動揺を防ぐための経済 制約を取る仕組みであるマーストリヒト条約を締結した。 そして、やはりそれぞれの国家が団結するために必要な超国家的な組織の必要性に気づきリスボン条約においてはEU大統領が始めて選ばれた。このリスボン条約は、一つのヨーロッパを作るために必要である連邦政府を築く土台を作るために制定された。 国家ごとのアイデンティティの誇示と迎えるべき安定したヨーロッパ統合との葛藤のなかで中間という妥協をとったマーストリヒト条約の欠点を補い、次のヨーロッパ連邦政府樹立にむけての新たなる条約制定のためのステップストーンなのである。 

本来ならば力と才能のある国家がそれぞれの国家を凌駕し、その指導のもとにヨーロッパ共同体を築く方が、現在起きているような波乱をさけ、もっとも安定したヨーロッパ統合を成し遂げていたであろう。 しかし、その強行手段を取らずに、妥協による不安定を経験してでも、分離した状態から、ゆっくりと着実にヨーロッパ統合へとあゆみ続けるEUを帝国主義と呼ぶのは愚かしい虚言である。

最近のニュースではドイツが目立っているので、どうもドイツが主導権を握っているように見えるが、ドイツはあくまで金融と財政の面のみである。 フランスの方が軍事と外交においては主導権を握っているし、リーダーシップとして主導権を取るべき国はベルギー、オランダ、ルクセンブルグなど小さな国だが高度な文化を保持している国がこれからも握るだろう。 この連邦政府とはどこの国に属しているのではなく、成果主義的に各EU加盟圏から選んだ代表により執行される政府となる。 そして、EU圏でもユーロに加盟している国々は国家ごとの政府の国債発行権を剥奪され、変わってユーロ債がその連邦政府より発行され、財政や金融取引においても連邦政府がひとつの条例を制定する。

もちろん、ヨーロッパ連邦政府が樹立されても共通通貨制度に入らない国も出るであろう。 今までは、すべてのEU加盟国が準ユーロ加盟国としてマーストリヒト条約により制約を受けてきたが、やがてマーストリヒト条約は見直され、ユーロ圏に入るか否かで経済に対する制約が 国家ごとに変わってくるであろう。 おそらく、ユーロ加盟国家群への連邦政府による制約は大幅に強化されるが、ユーロ加盟していない国々へはマーストリヒト条約の制約が緩和されると予測する。 でも、どちだにせよ、ユーロ加盟圏国家の数がこれからも同じ数で維持され、ユーロが貨幣として生き残ることはありえる。そして、投資家たちがユーロ買いを始めるのは、ユーロ債の発行、リスボン条約よりも更に連邦政府体勢の樹立を約束するような条約制定、そしてマー ストリヒト条約という妥協のもとに設立された経済制約の解消がなされるときである…。


もし、ユーロ・ゾーンにおいて国債発行権が統一されていたら、国債発行は加盟国すべての集産的責任のもとに行われユーロ加盟圏全体の景気喚起となる。 し かし、各加盟国各自の国債発行権は、その各々の国債発行の影響は、その国にしか適応されない。 しかも、独自の貨幣が無い、つまり金融政策が無ければ、尚更独自の国債発行に頼らなければならない。 更には、独自に金利が調節できない、つまり独自の経済圏の貨幣流動率の調整ができないのである。 脱出困難な不況の状況にて、共通通貨圏に加盟しながら、能動的に自国経済の景気循環を上げるには、更なる財政赤字でまた国債発行となる。 

もし、ギリシアやアイルランド、ポルトガルなどの国の国債発行権を廃止して、これらの国の財政の杜撰さを指摘しEU中央政府の指導のもと財政の合理化を計らせ、財政出動をこの国の財政赤字ではなく、EU中央政府からの財政支出のみでまかなえれば上記の負の螺旋は回避できる。 この負の螺旋が解消できれば、 ECBもこれらの国の国債を買い続けなくて済むし、ドイツやオランダなど比較的裕福な国が自分たちの経済を犠牲にしてまでこれらの国に金を貸さなくても済む。 もし金を貸すのであれば、財政の合理化を条件に(一応やっているようだが、スピードが遅く矯正への強制が生温い!)債券発行の責任制(担保などの問 題)をドイツやオランダだけに限らずユーロ・ゾーン全体の責任制とするべきなのである。 

