人はあらゆる夢に描いた理想と現実的な利権などを追い求めてその時代と状況に応じて政治制度を発案し実行してきました。しかし、封建主義、自由民主主義、そして社会主義においても国家共同体を支配統一する単一の国家行政組織が指揮をとって執行してきました。 どのような政治制度を運用していても、多数の人間個人の意見がまとまらなず意見不一致になったときに一原則をもった制度が破たんしたり物事の意志決定が進まない状況が出てくることもあるでしょう。そこで現在運営している政治制度の一貫性と推進性を保つために唯一最終決定権をもった権力を独占する組織が必要とされ、それが国家とその行政という権力であります。それ故に、自由民主主義のように個人間の機会均等を、社会主義のように結果的な平等を原則的に約束していたとしても、最終決定権を与えられていた国家権威の中枢を担う個人が誰よりも不平等に富と権力を独占する機会を保持しておりました。
そして、国家行政という単一の行政組織を廃止し個人どうしが集まり密な話し合いで政治政策を執行することを掲げていた無政府共産主義においても国家とはまた別の個人を束縛する拘束力が存在しそれが問題となりました。それはそこに集う個人集団が平等に生きる権利を行使するためにその資源を分配していたわけですが、個人みんなが他の個人のみんなのために行動し思わなければならないという強力な利他の精神によって制度が維持されていました。そこで問題になることは個人が他の誰よりも突出することが疎まれ、思考を思いめぐらせるときやなにかの行動を起こすときには自分以外の他人からの承諾を得なければならないという事態です。その国家行政とは違う集団の見えない力が個人の意思と行動の在り方を定める権力のある個人の自由を束縛するものとして働きます。そう、個人の集団である社会という抽象的な力が国家や宗教に替わっただけなのです。
真に個人一人一人がそれぞれ個性のある思考をし行動できる真に独立した自由を得るためにはどうしたらよいか。世の中に存在する有限な資源を各個人の間でそれぞれの自由意志をぶつけ合わせ交渉し取引させることによって生産力向上と交易の自由化が可能になり物質的な欲求が満たしやすい世の中になりました。すでにアダムスミスが経済的な尺度での自由主義を提唱した時から物質的な自由は顕著に上がったとされるでしょう。しかし、最終的な意思決定権がいまだ、社会という抽象的な権威の所在も含め、一つまたはごく少数により独占されています。 故に、どうしても資源配当がひとりよがりな決定事項により不条理に不均衡に配分され、個人の生活状況を左右する意思決定のが抑圧されているため、多くの個人の不満は払拭されません。
これを摂理とあきらめるのではなく、国家もしくは社会に保証してもらうことを期待するのでもなく、真に個人が自分自身が納得のいく自分自身の意志で思考して行動し、自分で自身を律しながらも自分の欲求と理想を満たす努力をしてその生きた痕跡を自分の意志と能力によって築き残していく究極の自由主義を唱えた御仁のひとりがマックス・シュティルナーです。
まずシュティルナーは国家や行政組織というものに批判的でした。大昔では宗教の神の脅威、一昔前では君主の威厳に対する敬いにより多数派の個人の意思と行動を支配してきた。国民国家および社会(個人が集団化することによって生まれる目には見えない拘束力をもった権威)は、各個人等の自由と権利を守るという形式上のみの約束を提示する見返りとして、個人等にはその権力機構が実際に与えてくれる御恩よりもより多くの奉公を強いられます。全うな見返りが必ずしも約束されない国家や社会との社会契約も実体として還元される保証がなくとも、個人等がその義務と同等の見返りを得られる権利を「信じている」ということで、国家や社会との権利と義務も神の脅威も君主の権威とたいして変わらないのです。
シュティルナーは前章で述べた他の無政府主義者たちとは違い個人の欲求を正直に認め向き合うことと所有物を持つ自由を唱えた。彼の時代の無政府主義者たちの殆どが、果てしない欲求と所有物へのこだわりが他者への思いやりを奪い貧富差や権力の不均衡などの歪をうみ結果的に個人を虐げていると主張した。しかし、個人の自由意志に反した欲求を満たせる機会と結果的な所有物の分配の不均衡は、独占された権威権力の贔屓による介入により行われるとみる。シュティルナーは欲求と所有そのものを否定するのではなく、その分配を制御している権力機構に批判を浴びせている。