まず、ユーロ・ゾーン加盟国群の一部が財政赤字(つまり国債発行)を繰り返しているので、これらの国の財政が破綻しないように、ECBが国債を買い続けている。 ここだけは、アメリカ合衆国の連邦準備銀行が自国内の企業債や国債を買い続けているのと同じである。 しかし、アメリカ合衆国と連邦準備銀行は、分離されたユーロ・ゾーンとECBと違い、財政の責任制と金融政策の効果が連動している。そして、アメリカ合衆国は地方財政は連邦政府の州財政の監視によって保たれている故に、連邦からの各州への地方交付税は各々の州の経済状況に応じて交付される。 それと異なり、ユーロ・ゾーンが行っている量的緩和は、ただ単純にECBが、財政構造に問題がある国であってもその国の国債購入をし続けているだけである。 そのため、いくらこれらの国への支出投下を行っても効果がなかなか現れない。 財政政策のリーダーシップ不在の中、財政政策の統合はひたすら延期され、ただひたすら中央銀行による国債の買い取りだけを行っているのである。 だからこそ、効果の無い、再現の無い国債購入のための量的緩和が続けられる。                      



5.3 英語はアメリカが衰退しても世界共通語として存在し続ける

2016-11-22 17:19:26 | 国民国家の黄昏にて
16世紀にマルティン・ルターによって聖書が始めてドイツ語で翻訳され出版された。それまで聖書はラテン語で記されていた。 つまり、ヨーロッパおよびその支配下もしくは文明的影響下にあった所においてラテン語は上流階級とインテリ階級にとっ て習得必須言語であった。司祭や貴族だけでなく学者、医者、法律家そして政治家にとって、ラテン語は文献から情報を学ぶための手段およびハイソサエティ(上流社会)にて人々と交流を持つ上でのパスポート的な役割を果たしていた。第一、フランス語、スペイン語、イタリア語はラテン語が訛ったものである。ドイツ語は語彙はゲルマン民族固有も物が多いが文法はラテン語の影響をひしひしと受けている。英語もローマ帝国支配下の名残により残された微かなラテン語の影響と11世紀によりノルマン人によってもたらされたフランス語によってラテン語とは親戚関係にある言語である。  

ラテン語とは古代ローマ文明により築かれた言語である。ローマ文明の影響が及び限りラテン語は普及した。 そしてローマ帝国そのものが滅び去った後にお いても、ローマ帝国の支配構造をモデルにして創設されたキリスト教団体であるアタナシウス派(後のローマン・カトリックとギリシア正教会の前身)は組織された。 そして、西ヨーロッパのアタナシウス派がローマン・カトリックとして勃興した。ローマン・カトリック教会はローマ帝国の政治体制を学び適応したために言語もローマ帝国の言語であるラテン語を継承した。そして、ローマン・カトリック教会がヨーロッパに普及すると同時にラテン語は教会ある所の公用 語として使用された。そして全西ヨーロッパにおいて、その教会の政治的影響のため俗世間の権力者たちである貴族たちの間でもラテン語が公用語として用いられ、諸地域同士の政治的取引はラテン語で行われた。 

また、ラテン語の使用はカトリック教会組織や貴族などの俗権力者だけに留まらず、多くの学術書の記載においても使用され、医学や数学、科学、そして文学や 芸術に至るまでそれらから得られる知識はラテン語を介して理解された。故に、16世紀に聖書がラテン語以外でも記載されるようになっても、ラテン語は学 術や芸術の世界でも公用語として生き続けた。

英語はヨーロッパ諸国の中で最も勢力を拡大した大英帝国の言語である。そして、その大英帝国から独立し、ヨーロッパ列強等が衰退すると同時に世界の覇権 国家となったアメリカ合衆国の言語も英語である。それらの国が台頭した時代でもラテン語は教会や上流社会そして学術界において衰退はしつつも存在はし続けた。しかし、大衆の間での英語が普及し、徐々に上流社会や学術界においても英語の使用が普及したために、ラテン語の権威は消滅してきた。そして、1962年にローマン・カトリック教会がラテン語の必須を廃止し、ミサのお祈りや聖書の出版をラテン語以外の言語で行うようにするようにしたことなどにより、ラテン語の支配は終焉を迎えた。 

そして、覇権国家アメリカ合衆国にとって東西冷戦におけるライバルであったソビエト連邦共和国も崩壊したことにより共産圏における公用語とするように強制されていたロシア語も英語のライバルとして存在しえなくなった。更には、その東西冷戦の遺産であるインターネットを筆頭とした情報技術(IT)をアメリカ合衆国が世界に普及すると同時に英語の支配は確実なものとなり、今現在我々が垣間見れる如く、英語はもはや世界共通語として普及した。

もはや、ローマ帝国による西洋列強およびその影響圏においてのラテン語の普及を見るがごとく英語は世界の支配言語となった。 

ここで、英語をラテン語を比較してみましょう。ローマ帝国の支配を英米による世界覇権として見れば、ローマン・カトリック教会による政治的影響を大英英 帝国による商業活動とアメリカ合衆国によるITの普及として見ることができます。つまり、たとえその言語を生み出した文明および国家が衰退もしくは崩壊 したところで、その文明および国家が生み出した遺産が普及し続ける限りそこで使用されている言語は普及し続けます。 

アジア諸国を訪問されたならば解りますように、割に身分の低い人々の間でも訛った英語が話されています。それはあたかも、中世ヨーロッパにおいて諸地域 に住む平民たちが訛ったラテン語(後のフランス語やスペイン語、ドイツ語、イタリア語など)を話している風景に似ているのではないか? また、ヨーロッパにおいても英語は公用語である。 数十年前までフランスはフランス語の覇権を譲らなかったが、最近は降伏し、グローバル化された世界に国民を適応させるために英語教育を徹底している。 中国ですら、各地域の中国語はそれぞれ全く違う言語であり、違う地域の中国語同士で話しても意思の疎通ができない。 故 に、英語を公用語として取り入れる政策を最近はとっている。 正に、大英帝国支配当時のインド半島の諸民族を統一するために英語を公用語としてインド総督 府ができ、やがて独立したインド共和国においても英語が公用語であるのにそっくりだ。 

一度身についた習慣というものはなかなか取れない。そして、国家間の貿易活動が活性化されればされるほど英語の使用度は高まる。 

聖書においてバベルの塔の話がある。この話は、人類すべてが同じ言語を共用しかなりのレベルまで発展した統一文明ができたことに始まる。やがて、人間たちがおごぶって神の世界にまで続く塔を作ろうと試み神を貶めたために神の怒りを買った。そしてその神の怒りにより塔が粉砕され、やがて神は人々に各自 違う言語を喋らし二度と共闘して神への反抗心を抱かないようにした。 

おそらく我々は神の怒りを買い、やがて我々はちりちりバラバラになり公用語を放棄せざるを得ない時も来るであろう。だが、神の怒りが届く前で、バベルの塔の建設している最中は、我々はお互いに共通言語を使用し神へ挑戦するが如く発展を続けていくであろう。少なくとも、この文章を閲読なさっている諸氏の 間で、現在のバベルの塔にあたるものが完成間近になるまで生き永らえ、神の怒りを間近に垣間見る御仁はいるとは思えない。


5.2 トランプ政権の誕生と確かなるG0の世界

2016-11-12 18:08:55 | 国民国家の黄昏にて
トランプ政権が誕生した。 この出来事については特に驚くことはないが、この国民国家の黄昏にて、アメリカ合衆国もその潮流の真っただ中で苦闘していることを改めて痛感する。 アメリカ国民が国際情勢への関与に伴う国際貿易の活性維持というグローバリストのリーダー国家的立場から国際情勢の波乱からは距離を置き内向的な自国の国益を中心とした国家政策へ立ち返ることを希望した。 よもや、アメリカ合衆国が世界を翻弄する立場から翻弄される側になったといえる。