シュティルナー型無政府主義の特徴は、欲望などの欲求そのものは人間が生きるためのバイタリティとして認めそれを生かすことを奨励し、所有物への執着も生まれ持ってそなわった肉体への執着と個人がなにかを成し遂げたときに得る代償として認めたような解説をしていました。 彼の文章はどこか宗教的な雰囲気もあり精神論的なニュアンスも彷彿させていたため物質世界においての具体的な説明となりにくい部分もあります。 だが、彼の思想に共感した個人主義に基づいた新しい無政府主義者の殆どがシュティルナーの言葉から影響を受けそれぞれ思想家たちにそれぞれの解釈をされていきました。
シュティルナーの人生観はどこか人間個人が一匹オオカミとして生きるように説いていると誤解をされがちであるが、人間個人は一人では生きていけないことも承知しているように見受けられます。だから、個人同士があつまる共同体および個人同士の間の契約の必要性も説きました。 従来の政治制度における共同体(国家や社会)と契約(法治や商業)とは違い、大きな権力に依存せず、その各々の時場所状況により個人等お互いが納得しあった形で自然発生に生じるものを提案した。彼の提案する共同体と契約は常に絶対的な権力により保証されるのではなく、その時々の場所と条件に応じて生まれては消えるものであります。
おそらくシュティルナーの描いた世界図はアダム・スミスの描いた世界図よりも更に広範囲に記したようなものでしょう。物質やサービスだけでなく、共同体や契約も個人等の必要性と欲求に応じて自由に交渉し獲得されるようにしたかったように見えます。ただ物やサービスと違い物質的に感知しにくい信頼や意志を扱っていくものなので意見の不一致等が起こりやすくまたそれによる争いが起こりやすくなるという批判もあるでしょう。ですので、実践が困難にとらえられ未だ実践した文明はありません。 ただ彼の影響を受けた多くの思想家がこれを理想論として諦めず、実践への試みの希望を忘れず、あらゆる権力を独占する組織や概念に対しての闘いに挑むときに自分の意志がブレないように維持する原則として信望し続けてきました。
シュティルナーの時代は国家と社会が宗教や封建君主に替わる新たなる権威として強調されていましたが、私たちの住んでいる現代世界においては国家や社会に替わる疑わしい大義名分をかかげて我々個人の自由を束縛する権威が台頭している可能性があることを念頭に置いておかなければなりません。物質的な感覚とは違い感知しづらいものですので、常に意識を払うのが難しいでしょう。ですので、政治的、社会的、精神的な自由主義の達成は経済的な自由主義よりも思い描くのが困難でしょう。ですが、自分が自分の意志で動き考え真に自分の納得した人生を歩むことを志したのであれば、シュティルナーの掲げたような究極の自由主義を常に意識し実践への可能性を諦めず望み続けることとなるでしょう。
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前章に戻る:【無政府理論とマルクス主義:ヘーゲル左派】
そして、国家行政という単一の行政組織を廃止し個人どうしが集まり密な話し合いで政治政策を執行することを掲げていた無政府共産主義においても国家とはまた別の個人を束縛する拘束力が存在しそれが問題となりました。それはそこに集う個人集団が平等に生きる権利を行使するためにその資源を分配していたわけですが、個人みんなが他の個人のみんなのために行動し思わなければならないという強力な利他の精神によって制度が維持されていました。そこで問題になることは個人が他の誰よりも突出することが疎まれ、思考を思いめぐらせるときやなにかの行動を起こすときには自分以外の他人からの承諾を得なければならないという事態です。その国家行政とは違う集団の見えない力が個人の意思と行動の在り方を定める権力のある個人の自由を束縛するものとして働きます。そう、個人の集団である社会という抽象的な力が国家や宗教に替わっただけなのです。
真に個人一人一人がそれぞれ個性のある思考をし行動できる真に独立した自由を得るためにはどうしたらよいか。世の中に存在する有限な資源を各個人の間でそれぞれの自由意志をぶつけ合わせ交渉し取引させることによって生産力向上と交易の自由化が可能になり物質的な欲求が満たしやすい世の中になりました。すでにアダムスミスが経済的な尺度での自由主義を提唱した時から物質的な自由は顕著に上がったとされるでしょう。しかし、最終的な意思決定権がいまだ、社会という抽象的な権威の所在も含め、一つまたはごく少数により独占されています。 故に、どうしても資源配当がひとりよがりな決定事項により不条理に不均衡に配分され、個人の生活状況を左右する意思決定のが抑圧されているため、多くの個人の不満は払拭されません。