そもそも、トランプ氏が異端だと言われていたが、アメリカ合衆国の歴史を垣間見ても、共和党からの候補者として特に異端とはいえない。 そもそも、党の指針に従う大統領を選出してきた民主党とは異なり、共和党は民主党とも共和党の主流派とも違う異色の大統領を輩出してきた。 最大多数の国民の要求を満足させることを重視しアメリカの治安維持と富国強兵を目指すために今までにない政策を実施したセオドア・ルーズベルト大統領。 中毒的な産軍複合体からの脱却を目指すと同時にアメリカと世界の秩序維持に不可欠な軍事力を維持し、自由市場を重んじながらもインフラなど不可欠な公共投資を維持し、政策の左右のバランスを維持し実利的な経済政策を掲げたドワイト・アイゼンハワー大統領。 そして、大衆扇動的な派手なパフォーマンスと近づきがたいエリート色の強い政治家のイメージを払拭したドナルド・レーガン大統領。 また、レーガン氏の大統領の理想像は民主党大統領のフランクリン・ルーズベルトであった。 この歴史的背景からも共和党が異色の大統領を選出することはめずらしいことではない。

だが今回の出来事は1,2世紀ぶりの大変動であることには変わりはない。 もともと、アメリカ合衆国は自ら好んで世界の覇権国家となったわけではない。 ヨーロッパ列強の覇権支配が終わると同時に、自由主義側の貿易路の治安維持と国際情勢の安定の仲介国家としての素質を残していたのがアメリカ合衆国のみであった。 そもそも、19世紀まではアメリカ合衆国は、当時は無謀と考えられていた独立した共和制下の自由民主主義を実践した国家として注目を集めていたものの、覇権国家としての国力も乏しく国民も覇権国家としての意識はなかった。 アメリカ合衆国がじょじょに世界情勢へ関与し始めたのも、西欧列強との国際外交での利害関係にての小競り合いと、自由主義体制のもと成長拡大していった経済活動によるものである。 

また、アメリカ合衆国を歴史の浅い国との評価が多いが、これは間違いである。 近代的政治および近代的経済を学ぶ上でアメリカ合衆国の歴史ほど内容が濃く造形が深いものと評価できる。 特にアメリカ独立、南北戦争、そして世界の覇権国家へ変貌した20世紀など、政治と経済にての思想と構造の変化において実に参考になる。 

アメリカ合衆国の政治思想は理想主義対現実主義および拡張主義対内向主義の二次元の分布帯によって分類させる。 

 理想主義+内向主義:ジェファーソン主義
アメリカ建国の理念である政治思想。 独立当時において不安定要素が懸念され無謀とされていた世襲君主の不在な独立した共和国において自由主義経済と民主主義によって運営させるという今までにない理想国家像の創設を原則とした。 現在においては、建国当初の理念に立ち返り、国際政治への干渉よりも、国家権力が国際外交だけでなく国家内政にたいしても干渉をさけることを指針とする、理想の自由民主国家としてあり続けることを主張する。 おもにリバタリアン(自由意志論)および共和党のロン・ポール氏の思想がこれにあたる。

 現実主義+拡張主義:ハミルトン主義
アメリカ建国においてジェファーソン主義の不安定要素を怪訝し、現実的に国家の運営維持に必要不可欠な安定的経済成長とその基盤となる治安維持を重視した政治思想。 アメリカが敵対した当時のイギリスの行政と司法を模範した部分が多く、当時のアメリカ人の一部からも反発があったものの、安定した国家統治と経済成長にとって実利的な政策であったため、当時から現在に至るまで多く参照される。 自由民主主義の理想像を追いかけるよりも、拡大する経済圏の治安維持と継続発展に必要な連邦政府と中央銀行など中央集権的組織は必要不可欠と考える。 連邦党、ウィッグ党、昔の共和党の主流派を成す政治思想であり、政治家だけでなく政治に影響を与えるウォール街(金融街)や巨大産業へ従事するビジネスパーソン等の思想がこれにあたる。 

 理想主義+拡張主義:ウィルソン主義
20世紀に民主党政治指針を大改革しモンロー条約を無視し世界情勢への干渉を強めたウッドロー・ウィルソン大統領の政治思想から由来する。 だが、ウィルソン大統領以前からもウィルソン主義的な著名な政治家は各党に存在していた。 自由の国アメリカの統合を維持発展させるための連邦政府の州政府と全国民への徹底した干渉を執行したアブラハム・リンカーン大統領もこの部類に入るとも思われる。 ジェファーソン主義とハミルトン主義を組み合わせた政治思想であり、20世紀以降において世界的影響を誇示したアメリカ合衆国の主流政治思想である。 ウィルソン大統領が分権主義を主張する政党であった民主党を大払拭したときから、常に民主党大統領が執行してきた政策の原則となる。 自由民主主義を保つためには、アメリカ一国だけでなく世界中がオピニオンリーダーであるアメリカを中心に団結し協力しあうことを主張する。 そのため国際連合やIMFなど国家を超えた超国家的中央主権組織の必要性を主張する。 

 現実主義+内向主義:ジャクソン主義
もともとジェファーソン主義から分裂しジェファーソン主義よりも大衆に馴染みやすく簡略化された政治思想である。 深い哲学的な背景や複雑な国際経済の理解よりも、直に伝わる大多数の国民の要求と短期的に国益に還元される政治指針と経済政策を重んじる。 アンドリュー・ジャクソン大統領自身は自分をジェファーソン主義者と位置付けていたが、ジェファーソン本人およびジェファーソン主義者からは異端とされた。 自由の国アメリカの国民であることを誇りに思うアメリカ合衆国の庶民にとってもっとも支持されている政治思想であるが、中央政府の政治家および経済世界のエリート達からは無視されがちであった。 拡張する中央集権の軋轢に反旗を翻したティーパーティおよび、今まで声を潜めていたがついに政治表舞台への影響をあらわにしたサイレントマジョリティと呼ばれる多数派庶民の政治思想がこれにあたる。

今回のトランプ・ブームはつい最近まで中央政府の主流から無視され続けてきたジャクソン主義者たちの反撃といえる。 西欧列強の覇権の衰退と同時に偶然グローバル世界の覇権国家となったアメリカ合衆国において初めてのジャクソン主義者の大統領の誕生である。 この動向が意味することは、アメリカ合衆国のグローバル発見国家としての任務を解くもしくは軽減させたいという多数派アメリカ国民の願いを反映する。 ただ、金融街のエリートおよび巨大産業群は、アメリカ合衆国が世界の警察として国際世界の貿易路の治安維持へ尽力し続けることを願っている。 故に、今後しばらくの間アメリカ合衆国は、この庶民層とエリート層が対立しあい、その間での妥協した政策を執行していくものと予想される。 

最近の国際政治経済において、欧米以外の新興国群が軒並み台頭しよもや欧米だけが世界の政治と経済の中心でなりえない。 特に東西冷戦の終了とともに、経済活動を行う上での政治的な障害がなくなったため、国家の枠を超えた法人と個人のグローバル経済活動が活性化された。 その中で国家群が法人と個人を管轄することが難儀となり、一国家の政策で経済そのものを制御することがほぼ不可能となった。 つまり、どの国家も世界経済とそれを支える政治情勢を操る力を持ち合わせない。 今までは国家が経済という生き物を利用し制御してきたが、今では経済そのものが国家群の制御力を凌駕するまでに肥大した。 

そして、その中で生産手段の拡張できる許容力が飽和状態となり経済成長が停滞した先進国群と、政治的障害により悩まされず経済競争の中で成長を実現した新興国群との間は縮小している。 この中で、突出して権力のある国家は無くなっているため、覇権国家が不在の状態となる。 つまりG0(ジーゼロ)の世界である。








4 最後の国民国家としての日本

2016-11-04 18:21:44 | 国民国家の黄昏にて
このグローバル資本主義という世界変化の潮流においての日本について少々述べさせていただきたい。 ヨーロッパ諸国は賛同と妥協を繰り返しながらもヨーロッパ内での政治的かつ経済的な共栄圏を維持し続ける。 アジア、中東、アフリカ、中南米の新興国群はグローバル資本主義の利便性からその欠点を補う努力に勤めながらもこの潮流に身を任せていく。 その中で日本は、地理的に孤立した環境にあることと、おおまかにみて経済的にも文化的にも独立した環境にあるため、諸外国に比べてグローバル資本主義からの圧力と影響は低い。 つまり、グローバル資本主義の恩恵を受け入れにくい環境である反面、その難点から被る波乱に対する抑止力もあるといえる。


まず、経済のボーダレス化においてはおおまかに下記5つの条件が必要とされる。

ミクロ経済的にみて:
① 国内および国外との間の人と物の行き来が盛んである。
② 互いに国境をまたいだ貿易が盛んであり、比較的為替が連動している。

マクロ経済的にみて:
③ 財政収支が安定しているため、自国の金融政策の余剰貨幣供給に頼る必要がない。(この点で地中海諸国がユーロ経済通貨同盟への加盟に批判がある。)
④ 経済的取引が盛んな国家群との景気変動が同調している。(中央銀行の金利や貿易における為替リスクに影響)