これを摂理とあきらめるのではなく、国家もしくは社会に保証してもらうことを期待するのでもなく、真に個人が自分自身が納得のいく自分自身の意志で思考して行動し、自分で自身を律しながらも自分の欲求と理想を満たす努力をしてその生きた痕跡を自分の意志と能力によって築き残していく究極の自由主義を唱えた御仁のひとりがマックス・シュティルナーです。
まずシュティルナーは国家や行政組織というものに批判的でした。大昔では宗教の神の脅威、一昔前では君主の威厳に対する敬いにより多数派の個人の意思と行動を支配してきた。国民国家および社会(個人が集団化することによって生まれる目には見えない拘束力をもった権威)は、各個人等の自由と権利を守るという形式上のみの約束を提示する見返りとして、個人等にはその権力機構が実際に与えてくれる御恩よりもより多くの奉公を強いられます。全うな見返りが必ずしも約束されない国家や社会との社会契約も実体として還元される保証がなくとも、個人等がその義務と同等の見返りを得られる権利を「信じている」ということで、国家や社会との権利と義務も神の脅威も君主の権威とたいして変わらないのです。
シュティルナーは前章で述べた他の無政府主義者たちとは違い個人の欲求を正直に認め向き合うことと所有物を持つ自由を唱えた。彼の時代の無政府主義者たちの殆どが、果てしない欲求と所有物へのこだわりが他者への思いやりを奪い貧富差や権力の不均衡などの歪をうみ結果的に個人を虐げていると主張した。しかし、個人の自由意志に反した欲求を満たせる機会と結果的な所有物の分配の不均衡は、独占された権威権力の贔屓による介入により行われるとみる。シュティルナーは欲求と所有そのものを否定するのではなく、その分配を制御している権力機構に批判を浴びせている。
シュティルナー型無政府主義の特徴は、欲望などの欲求そのものは人間が生きるためのバイタリティとして認めそれを生かすことを奨励し、所有物への執着も生まれ持ってそなわった肉体への執着と個人がなにかを成し遂げたときに得る代償として認めたような解説をしていました。 彼の文章はどこか宗教的な雰囲気もあり精神論的なニュアンスも彷彿させていたため物質世界においての具体的な説明となりにくい部分もあります。 だが、彼の思想に共感した個人主義に基づいた新しい無政府主義者の殆どがシュティルナーの言葉から影響を受けそれぞれ思想家たちにそれぞれの解釈をされていきました。
シュティルナーの人生観はどこか人間個人が一匹オオカミとして生きるように説いていると誤解をされがちであるが、人間個人は一人では生きていけないことも承知しているように見受けられます。だから、個人同士があつまる共同体および個人同士の間の契約の必要性も説きました。 従来の政治制度における共同体(国家や社会)と契約(法治や商業)とは違い、大きな権力に依存せず、その各々の時場所状況により個人等お互いが納得しあった形で自然発生に生じるものを提案した。彼の提案する共同体と契約は常に絶対的な権力により保証されるのではなく、その時々の場所と条件に応じて生まれては消えるものであります。
おそらくシュティルナーの描いた世界図はアダム・スミスの描いた世界図よりも更に広範囲に記したようなものでしょう。物質やサービスだけでなく、共同体や契約も個人等の必要性と欲求に応じて自由に交渉し獲得されるようにしたかったように見えます。ただ物やサービスと違い物質的に感知しにくい信頼や意志を扱っていくものなので意見の不一致等が起こりやすくまたそれによる争いが起こりやすくなるという批判もあるでしょう。ですので、実践が困難にとらえられ未だ実践した文明はありません。 ただ彼の影響を受けた多くの思想家がこれを理想論として諦めず、実践への試みの希望を忘れず、あらゆる権力を独占する組織や概念に対しての闘いに挑むときに自分の意志がブレないように維持する原則として信望し続けてきました。
シュティルナーの時代は国家と社会が宗教や封建君主に替わる新たなる権威として強調されていましたが、私たちの住んでいる現代世界においては国家や社会に替わる疑わしい大義名分をかかげて我々個人の自由を束縛する権威が台頭している可能性があることを念頭に置いておかなければなりません。物質的な感覚とは違い感知しづらいものですので、常に意識を払うのが難しいでしょう。ですので、政治的、社会的、精神的な自由主義の達成は経済的な自由主義よりも思い描くのが困難でしょう。ですが、自分が自分の意志で動き考え真に自分の納得した人生を歩むことを志したのであれば、シュティルナーの掲げたような究極の自由主義を常に意識し実践への可能性を諦めず望み続けることとなるでしょう。
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