経済学の視点以外からみて:
⑤ 政治目標、文化的背景に共通する部分が多く、社会面で安定する。


①と⑤について: 日本もだいぶ数多の国々の人々の往来を見かけるようになった。 しかし、著者自身、諸外国を旅をしてきて感じたことでもあるが、諸外国に比べればまだまだ日本の多民族色は薄く、外国人の日本への定着度も低いようにみられる。 そして、若年層日本人の外国への興味が薄らいでいることもよく言われている。 

この問題は経済政策的な背景だけではなく、日本の文化的かつ地理的な背景もある。 世界の世間一般においては日本をアジア諸国と一緒くたにする傾向があるが、日本はアジア諸国とは全くの異色な文化をもつアジアとは違う独自の文明である。これは著者が諸外国を訪問した経験および日本の国内外にての外国人との交流からも強く感じたことである。 故に①と⑤の条件は満たしていないといえる。


③について: まず国家のGDPの2倍ほどの借金を背負っている国において③の条件は満たされない。 ユーロ経済通貨同盟への加盟においても国債を国家GDPの60%まで抑える条件がある。 通貨統合を行わないにしても、財政の健全化は諸外国への信用度につながる。 ただ、日本はこれだけ借金を抱えていても国際貿易において一定の国際的信用度が保たれている不思議な国であり、この状況をどう見るかは賛否両論とされている。 結局、③の条件を満たしているかという選択では否といえよう。


②と④について: 既に、日本は1億3千人の人口を有する大国であり、南北に長い数多の気候風土を有する連合国家のような存在である。 また、衰退の傾向はあるものの、総合的生産力も高く、数多の産業が栄え存在している。 更に持前の効率的に資源使用を使用する技術力の高さを駆使すれば、現在において低い食物自給率も改善の余地はあると思われる。 

自由国際貿易における効果はその国の経済規模と成熟度によって伸縮するという研究結果がある。 自由貿易そのものは競争の正の成果と分業による効率化など数多の国に恩恵をもたらす。 しかし、自由貿易で他国とフェア競合するだけの余力の無い国家もあれば、大概の製品とサービスが自給自足できる大規模な産業が成熟し国際貿易にそこまで依存する必要のない国家もある。

日本も国際貿易において活躍をしているが国際貿易に更に依存する必要はない国家とみることができる。それゆえに諸外国との景気変動の同調性はこれからも低く、②と④の条件は満たさない。 



ただ、完成した国民国家の枠組みを保ち続ける中でも、日本にとってのグローバル資本主義の便利性および他国からの日本とのつながりを求められる立場によりグローバル資本主義世界の一員から外れることは無いであろう。 国家経済は成長し成熟段階に差し掛かると、労働力への需要は縮小し、失業が増える。 また、国家経済の成長が完結し、拡張する経済共栄圏への加盟することもない日本は、今までの経済成長という目標を見失うため、これかは統一された国家機関が日本国民一人一人に目標を明確に与えることもないであろう。 

その中で自分が何をしたらいいかわからないという国民個人が増え、前章に述べたアノミー化の問題がでてくるであろう。 だが、それと同時に国家が国家権力に逆らわない限りは必然的に国民全員に多元性を認めざるを得なくなる。 その中で日本人個人がそれぞれ自分自身で精神的に満たされた生きる価値観を見出していかなければならないことは、幸いでありかつそれと同時に重荷でもある。 

この激しく移り変わる世界経済情勢において、おそらく日本のみが独立した国民国家として存続する最後の国となりうるであろう。 だが独立した国民国家の経済と政治体制を保っていると同時に激動の世界経済の中で生きている限りは必然的にグローバル資本主義という潮流の中で利点を生かしつつ難点により悩まされ続ける。 また、この流れは止められないが、激流を和らげることは可能であろう。 どのような政治経済を施していけばいいかという具体的な答えはあえて出さないが、あえてその流れにあることを自覚しながら抵抗と適応に努めていく必要があることだけは提案しておきたい。